文月11
「祢子ちゃん、祢子ちゃん」
遠くから誰かの呼んでいる声が近づいてくる。
祢子はようやく目を上げた。
「祢子ちゃん、もう帰らないと」
トドさんがそこにいるのに、祢子はびっくりした。
そうだ、ここは、トドさんの図書室だった。
「もう帰らないと、おうちの人が心配するよ」
祢子は、がばっと立ち上がった。
そうだった。
帰りが遅くなって怒られたのは、ついこの前だ。
胸がきゅうっと縮む。
帰らなきゃ。また怒られる。今度はもっとひどいだろう。
「すみません、今、何時ですか?」
「だいじょうぶ。今から帰ったら、五時くらいにはおうちに着くと思うよ」
祢子は安心して、気が抜けた。
目の前のマンガを、一巻からきれいにそろえて、元の本棚に持って行く。
十冊はさすがに重いが、祢子は他のことを考えている。
思ったより進まなかった。六巻に入るところまでだった。
でも、ここなら、きっとまた読ませてもらえる。
本棚までついてきてくれたトドさんが、マンガを受け取って、元の位置に入れてくれた。
「取りやすいように、あとで、下の方に移しておこうね」
よかった。また今度があるみたい。
「ありがとうございます」
祢子は、トイレに行きたくなった。
ずっと読むことに夢中で、我慢しながら読んでいたのだ。
「あのう、トイレに行ってきます」
「どうぞ」
廊下の突き当たりまで走ると、古くてみすぼらしいドアがあった。
ここだろうか?
おそるおそるドアを押してみる。
暗い。
すぐ内側のスイッチを押すと、蛍光灯が、チカチカとためらいながら、やっとついた。
明るいとは言い難い。まだ時々、ちらちらと光が震える。
床も壁も天井もコンクリートむき出しで、ひどく冷たい感じがする。
いかにも、何か怖いものが出そうだ。
男性用のトイレの奥の個室に、和式の水洗トイレがあった。
男性用と一緒なんだ。余計に不安が増す。
しかし、背に腹は代えられない。
祢子は、そそくさと用を足し、汚していないかチェックしてから個室を出て、手を洗った。
手洗いの前の鏡は絶対に見ないように気を付けた。
ドアを開いて出ると、廊下にトドさんが待っていた。
祢子は、またトドさんのあとについていく。
入って来た階段を上がるのかなと思っていたら、トドさんは階段に向かって右の壁にカギを差し込んだ。
よく見ると、そこに小さく目立たないドアがあった。
トドさんはドアを開いて、窮屈そうに身を屈めながら入り口をくぐり抜けた。
祢子は屈まなくても通れた。
入り口を抜けると、トドさんは背を伸ばして、持っていた懐中電灯であたりを照らした。
トドさんより少し高いくらいの高さ、トドさんが二人並べるくらいの幅の、真っ暗な四角いトンネルが、果てしなく続いている。
「ここを行くの?」
「そう。探検隊みたいだろ?」
トドさんの靴音がかつんかつんと響く。
トドさんは足元を照らしてくれるが、先が良く見えないので、祢子はうまく歩けない。
「手をつなごう」
トドさんが後ろ手に祢子を探しながら言った。
祢子は、右手を上げて、その手をつかんだ。
骨ばって温かく、少し湿っぽい。
歩きやすくなった。
「抜け道みたい」
つぶやくと、思いがけず声が大きく反響して、祢子は飛び上がった。
「そう、本当に抜け道なんだよ。
ぼくの棲み処はね、軍の施設になるはずだったんだ。
……一億玉砕を叫んだやつらが、作戦本部と号して、隠れるためのね。
戦後のごたごたで忘れられて、もう知っている人間はいない。
この通路も、その時造られた物さ。逃げ道まで作って、用意周到だよね」
トドさんの声も反響する。
言っていることの半分も理解できなかったが、なんとなくすごい秘密の匂いがして、祢子はどきどきした。
思ったよりも早く、トンネルの終点に突き当たった。