文月2
今日祢子は、忘れ物をして、放課後反省文を書いていた。
忘れたのは、たったの消しゴム一個だった。
黙っておこうか、わかりゃしない、と、一瞬魔がさしかけた。
以前、下敷きを忘れたクラスメートが先生に申告したことがあった。
みんなの前で、先生に「正直で偉い」とほめられていた。
それに、書き間違えて消せなかったら、先生にはきっとわかってしまう。
黙っていて発覚したら、先生は何倍も怒るだろう。
それよりは、反省文の方がまだましだ。
反省文は、わら半紙の表と裏に、びっしりと書かなければならない。
罫線は無いから、字の大きさは自由なはずだ。
が、字が小さければ小さいほど「ちゃんと反省した」とほめられる。
祢子は今まで反省文を書いたことが何度もあった。
だから、だいたい何を書けばいいかわかる。
だが祢子の良心や気力や知力を総動員しても、消しゴム一個忘れたことへの反省は、泉のように湧き出るとはいえなかった。
仕方が無いので、昨夜からの自分の行動を振り返ってみせた。
宿題の時に消しゴムを使って、その後お風呂に入って、明日の準備をして。
どの時点で気が付けばよかったのか。
それで表が埋まり、あとは裏だけになった。
消しゴムを忘れたことで自分がどんなに困って、人にどんなに迷惑をかけたか。
大小思いつく限りの困難と迷惑を並べて、もう決して忘れません、とクドクド誓ってみせた。
やっとできた。
教室で仕事をしていた田貫先生に「できました」と提出すると、「はい。早く帰りなさい」と言われた。
やり遂げたと一種爽快感を覚えたのは一瞬だった。
なんだか祢子の脳みそはくたくたに萎びていた。
かーこには先に帰ってと言ってしまった。一人で帰らないといけない。
母さんは遅いと心配しているかもしれない。
反省文を書いていたなんて言えない。委員会があったということにしよう。
人気のない、床も土間もべちょべちょに濡れた薄暗い昇降口。
靴下が濡れないように爪先立ちで上靴を脱いで下駄箱に入れ、靴に履き替えた。
雨は小止みになっている。
おっと、傘を忘れるところだった。急いで傘立てから自分の傘を取ってくる。
五時半を過ぎていたが、まだ外は明るい。
祢子は、傘を前後に振りながら早足で帰り始めた。
学校が斜め左後ろに見えなくなって、人家も途切れた。
川べりに高い草むらが続くあたりは、人気もなくなる。
祢子は思わず走り出した。
やっと道路脇にまた人家が現れた。
走るのをやめたが、心臓のどきどきはなかなかおさまらない。
小さい公園が見えてきた。ちらりと横目で見る。
トドさんが、立っていた。
祢子は思わず立ち止まった。
トドさんは、ごく小さく手を振ってから、公園の奥にあるすべり台の陰に消えた。
祢子は、周りをさっと見回した。誰もいない。小走りで、トドさんの後を追う。
すべり台の向こうに行きかけて、祢子はつまづきそうになった。
すべり台の陰にトドさんがしゃがんでいた。
トドさんは祢子を見上げて、「おっと」と言いながら手を差し伸べた。
祢子がすばやく体勢を立て直したので、その手はむなしく空中を支えて、下ろされた。
ふわっと、男の人がつける整髪料の香りがした。祢子の心臓はまたどきんと跳ねた。
トドさんが、にこっと、歯を見せて笑った。
笑った時にのぞいた前歯が、白くきれいになっていることに、祢子はびっくりした。
歯医者に行ったのかな。でも、そんなこと聞くのは失礼かも。
もちろん、虫歯だらけよりは、きれいな歯の方がいいに決まっているし。
歯を見ないように視線をずらせる。
半袖から突き出ている骨ばった腕は、男の人にしては毛が薄くて、浅黒い。
ボタンを二つ外したシャツの襟から覗く長い首の途中に、のどぼとけがとびだしていた。