文月1
六月の下旬は暑く晴れた日が続いた。
七月に入ると、また来る日も来る日も雨ばかりになった。
朝から、祢子は先生の手伝いで印刷室にいた。
印刷室は狭い。
いろんな紙や印刷道具、印刷台が所狭しと置いてある。
二人でいるのは、とても窮屈だ。
祢子は、登校時に濡れてしまった服が、先生に当たらないように気を付ける。
先生は女の人の中では背が低い方だが、頑丈そうな体格をしている。
スカートをはいた胴回りは熱くがっしりしていて、半袖から覗く二の腕が太く強そうだ。
いつも教室で先生の真ん前に座っているのに、すぐ横にいると、なんだか落ち着かない。
ちびでやせっぽちの祢子なんて、弾き飛ばされそうだ。
結露で曇っている窓の外は、耳に慣れたざあざあ雨の音。
長雨で湿ったわら半紙の匂い。インクの匂い。
先生は、あらかじめ鉄筆で切ったガリ版の原紙を、輪転機のドラムに上手に巻き付ける。
原紙にインクをつけて、ハンドルを回して何枚か試し刷りをしてから、一気にクラスの人数分三十五枚を印刷した。
ドラムのこっち側に置いてあるわら半紙が、ぐるん、ぐるんと回るドラムに押し出されて飛び出すと、あら不思議。学級だよりに変身している。
田貫先生は字が上手だし、絵や図も入っていてわかりやすい。
次々に重なっていく学級だよりを読み取ろうとすると、目が回りそうになる。
「はい、毛野さん。インクが乾いたら、クラスに運んで配っておいて。
先生はちょっと、会議で遅くなるかもしれないから、朝の会は済ませておいてね。
『今日のめあて』は黒板に書いているから」
朝の会を、先生無しで。
内心おじけづいたが、祢子は「はい、わかりました」と答えた。
日直は出席番号順に、男子一人、女子一人の二人でやる決まりになっている。
今日の日直は、確か、さかした君とゆきちゃんだ。
祢子は、教室に帰ると、ゆきちゃんを見つけて、「先生が間に合わないから、さかした君と、朝の会を始めて」と頼んだ。
「え~、さかしたと~?」
ゆきちゃんは、露骨に顔をしかめた。
祢子はひるみかけたが、がんばった。
「だって、日直だから。お願い。このプリントも配って」
ゆきちゃんはじろりと祢子をにらんだが、仕方なくさかした君を呼んだ。
「さかしたー、日直でしょ。朝の会やるよ」
後ろの道具だなの前で、かいの君やそりかわ君とふざけていたさかした君は、
「え~、にっちょくう~? いや~ん、ばっか~ん、そこはだめ~え」
相変わらずおふざけモードだ。
ゆきちゃんが怖い顔でさかした君に近づくと、さかした君はきゃあ~、と言いながら逃げ始めた。
「こらあ、さかした、まじめにしてよ。先生に怒られるよ」
ゆきちゃんと祢子が口々に非難すると、
「いっつも怒られてるから、別に。い・ま・さ・ら。
告げ口したけりゃすればいいじゃん」
そりかわ君が冷たく言い放った。
「告げ口なんてしない」
祢子は、腹が立った。
「告げ口なんて、したことなんてない」
「へへ~ん、先生からひいきされてる人は、さっすが、ごりっぱだね~」
祢子は、そりかわ君とにらみ合った。
言い返したいのに、なんと言い返したらいいのか思い浮かばない。
喉の奥にかたまりがつっかえている。
クラスのみんなは、遠巻きにささやきながら見ている。だれも割って入ろうとしない。
ゆきちゃんは、さかした君も日直の仕事もあきらめて、自分の席に戻ってしまった。
横向きに座って、後ろの子とひそひそ話している。
それでも、朝の会をしないと。
祢子がそう、言い返そうとしたとき、先生が教室に入ってきた。
「何しているんですか! 日直は? 朝の会は終わったの? 毛野さん?」
「……まだです、……すみません」
祢子はうなだれる。
さかした君とゆきちゃんは、硬直している。
みんな急いでがたがたと席についた。
田貫先生が、仁王立ちになって、すううと深呼吸した。
ああ、また長い長いお説教が始まる。
あの日から、トドさんは影も形もなかった。
いつもの公園にもいないし、その近くにもいない。
初めはおそるおそる公園に目を走らせ、ちょっとほっとしていた祢子だが、あんまり会わないものだから、だんだん腹が立ってきていた。
勝手に約束していて、知らんぷりするなんて、ひどい。
本がたくさんあるなんて、嘘をついたのかもしれない。だから、隠れているんだ。