悪役令嬢に…向いてない! 密かに溺愛される令嬢の、から回る王太子誘惑作戦
令嬢たちが対峙している。
圧倒的に攻勢に見えるのは、黒い髪の令嬢。きっちりと切り揃えられた前髪の下には、見る者を凍てつかせるようなアイスブルーの瞳。
冷たい眼差しに真っ向から刺された令嬢は、彼女の放つ威圧感から身を守ろうとするように、胸の前できつく拳を握りしめ、唇を固く結んだ。
そんな彼女を見据え、氷の瞳の令嬢は、重い声で問う。
「……モニカさん、あなた……王太子殿下の婚約者に内定されたとは真の話ですか……?」
低く探るような、詰問とも取れる声音に令嬢が身をこわばらせた。
彼女の名前はモニカ・デメロー。伯爵家の一人娘。
対するは、侯爵家令嬢ヘルガ・アウフレヒト。
彼女は無口なことで有名で。モニカとは違って社交界にもあまり出てこない令嬢だ。しかし美貌は随一ということも手伝って、他の令嬢たちからは、『愛想が悪い』『お高くとまっている』と嫌われている。
そんな──ほとんど声すら聞いたことのない嫌われ令嬢に話しかけられただけでも驚きだが。その詰問の内容が、昨日知らせを受けたばかりの、自分と王太子との婚約内定の話題であったことが、モニカをさらに緊張させた。
令嬢たちの憧れの的たる王太子との婚約だ。やっかみがあるのは覚悟の上だった。
そうか、彼女も王太子妃の座を狙っていたのか。そう思ったモニカは、しかし毅然と答えた。
「は、はい、そうです……! それがどうかなさいましたかヘルガ様!」
苦労して王妃に気に入られ、やっとのことでこの座を掴んだのだ。文句なんか言わせるものかとヘルガを睨んでみたが──……
「ひっ」
じっと人形のような顔で見つめてくるヘルガの顔の迫力のあること……。ついモニカも弱気になって後退る。
と、ヘルガが瞳を細め、女の冷酷そうな風貌がいっそう際立った。
「──なるほど。そうですか、──残念です」
「……っ」
無感情に唇からこぼされた言葉に薄寒いものを感じたのか。モニカが肩を震わせた。と──ヘルガは怯える令嬢に宣言する。
「それではわたくしは──……あなたから、殿下を略奪しなければなりません」
「!」
その瞬間モニカが息を呑んだ。
どこか厳かにすら聞こえる高らかな宣戦布告に──モニカの頭にカッと血が上る。
冗談じゃないと思った。アンタなんか、社交界でろくに他の貴婦人たちに気も使わず、のうのうとしているくせに──と。モニカは腹が立って。
「馬鹿なこと言わないで……!」
家柄の差も忘れて思わず叫ぶ。が、そんなモニカにヘルガが突然頭を下げた。
「!?」
ギョッとするモニカに、ヘルガは頭を下げたまま言う。
「不埒なわたくしどもをお許しください」
恭しく頭を下げられて。だが、その恭しさが逆に小馬鹿にされているような気がしてしまった。モニカは逆上し──その言葉に滲んでいたヘルガの言葉の真意には気が付かなかった。
「い、いったい、いきなりなんなんですか! まだ正式ではないとはいえ、私は……私が王太子様の婚約者になったんですよ!? 未来の王太子妃に対して無礼な──」
しかしヘルガは一瞬困ったような顔をして。けれども怯まずに言う。
「わたくしも本当に残念です……よりによって、あなたが王太子殿下の婚約者とは。あなたでなければこうはならなかったのですが」
「な、なんですって!? 私が他の候補者よりも見劣りするとでも言いたいんですか!?」
モニカが苛立つと、ヘルガは少しだけ瞳を見開いて不思議そうな顔をする。
「? いいえ、そういうことであろうはずが──……」
「ああ! もういいです! 聞きたくありません!」
ヘルガの言葉が終わる前に、モニカは彼女の言葉を遮る。婚約者を奪うと言って来た彼女が憎くて仕方がなかった。
「そんなことをわざわざ私に宣言しに来るなんて──ゆ、許せない、私だったら殿下を奪うのが簡単だとでも!? 絶対に! そんなことさせませんから!」
「あ……」
怒ったモニカはヘルガを睨み、言い捨てて。そのまま場を走り去った。その後ろ姿を──ヘルガは黙って見送っていた。
「……と──まあ……そんなことがあったんだけど……」
そうこぼしたのは、金髪の伯爵令嬢モニカ。
