弥生12
健太も春休みに入ってまもなく、おじいちゃんが引っ越す日がきた。
このところおじいちゃんが忙しくしていたのは、引っ越しの準備をしていたのだ。
来た時に持って来た荷物は、ほとんど置いて行くらしい。
荷造りするのは衣類くらいで、それもさして多くない。
布団も向こうに置いてあるのを、おばさんに手入れしてもらっているから、送る必要はないという。
荷物が少ないので、引っ越しのトラックは頼まず、郵便局から送った。
残るは、おじいちゃんの移動だけになった。
あいにくの雨の日曜日になった。
父さんと母さんが、新幹線の駅までおじいちゃんを送っていくことになっていた。
祢子と健太は、朝早くから母さんに起こされて、食事もおとなと一緒に済ませた。
食後、祢子は食器の片づけを引き受けた。
おじいちゃんは仏壇の前に座って、亡くなったおばあちゃんに線香を上げていた。
母さんはばたばたと動き回り、父さんは所在無げにうろうろしていた。
前の晩に母さんが予約しておいたタクシーが、家の前に着いたらしい。
呼び出しのチャイムが鳴った。
おじいちゃんが立ち上がって、旅行カバンを手に取った。
みんなで傘をさして、家の外に出た。
雨脚が強い。
タクシーのドアが開くと、まず父さんがせかせかと助手席に乗った。
「おまえが先に乗りなさい」
父さんに言われて、母さんが傘をたたんで、先に後部座席の奥に這い込んだ。
おじいちゃんも傘をたたんで、先にカバンを入れてから、後部座席によっこらしょと乗り込んだ。
おじいちゃんが腰を落ち着けるまで、濡れないように祢子は傘をさしかけていた。
それでも、傘とタクシーの間に滂沱と落ちる雨だれが、おじいちゃんの服に染みをつくった。
あわただしくドアが閉まった。
祢子と健太は窓に近づき、ガラス越しに「おじいちゃん、ありがとう」「おじいちゃん、元気でね」と声をかけた。
おじいちゃんは、にこりとした。
雨が入らないように少しだけ下げた窓の隙間に向かって、おじいちゃんの顔が近づいてきた。
しわだらけの口元がもごもごと動いた。
「祢子も健太も元気でな。しっかり勉強して、立派なおとなになるんだぞ」
祢子と健太は、黙ってうなずいた。
助手席から父さんが、後ろに下がれと、手で追い払う仕草をした。
健太を引っ張りながら祢子が何歩か下がると、タクシーが動き始めた。
降りしきる生あたたかい雨の中、水を散らしながらタクシーは走り去った。
健太は、ぐすぐすと泣いていた。
祢子は、きゅっと口を結んで、健太を引っ張って家の中に入った。
泣く権利なんて、自分にはない。
泣いていいのは、本当におじいちゃんを愛していて、別れるのが辛くてならない人だけだ。
内心ほっとしている祢子が泣いても、ウソ泣きにしかならない。
でも、胸のつかえは、涙のかたまりとよく似ていた。
祢子は、一人で書斎に行ってみた。
おじいちゃんのにおいが、まだ残っている。
おじいちゃんの残していった古めかしいたんす、座布団、文机。
いつも几帳面に整理してあったから、いつもと変わらない部屋。
ただ、おじいちゃんがいないだけ。
もう二度と、おじいちゃんがここに住むことはないだろう。
おじいちゃんは、長旅の果てに、あっちの家にたどりついて、ほうっと息をつくだろう。
がらんとしてだれもいないけど、長年住んだ自分の家。帰るべき場所。
気を遣わない、自由。
家の外も、知った顔ばかりの、慣れ親しんだ故郷。
だから、喜んであげるべきだ。
よかったね、おじいちゃん、と。
けれど、この苦い気持ちは、一生忘れないだろう。
おじいちゃんを駅に送って、帰ってきた父さんと母さんは、気が抜けたような顔をしていた。
そしてその日は一日中、言葉少なで様子が変だった。
しかし、二、三日もすると、おじいちゃんなんていなかったかのように、元通りになった。
いずれにせよ、おとなは、毎日、ゆっくり考える暇もないくらい忙しいのだ。
おじいちゃんの気配は日を追うごとに薄れ、全てが思い出に変わっていく。
書斎には父さんの本が戻り、父さんが長い時間こもるようになった。