文月3
「祢子ちゃん。約束通り、ぼくの家に来ない?」
のどぼとけが、ひょこひょこと蠢いた。
抑えた低いかすれ声は、どこか甘い。
「もう、今日は、遅いから……」
母さんが、心配しているかもしれない。祢子は気が気ではなくなってきた。
「もちろん、今日じゃなくて。もっと、時間がある時に来ればいい。本を読むには、時間が必要だろ」
「うん。でも……」
「おうちの人には、友だちの家に行くって言えばいいよ。だって、本当に友だちだろ?」
「そうだけど」
「マンガなら、『鉄腕アトム』も『ドラえもん』も、『まことちゃん』も、『エースをねらえ』もあるよ。
本なら、福音館の古典童話シリーズが全巻そろってるよ。
『メアリー・ポピンズ』は読んだことある? ギリシャ・ローマ神話は?
図鑑も画集もあるよ」
祢子は、弾かれたように目を上げた。
トドさんと目が合った。
きらきらしている。大人の男の人じゃないみたい。
「そんなにあるの?」
「うん」
トドさんは、にっこりした。
悪い人には見えない。
どれもこれも読みたいものばかりだ。学校の図書館にも無いし、買ってもらえそうにもない本ばかり。
それが、今、手が届くところにある。
手を伸ばしさえすれば。
「……じゃあ、今度の土曜日、お昼から、いい?」
祢子は、手を伸ばしてみることにした。
宝ものは、いつだって危険を冒さなければ手に入れられないのだ。
「もちろん、いいよ」
トドさんは、本当に嬉しそうに、くしゃっと笑った。
その無邪気さに、祢子の警戒心は、雲散霧消した。
「ああ、初めてだから、ぼくの家がどこかわからないだろ。
そうだな。探偵ごっこにしようか」
「探偵ごっこ?」
「そう。ぼくの家を探し当てるゲーム。
いいかい。ここの、すべり台の裏側に、ぼくがなぞなぞを貼っておく。
それを解いて、次のポイントに着いたら、そこにも謎を隠しておこう。
そうやって次々に謎を解いて、見事にぼくの家までたどり着いたら、ごほうびをあげるよ」