ティーパーラーのテーブルにつき、友人二人の前で、打ち明け話をする彼女の顔色は青白い。そんな友の様子を、ヘルガ・アウフレヒトへの憤りのせいなのだと思った二人は、口々に悪態をついた。
「まったく、相変わらず非常識な人ね! ちょっと家柄が良いからっていい気になっているんじゃない!?」
「あれよ。多分これまでの仕返しのつもりなのよ。きっとどこからか私たちのしたことを耳に入れたのね……」
「それで? モニカ、それ以降ヘルガに何かされたの? まさか黙ってやられっぱなしだなんてことはないわよね? いつもみたいにこっぴどく困らせてやりなさいよ!」
これまでも。この国の貴族社会の中で、ヘルガと同世代のモニカは、幼少期から彼女には散々嫌がらせをしてきた。理由は単純。子供の頃から、ヘルガが際立って目立っていたからである。
こっそり舞踏会用の衣装を台無しにしたり、外出する馬車に細工させたり。王妃や高官の奥方に、彼女の悪口を吹き込んだり。
ここ数年は、そうした嫌がらせが功を奏したのか、ヘルガはもう久しく舞踏会にも出てきていない。
けれどもモニカらは、ちっとも罪悪感を持っていなかった。だって私たちだけじゃないものと。幼い頃から美貌のヘルガが舞踏会などに出てくると人の視線を集めてしまうもので。彼女を嫌う令嬢や、自分の娘の印象が霞むと腹を立てていた親たちも多かった。
相手は社交界の嫌われ者。誰もヘルガを庇うものはいない。
モニカの友人は言う。
「いいじゃない、これを機にまた懲らしめてやりましょうよ。向かってくるって言うんだったら遠慮することはないわ。で? その後ヘルガは何かしてきたの?」
友人が問うと、何故かモニカがこわばった顔で黙り込んだ。
「? モニカ?」
「…………そ……それが……」
促されたモニカは、げっそりした顔で言う。
彼女の話では、宣戦布告のすぐあと。モニカが王太子に会っている場所に、ヘルガは再び現れた。それを聞いた友人二人は眉間に不快そうなシワを寄せたが──どうにもモニカの様子がおかしい。いつもなら、言いたい放題ライバルの悪口を並べ立てて鼻で笑うのだが。何故だか今日はいやに歯切れが悪い。
友人たちは不思議そうな顔をした。
「モニカ? どうしたの?」
「ヘルガ・アウフレヒトに何かされた?」
「それが……ヘルガは──……」
そう、相変わらずの冷淡そうな無表情でやってきた令嬢は。王宮の庭園の東屋に向かっていたモニカと王太子の前に立ち塞がった。二人に気がつくと、令嬢は目を細め、モニカに鋭い視線を送ってくる。
『へ、ヘルガ・アウフレヒト!?』
モニカがギョッとしていると。その間にヘルガは王太子に丁寧なお辞儀をして。
『お初にお目にかかります王太子殿下。わたくしはヴィンデ侯の娘ヘルガにございます』
それからヘルガはモニカを見て、『先ほどぶりですねモニカさん』と言った。
そんなふてぶてしい態度の令嬢に唖然とするモニカ。しかし、今度は隣に意中の王太子がいるとあって、彼女も怒鳴るわけにもいかなかった。
『で、殿下……』
困って隣を見上げると。銀の髪の美貌の王太子が、美しい瞳を見開いてポカンとしている。
『……ヘルガ……嬢?』
王太子が戸惑いながらもヘルガをじっと見つめていることに慌てたモニカは、急いで彼の前に進み出て、ヘルガの前に立ち塞がった。
『略奪する』と、正面切って宣言してきたような娘を、自分の婚約者に接近させたくはなかった。
『ヘルガ様、お約束もなく王太子殿下に無礼ではありませんか? (※『私と王太子殿下の逢瀬を邪魔しないでよ!』)』
引き攣りそうな頬を堪えてそう言うと、しかしヘルガは動じることもなく、モニカを見た。
『モニカさん。けれどもご挨拶くらいしておきませんと。略奪も誘惑も不可能でしょう?』
『へ、ヘルガ様……っ!』
まったくこの女と来たら、王太子の前でなんという言葉を使うのだろう。モニカは呆れ、しかし、彼女のペースに乗せられてなるものかと譲らなかった。
『あの、王太子様は私にお話があるそうなのです。ちょっとご遠慮いただけませんか!?』
『あらそうですか、お邪魔してすみません。でもせっかくなので、ひとまず一度挑ませてくださいません?』
『はぁ!? あ! ちょっと!』
そう言うと、ヘルガは私が止めるのも聞かず王太子に向かって──……
