弥生10
祢子は、自分が胸に抱えていた本の重みを思い出した。
これが、買えるようになる。
一度はあきらめかけたのに。
祢子の胸は再び嬉しさにふくらんできた。
「あの、本当にいいんですか?」
「もちろん。だって、きみもぼくも何も損しないだろ?」
その通りだ。
「ご親切に。ありがとうございます」
「よかった。じゃ、一緒にレジに行こうか」
「はい」
祢子は、えとうさんの後ろについていく。
その背中の感じが、やっぱりとても懐かしい気がする。
思わず手を伸ばして、ジャケットの背中に触れたくなった。
祢子は自分の手を押さえた。
違う人だからこそ、余計に懐かしいのだろう。
本当のトドさんだったら、逃げたくなるに決まっている。
さっきのおばさんが、レジ打ちをしながら、
「親切な人がいて、よかったわねえ」
祢子に笑いかけた。
おばさんは、えとうさんにはもっと気合いの入った深い笑顔を向けた。
えとうさんは、おばさんの手元ばかり見ていた。
祢子は、二冊の本が入った包みと、おつりの三百円を、大切に手提げ袋に入れた。
本屋の出口で、祢子が深々とお辞儀をして、重ねてお礼を言おうとしたら、えとうさんは「たいしたことじゃないから、そんなにされると困る」と、逃げ腰になった。
本当に、親切な人だ。あんなに失礼をしたのに。
じゃあさようなら、と手を振って去っていく後ろ姿も、本当にトドさんによく似ている、気がする。
こんなことって、あるんだ。
他の本も見ようと思っていたことも忘れて、祢子は○九を出た。
まだ胸がざわついている。
えとうさんとトドさん。
トドさんとえとうさん。
本当に、他人のそら似だろうか?
あの場では、なんだかあわてて、混乱していたけれど。
やっぱり、似ているような気がする。
お互いに存在を知らない兄弟や双子だったりして。
何か陰謀があって、生まれたばかりの頃に引き離されたとか。
それとも、トドさんが記憶喪失になって、えとうさんとして新しい人生を歩んでいるとか?
頭を強く打ったり、強い精神的ショックを受けたりして、それまでの記憶を喪失する人のことを読んだことがある。
駐輪場で自分の自転車を出しながら、祢子は、考えすぎて、面倒くさくなってきた。
トドさんに、さよならを言ったのは、そんなに昔の事じゃない。
ならば、トドさんだろうが、えとうさんだろうが、自分にはもう関係が無いことだ。
今日は全く偶然に、トドさんによく似た人に会って、助けてもらった。
それでいい。
手提げ袋をハンドルに引っかけて、祢子は自転車をこぎ出した。
もう、家に帰って本を読むことしか頭になかった。
帰宅すると、まだ十一時過ぎだった。
家に入りながら、やっぱりおじいちゃんには報告しておこう、と祢子は思った。
おじいちゃんのおかげで、買えたわけだし。
おじいちゃんは、たぶん黙っておいてくれるだろう。
手提げを持ったまま、書斎の戸をちょっと叩きながら、祢子は「おじいちゃん、」と声をかけた。
「どうした?」
おじいちゃんが戸を少し開けて顔をのぞかせた。
「ただいま。あのね、おじいちゃん、この前くれた図書券で、この本を買ってきたよ」
祢子は、手提げから二冊の本を出して見せた。
おじいちゃんはちょっとそれを見て、にっこりと笑った。
「そうか。読みたい本が買えたか。それはよかった」
「この前、クリスマスにもらった本の続き。とってもおもしろかったから。……でも、父さんと母さんには黙っておいてね」
「わかった」
どこで買ったのかとも、自分一人で行ったのかとも聞かれなかったので、祢子は拍子抜けした。
なあんだ。いろいろ考え過ぎていただけか。
「あとで、お昼になったら、また呼ぶね」
「ああ」
祢子は居間に行きかけて、ふと、
「おじいちゃん、この頃テレビ見ないの?」と聞いた。
「することがあってなあ」
ふうん、とうなずいて、祢子はおじいちゃんに背を向けた。
忙しそうな様子だったけど、おじいちゃんは何をしていたんだろう、と祢子は一瞬思った。
が、すぐに、そう思ったことさえ忘れた。
よし、今からお昼まで読むぞ。