卯月
四月一日。
「健太、今日は学校あるんだってよ」
朝、ゆっくりと起きてきた健太に、祢子は、驚いた顔で言ってやった。
健太は「えっ、うそ?」と言いかけて、すぐににやりと笑った。
「ふふん、『エイプリルフール』だろ? 姉ちゃんのちゃちな嘘くらい、お見通しだって」
ふん。引っかからなかったか。他の嘘にすればよかった。
「健太、ほんとよ? あああ、もう遅刻じゃない!」
母さんが横からあわてた声を出した。
健太は急に、慌てだした。
「えっ、ほんとなの? えええ、なんでもっと早く起こしてくれないんだよお」
健太が慌ててランドセルを取りに行こうとしたとき、母さんが大笑いを始めた。
「ひどい! 母さんまで! 二人でぐるになってだますなんて! おぼえてろよ!」
健太は叫んだ。
どうせ一日遊び回ったら、全部忘れ果てているだろうに。
母さんは笑いながら目元をぬぐって、残りの家事を片付けると、仕事に出かけた。
母さんはまた、よく笑うようになった。
おじいちゃんがいなくなって、だんだんと動きも表情も以前のように穏やかになってきた。
たくさん冗談を言うようになったし、祢子も母さんと気軽に話ができるようになった。
仕事から帰って来て、こたつで少し寝転がって、それから家事を始めたりする母さんを見ると、本当によかったと祢子は思う。
母さんも、無理をしてがんばっていたのだ。
「おじいちゃんも、だいぶ落ち着いたみたい」
昨日、母さんが言っていた。おじいちゃんと電話で話したらしい。
おじいちゃんも向こうでなんとかやっているのだろう。
これでよかったんだ。
健太は、毎日外で遊び回っている。
なぜか祢子は、誘われても、健太たちと一緒に外遊びをする気になれなかった。
ちょっと前までは、あんなに楽しく遊べたのに。
○九の本屋で買ってきた本は、すぐに読み終わってしまった。
『プラム・クリーク』の続きも読みたくてたまらないが、もう買えないので、我慢するしかない。
なんでもいいから本が読みたくて仕方なくて、書棚を探したら、隅っこに『聖書』があった。
表紙は小さいが、やたらに分厚い。薄っぺらい紙に、小さい字でびっしりと印字してある。
この分なら、読むのに時間がかかるから、春休み中退屈しなくて済みそうだ。
とにかく物語に飢えていた祢子は、暇にまかせてそれを読み始めた。
旧約聖書は、物語のようでおもしろい。
荒々しい力に満ちた、仮借のない世界。
意味がわからないところは飛ばして、おもしろそうなところを読む。
特に、創世記や出エジプト記はおもしろい。
祢子が気になって仕方がないのは、アダムやカインたちが、「その妻を知った」というところだ。
顔を見た、ということだろうか? それとも人柄を知った、ということだろうか?
誰かに聞きたいが、でも、なんとなく聞いてはいけないことのような気がする。
母さんが、仕事から帰って来た。
祢子がすでに洗濯物をたたんで片付けていたので、母さんは買ってきた食材を冷蔵庫に入れて、こたつに入った。
横になる前に、母さんはいつものように新聞を開いた。
「ああ、今日は異動が載っているんだったね」
「異動って?」
「先生たちが、学校を移ったりするのが新聞に載るのよ。
ほら、たとえば、小学校はここね。
この校長先生は、今度はここの小学校に行くのよ。かっこの中は、前に勤めていた学校」
母さんは指さしながら、祢子に教えた。
「K小学校を、見てみる?」
「ううん、もういい」
祢子は、断った。もう、どうでもいい。
「じゃあ、K中学校は?」
「そっちもいいや。だって、どうせ知らない先生ばかりだし」
「まあ、それもそうね」
母さんも、小さい字を追うのがめんどうになって、新聞紙をたたんだ。
そして横になると、すぐに寝息を立て始めた。
祢子は『聖書』に戻った。
「マナ」はどんな食感なのだろうか、「エポデ」とはどんなものだろうと、想像をたくましくしていた。
だから、祢子は知らない。
K中学校の新任教師の中に、「衛藤 傑」の名前があったことを。