と、そこまで聞いた友人たちは、興奮したようにモニカに迫る。
「何、何何!? 宣戦布告!? 宣戦布告されたの!?」
「そんな女、殿下に相応しくありません! わたくしをお選びください、て!?」
どこかワクワクした様子で聞いてくる二人に、モニカは苦々しく「違うの!」と、テーブルを手で打った。
「へ、ヘルガはね……っ」
シックなドレスを美しく風にたなびかせて言ったのだ。怖いほどに、真剣な顔だった。
『殿下……わたくしにも機会が欲しいのです。どうかわたくしと──……』
『……甲虫類探しに行きませんこと?』
「………………──て」
「──……え?」
「……は?」
がっくりとテーブルの上で項垂れて、げっそりした顔でモニカが語った内容に──友人たちがポカンとする。
が、どうやら聞き間違いだと思ったらしい。
「え、あ、ご、ごめんねモニカ。ちょっともう一度行ってくれない?」
「コウ……?」
「だから!! 甲虫類よ! 甲虫類! つまり! 虫!」
モニカは苛立ったように投げやりに言って。それ聞いた二人は顔を見合わせて──椅子の上でのけぞった。
「え何何何怖い怖い怖い」
「あ、甲虫類? 昆虫? ……ば、馬鹿ねモニカ……! あなた聞き間違えたのよ! あの気取ったヘルガがそんなこと言う訳ないじゃない、相手は王太子殿下なのよ?」
彼女は侯爵家の令嬢だ。そんな馬鹿なことを王太子に向かって言うわけがないと友人。皆、ヘルガの悪口を楽しむのは好きだったが、それは流石に作りすぎよ誰も信じないわとモニカを笑う。
──だが、モニカは必死な顔をあげて本当だと主張する。
「だって! 言ったの! 確かに言ったんだもの! ヘルガが!」
彼女は身を起こしてテーブルをドンと打つ。モニカは思い出して気味が悪くなったのか、青い顔で続ける。
「ヘルガはそれからカブトムシがどうとかクワガタがどうとか言い出して……それが尋常じゃないくらい詳しくて……それが怖くて……」
しかもとモニカ。
「意味が分からないのは……その意味の分からないヘルガの不気味な台詞をお聞きになった王太子殿下が……変だったことよ!」
「「変?」」
──その時。侯爵令嬢ヘルガに、バーンと『虫探しに行こう』と、誘われて。モニカの隣にいた王太子は、いきなり現れて血迷いごとを言い出したヘルガの言葉を聞き、一瞬ポカンとしていた。まあそれは分かる。モニカだって意味が分からなくて唖然としていた。
だが、王太子は。次の瞬間、何を思ったか──彼は顔を真っ赤にしてしまったのである。
「へ……?」
「顔を……?」
友人は瞳を瞬いて。モニカは悔しそうに再びテーブルを打ち付ける。
「殿下ったら! 顔を真っ赤にして、それから照れたみたいな顔をして口元を手で覆ってヘルガから顔を背けたの! この、私が隣にいるのに、呆然としている私になんか目もくれなかったのよ!?」
信じられない! と、感情的に訴えるモニカに、待って待ってと友人。
「いや、違う、違うわよ。だって、虫よ……?」
「そ、そうよねぇ……だってお相手は高貴なあの──メルヴィン様なのよ?」
王太子メルヴィン。若い娘たちの憧れの、この国の次期国王。
輝きを束ねたような銀の髪に、紫水晶を思わせる美しい瞳。風采もよく、知的で、国内では並び立つ者はおらぬと称されるほどの好青年である。数年前までは同盟国に遊学に出ていて、国外の王族たちとも親交が深い。勉強家で、なかなか女性に目を向けないもので、この度やっと婚約者選びが進み、やっと内定者が決められた。それが、モニカなのだった。
と、友人はまさかと言う。
「え……まさか……それで殿下がヘルガについて行っておしまいに……?」
「虫探しに!?」
二人が恐々と問うと、モニカはハンカチで目尻を抑え、スンスンと鼻を鳴らしながら首を振る。
「……いいえ……それには殿下も『私はそんなものに行くつもりはない』と。キッパリ」
「……は、はあ……」
それを聞いて二人はいくらかホッとした。あの美男子が、そんな子供のような遊びに興じていたらちょっと引く。いや、ヘルガがそれをしようと王太子に持ちかけた時点で、令嬢にはドン引きだが。
しかしモニカはまだ悔しそうである。
「だけど……それでヘルガが悔しがるのかと思ったら、あの女ったら平気な顔して『なるほど。では再考して次こそはお気に召す案をお持ちします』て……。『モニカさんごきげんよう』ですって……なんなのあの女は! 略奪の意味とか分かってるの!?」
「ま、まあまあ……いいじゃないの、王太子殿下もついていかれなかったのなら……」
「そうよ、放っておけば……? だって……まともな貴公子が虫なんて。相手になさるわけがないから大丈夫よ」
ねえ、と、目配せしあった二人は、それから少し含みのある顔でモニカを見た。
「な、なぁに?」
不思議に思ったモニカが問うと、友人たちは言う。
「その……」
「もしかしたら……本当は、ヘルガは本気で王太子様の略奪なんてする気はないんじゃない?」
「……え?」
友人の推測にモニカは瞳を瞬いた。友人は人差し指を立てて見せる。
「ほら、ヘルガの父親はヴィンデ侯でしょう? あの方は権力がお好きだし、あなたの父君とは犬猿の仲じゃない。だから、ヘルガに侯爵がお命じになったのかも。王太子殿下を奪ってものにしろって」
「え……」
「それで、ヘルガ自身はあまり乗り気ではないのじゃない? あの子は本の虫よ。人付き合いは好きじゃないはず。でもアウフレヒト家では侯爵の命令は絶対だと聞くわ……それで困ったヘルガが適当なことをして、父親の目を誤魔化してやり過ごそうとしてるのかも……でなければあんな馬鹿な誘惑の仕方がある?」
「……そ──」
友人の意見を聞いて、少し冷静になったモニカは、ハッと、昨日王太子と対面した時のヘルガのやる気のなさそうな無感情な顔を思い出した。確かにあれは、王太子が好きというふうではなかった。
「そ、そうか……それであんな馬鹿なことを……でも、王太子様のあの反応は? お顔が見たこともないくらい真っ赤で……」
「それは当然あまりにも馬鹿らしくてお怒りだったのよ。貴族の娘が殿下に向かって虫取りだなんて。侮られているとしか思えないじゃない」
「まあでも、ヘルガは侯爵の娘だし。殿下を虫取りに誘ったくらいでは、殿下がいくら怒ったとしても罰しようがない。……ある意味巧妙よね?」
「そ、そうか……そうね、確かに……」
誘惑などと言っておいて、虫取りなんておかしいと思ったのだ。そうだったのかとモニカは納得した。
ならば安心だとホッとしたのか、モニカは、やっと笑顔になった。
やれやれと椅子に座り直し、「まったく人騒がせな女ね!」と鼻を鳴らす。そしてテーブルの上で冷めかかっているお茶に気がつくと、ボーイを呼び、茶を淹れ直させた。暖かいお茶が出てくる頃には、彼女たちのテーブルの上は、いつものように侯爵令嬢ヘルガの悪口がぽんぽんと転がり回っていた。
そもそもあんな冷たい顔の女に私が負けるはずがないだとか、馬鹿を演じるにせよもうちょっと賢い手を使えばいいのに案外あの女馬鹿なのね……と、甲高い声で笑い──……
だが──……彼女たちは知らない。
その噂の主ヘルガ・アウフレヒトが、その実、とても本気だったということを。
時は少し巻き戻る。それはヘルガ・アウフレヒトが、王太子とモニカの前から去ったあとのこと。侯爵令嬢ヘルガは、難しい顔をして空を見上げていた。
「……甲虫類はダメなの? じゃあ……バッタ? バッタは低年齢向けだと思ったから遠慮したのに……失敗だったわ」
いや、おそらくそういう問題ではないが。ヘルガはおかしいわと首を捻っている。
確かにあの人は、『男は昆虫が好きだから逢瀬にはぴったりだ』と言っていたのに。いったい何がいけなかったんだろう。
「……何故なの? だって甲虫類は昆虫の花形なのでは? ……違うのかしら……それともアプローチの仕方が悪かった?」
どうやらヘルガからすると……あれはかなり真剣なデートの誘いのつもりだったらしかった……。
帰宅する道すがら、ヘルガは歩きながら没入して考えた。本日の、自分の『誘惑』の反省点について。
そもそもこのヘルガ嬢、男性だけでなく、他人のことがよく分かっていないのである。
彼女は昔から、人付き合いが苦手で。生まれた場所も悪かったと思う。侯爵家の三男四女の四女。兄弟姉妹の中では下から二番目。あまり親にも構われずに育った。
それに真面目すぎる性格のヘルガは見栄と虚構にまみれた貴族社会が理解できない。父はその権化のような男で、ヘルガとは相入れず、父もヘルガをあまり気に入ってはいないようだった。
『どうせヘルガは顔くらいしか取り柄がない』『そのうち高官の家の嫁にでもする』
父はそう言って憚らない。
ヘルガは一人で物事を深く考え込む性質で、口も上手くない。
思案している時間が長すぎて、他者の会話についていけない。これは社交界ではかなりの致命的な弱点だった。
何かを話しかけられても、問いに対し考えて、考えがまとまった時には、他の者たちは、無言のヘルガに呆れてもう別の話題に移ってしまっていることが多々。ズレた発言をするヘルガはおかしな娘だということにされる。そうしてヘルガはいっそう無口になっていき、いっそう他者と話すのが苦手になっていった。
そう。モニカたちの推測通り、ヘルガに無茶な命令をしたのは、父ヴィンデ候だ。
『政敵の娘から王太子を略奪せよ』
こんなに口下手なヘルガにそれを命じる父も父だが。父からしたら、その横暴とも言える望みを叶えるためには仕方なかったのだろう。すでにヘルガの姉たちは皆嫁いで、アウフレヒト家には、女子がヘルガしか残っていなかった。
ヘルガはため息をつく。
「ああ面倒臭いわ……そもそも略奪なんてどうしたらいいのかしら……」
ヘルガにこのような面倒ごとを押し付けた父は、王族にうまく取り入ることで、地盤を硬め、様々な商権を得て莫大な財を築いた。方々の王族や高官にヘルガの姉たちを嫁がせたのもその一環。まあ、ヘルガもいずれは自分もそうやって嫁ぎ先を勝手に決められるのだろうなとは覚悟していた。
だがまさか、父がこんな厄介ごとを持ってくるとは思わなかった。
『ヘルガ、命令だ。王太子を誘惑し、婚約者の座をデメロー伯の娘から奪いなさい』
その父の言葉を聞いた時、ヘルガは絶句した。
けれども、父は目の前でものすごい顔をしているヘルガをチラリとも見ずに、どんどん一人で話を進めていく。
父の話はこうだった。
この度、この国の王太子の婚約者が内定しそうだと、それがどうやら父の政敵の娘らしいのだと。
モニカの父も商売をやっていて、そのあたりでもよく衝突を繰り返しているらしい。
当然父はモニカと王太子の婚約が面白くない。敵の勢力を勢いづかせてなるものかと、苛立った父がそんな時、ふっと思い出したのが、自分の四女ヘルガだったわけである。
もし、王太子の婚約者に内定したのが、モニカ・デメローでなかったとしたら。きっと父もこんなことは言い出さなかっただろう。だからヘルガはモニカに会った時に言ってしまったのだ。『あなたで残念です』と。けしてあれは、モニカを侮辱するための言葉ではなかった。
モニカ・デメローといえば、可愛らしく、社交界でも指折りの花と謳われる。ヘルガは王太子のことは遠目にしか見たことはないが、麗しいと評判の王太子の婚約者としても、きっとお似合いなことだろう。
そんな令嬢から王太子を奪えとは。他の娘ならまだしも、ヘルガには無理難題にも程がある。
しかしアウフレヒト家では、家長の命令は絶対で。特に娘の意見など聞き入れられたことはない。なんとかしなければならなかった。
途方に暮れたヘルガ。
だが誰かに指南を受けたくても、母は幼い弟を乳母に預けきりで、毎日茶会や夜会三昧で家にはいない。三人いる姉たちも、とうに父に嫁がされて遠方にいる。父に似て損得勘定ばかりしている兄らは、無口で外に出たがらないヘルガを役立たずと疎んでいる。
さてどうしたものかとヘルガ。
「仕方ない……ここはやはり図書館で指南書でも探しましょう……略奪の指南書なんて、自分の貸出証に記録がつくのが憂鬱だけれど……」
悩んだ挙句、他にやりようもなく。ヘルガは王立図書館の英知に頼ることにした。が──
そこで偶然居合わせた“ある男”に相談を持ちかけた結果。ヘルガは、モニカを唖然とさせ、王太子を絶句させたあの『甲虫類への誘い』を捻り出してしまう。
──まさかそこに……その“ある男”の思惑があろうとは。外見に見合わず、意外に素直なヘルガには、思いつきもしなかった。
「………………」
王立図書館の窓際の席で、ヘルガが一人、何やらひたすらつぶやいている。
王太子に『甲虫類への誘い』をしかけて失敗した次の日のこと。
性格なのか、地味な色の服をきっちりと着込んで、姿勢も凛と伸びている。しかし生真面目そうな口元から漏らされるのは、何やらおかしな言葉であった。
「……誘惑誘惑誘惑誘惑……ゆう、わ、く……?」
繰り返しすぎて、途中で自分でも意味が分からなくなったのか、怪訝そうに首を傾げている。そんな娘の念仏のような繰り返しに、通りかかった者たちは皆気味悪そうな顔をしていたが……娘はそれには気が付かなかった。
その場所は、図書館の本館と別館とを繋ぐ通路の端につくられた読書用のスペースで。
外を臨む壁際の窓の前に、壁に沿う形で長いテーブルと椅子が幾つか置いてある。比較的人も少なく、静かな場所であった。
椅子に座った令嬢はひたすらひたすらに考えていた。
本日の議題も昨日に引き続き、“誘惑”と“略奪”について、である。
「…………」
黙り込んで本を読み続けていたヘルガが、うーんと唸った。
令嬢は難しい顔をして本を睨んでいる。そんな彼女の着席する机の上には、おびただしい数の書籍が積まれている。これらはすべて、彼女が、閉館時間までに読まんとする書物たちである。内容はすべてが恋愛小説と恋愛の指南書であった。
残念ながら、王立図書館の蔵書の中には、“誘惑”と“略奪”の指南書はなかった。
そこでとりあえず恋愛小説を片っぱしから引っ張り出してきたのだが、初恋もまだのヘルガには、とにかく内容が難しい。
「……どうしましょう……難解だわ……」
これならば、先日読み込んだ甲虫類の本のほうが、まだ分かりやすかった。
ヘルガは再び途方に暮れた。
「読んでも読んでもよく分からない……向いてないのねぇ……わたくしって本当に駄目ね……」
しみじみと悲嘆に暮れていると、不意に隣の席の椅子が引かれた。
「……あら」
「どうしましたレディ。眉間にシワなんてよせて」
顔を上げると、そこにはさらりと流れる銀の髪。銀ブチの眼鏡の奥に、菫色の瞳を覗かせた青年が一人、ヘルガの顔を愉快そうに見下ろしていた。
青年に気がついたヘルガは、片眉をあげる。
「……あらマルさん……あなた……先日男性を誘うなら、虫取りが一番だとおっしゃいませんでした? わたくし、あなたのおっしゃる通りにしたけれど、ちっともうまく行かなかったわ」
少しだけ恨めしさをこめて手持ちの本を閉じると、青年はくつくつと笑い、ヘルガの隣の席に手にしていた書を置いた。
「それは申し訳ない」
そう言って。青年は椅子を引き、ヘルガの隣に腰掛ける。と、彼はヘルガがたった今閉じた恋愛小説を見て笑った。
「おやおや、これはまた珍しい本を読んでいらっしゃる……」
笑われたヘルガはばつの悪そうな顔をした。
「仕方ないではありませんか。以前お答えした通り、わたくしは恋愛という分野に明るくないのです」
ヘルガは生真面目に言い、それからため息をついた。
──先日。父に王太子略奪を命じられたヘルガが、同じように図書館で“誘惑”と“略奪”について悩んでいた時。うんうん唸っていたヘルガに声を掛け、ことのしだいを聞き出して珍妙な助言をしたのは、このマルという青年だった。
その助言をすっかり信じていたヘルガは少しだけむくれて見せる。と、青年が彼女に聞こえぬような小声でつぶやく。
「やれやれ……まったく、素直な……」
その口元はどこか嬉しげで、むず痒そうに微笑んでいた。と、笑っている青年に気がついたヘルガが呆れたような声を出す。
「マルさんったら……笑い事ではないのですよ? あなたが当たって砕けるのが一番というから私は意を決して……初めて王太子殿下に話しかけられたと言うのに。きっと呆れられてしまったわ。父の命令だとはいえ、射止めなければならないお方に嫌われては元も子もありません……」
いつもはあまり表情の変化しないヘルガの瞳が、わずかにしょんぼりと伏せられて。青年は苦笑しながら謝罪する。
「いやいや申し訳なかった。だって私は君が誘惑したい相手がまさか王太子だとは思わなかったからね」
しかしそれでもやはり青年は笑っていて。ヘルガは少し呆れてしまった。
このマルという青年は、ヘルガの読書仲間とでも言おうか。この王立図書館に通ううちに、頻繁に顔を合わせるようになり、それから些細なやりとりで──隣の席は空いているかと尋ねたり、ヘルガの手の届かない高さにある本を偶然居合わせた彼が取ってくれたりと。そのような程度のやり取りから、少しずつ話をするようになった。
ヘルガは彼の“マル”という名以外、家名も知らないし、どこに住んでいる者なのかも知らない。彼もヘルガにそれを尋ねてこなかった。
あえて踏み込むこともない気楽な読書友達。
それが彼、マルだった。
貴族か町人か、それすらも知らないが、知らないからこそ後腐れなく相談事もできる。それがとても気楽で、彼女は時折こうして彼に胸の内を打ち明ける。唯一の話し相手と言ってもいい。
しかし、本日のヘルガは、今はあなたに構っている暇はありませんとマルから顔を背け、書物に視線を戻した。
「わたくし忙しいんですの、もっと勉強しなくては。王太子様のお心をつかむまで」
気合の入った顔で書物に向かうヘルガの横顔を見て、マルは、クスリと笑い、机の上に肘をつきながら彼女の顔を覗き込んだ。
「貴族のお嬢様というものは面倒なものですね。こうしてよく知りもしない相手を射止めようと、必死にならねばならぬとは」
「あら、そういうものでしてよ。誰だってそうなのではなくて? 生きる場所の枠組みは誰にでもあるものですもの。貴族の枠組み、町民の枠組み、商人の枠組み。その中で精一杯生きるのみです」
ヘルガは視線もよこさずにそう言う。マルはなおも問う。
「それが父親の命令に従って、もう婚約者の内定した王太子を射止めること? 君の意思は? そんなふうに将来を決めてしまって後悔しないの?」
少し皮肉るような口調で言われ。しかしヘルガは、平然と返す。
「そう、これは父に従うという私の意思です。後悔など。どんな時でも多少はあるものなのでは? 逆らってなんになります? 父の怒りを買い実家を追い出され、修道院にでも送られる? それとも路頭に迷うか……まあ、わたくしならどこでも家庭教師の職につけるでしょうが、父に逆らいたくない方たちには嫌厭されますわよね。そうなると、外国に渡るか……」
「っ、それは駄目!」
ぶつぶつと思考に耽りはじめたヘルガを、マルは慌てて止める。
「? なんです?」
「い、や……せっかくの読書仲間がいなくなるのは、ほら、寂しいから……」
ヘルガに怪訝そうに視線を送られると、マルは気まずそうに視線を泳がせた。
「はあ……まあ、それで。どちらにせよ、あの命令を下された以上、わたくしの未来には波乱しか見えないのです。ですから。どうせなら一度王太子殿下に挑んでみようかしらと。修道院に入っても、海外に渡ってしまっても。どちらにせよ、そうなるともうこの……王立図書館にも、そうおいそれとは来られなくなってしまいますからね……」
ヘルガは不意に寂しそうに図書館の天井を見上げた。屋敷には居場所がなく。他人が苦手なヘルガが唯一息がつける場所。それがここ、王立図書館だった。ここでは知識と物語に没頭できる。それが楽しかった。
──と、しみじみと図書館の中を見渡していたヘルガが、それにと、マルの顔に視線を落とした。
「っ?」
にっこり微笑みかけられた青年が、少し驚いたような顔をしている。
「そう、せっかくの読書仲間もここにいることですしね。国外に出るのはわたくしも寂しいです」
「──……っ」
思いがけずヘルガに笑顔を見せられた青年は、思わず言葉を失くす。
しかしヘルガはすぐに青年から視線を外してしまった。表情も、すぐさま真顔に戻る。
「──と、いうわけで。わたくしは王太子殿下を射止めるために忙しいのです。さ、マルさんもよきアイディアがないのでしたら。どうぞ邪魔をなさらないでくださいな」
キッパリ言ったきり、ヘルガは再び恋愛小説に没頭しはじめた。
慣れないものを読んでいるせいで、よほど理解が追いつかないのか、眉間には深い深いシワがくっきりと刻まれている。そんな彼女を黙って見つめていたマルは、眼鏡の奥の瞳をふっと和らげる。微笑ましげな色だった。
「君は相変わらずだねぇ。……こんな本に頼らなくても、私が実地で教えてあげてもいいのに」
「ご冗談を」
再びキッパリと切り返されて、青年は晴れやかに笑った。
「──ほら、返すよ」
王立図書館の玄関ホールに出てきたマルが、眼鏡を外す。髪をかき上げて、やれやれとため息をついた。彼に眼鏡を手渡された男は、堅い表情で彼を見る。
「殿下……困ります。これがないとろくに護衛ができません」
渋い顔で眼鏡をかけながら苦情を申し立てる男に、マルは口の端を持ち上げる。
「悪かったよ。昨日から心が浮ついていたし、今日は早くヘルガの顔が見たくて慌てていて変装用の眼鏡を持ってくるのを忘れたんだ。だって何せ……いやまさか……彼女が言っていた誘惑したい男が──私だったとは」
そう言って。眼鏡の下から現れた美しい顔を破顔させた青年マルこと、王太子メルヴィン・ヒリヤードはむず痒そうな口元に長い指を添えた。
いかにも、嬉しくて堪らないといいたげな顔に、護衛の男は呆れたように片眉を持ち上げる。
そんなことにはお構いなしで、メルヴィンは王立図書館を振り返り、たった今別れてきた読書仲間ヘルガを想った。
ヘルガが知るマルという名は、彼のごく身近な者たちが彼を呼ぶ時に使う愛称である。だが、ヘルガは未だ、それがこの国の王太子の愛称なのだということには気がついていない。寡黙そうな護衛が問う。
「相変わらず、ヘルガ嬢は殿下にお気づきになられなかったのですか? 本日は、“王太子”としての殿下に、これまでで一番間近に接近しておいででしたのに……」
護衛のグラントは眉間にシワを寄せている。と、メルヴィンがおやという顔をする。
「ん? ああ、なんだグラントお前気がついてなかったのか。ヘルガは少し目が悪いんだよ。まったく見えない程でもないらしいが、よく目を細めているだろう? あれは何も睨んでいるわけではないんだよ」
「え……? ではなぜ眼鏡を……」
侯爵家の令嬢が眼鏡くらいを用意できないとは思えない。と、メルヴィンが笑う。
「いつも考え事ばかりしていて、うっかり家に忘れるそうだ」
「………………」
「まあそれに。ヘルガはあまり男に興味がないみたいだから仕方ない。鋭そうに見えて、あれで結構ぼんやりしてるからね。道を歩いている時も、ずっと色々考え事をしているから人の顔もあんまり見ていないらしいよ。忘れ物も多いし、よく物も落として大変らしい」
「はあ……左様ですか……」
どうやら、社交界での嫌われ令嬢ヘルガは、見た目とは大いに中身の違う人物らしいなと、グラントは思った。
と、そんな護衛の前で、歩いていたメルヴィンが悔やむような声を出す。
「ああ、それにしても……! そうだと分かっていたら、ヘルガにあんな変なこと教え込まなかったんだけどな……!」
しまったなと、しかしそれでもくすぐったそうな顔で笑いを噛み殺す王太子は、どうやらよほど嬉しかったらしい。──つまりメルヴィンは、ずっとヘルガのことが好きだった。
そもそも彼は、彼女に会うために、こうして城下にある王立図書館にまでお忍びで通い詰めているのだ。本を読みたいだけならば、王宮にもっと立派な図書室があるのである。
ことの始まりは一昨日。
母である王妃が強引に彼の婚約者選考を進めてしまい、彼がとても憂鬱だった時のことだ。癒しを求めるように、図書館にいる彼女に会いに行くと、彼女は何かに悩んでいる様子で。言葉巧みに聞き出してみれば、ヘルガはなんと、『事情があって、ある男性を誘惑しなければなくなった』などと言い出した。それを聞いた彼は絶句。
当然、彼は焦って。焦った挙句、ひとまずヘルガが男に気に入られないように、『男を誘いたいなら昆虫採集』などという、幼稚でおかしな情報を教え込むに至った。その間に相手の男を調べ上げて邪魔をする。そのつもりで。
──だが……まさか、それが自分のことだったとは。王太子は後悔を滲ませる。
「こんなことなら普通に誘惑の方法を教えておけばよかった……!」
「……殿下……」
グラントが盛大に呆れているが、メルヴィンのにやけ切った顔は元に戻らなかった。
せっかくの美形の顔をしまらない表情で台無しにしている主人を見ながら、グラントはため息混じりに問う。
「しかし……モニカ嬢との婚約はどうなさるのです? あちらは王妃様がかなり乗り気で、内定してしまいましたし……覆すのはなかなか大事ですよ」
「……ああ」
すると途端にメルヴィンの表情が急に冷え込む。──笑ってはいるが、冷えた瞳は狡猾そうな輝きを見せる。美貌の彼がこういう顔をすると、非常に凄みが出るもので、護衛騎士はいい顔をしなかった。
「殿下……そのお顔おやめください、マフィアの親玉のように見えますよ……」
グラントの忠言にも、メルヴィンの表情は剃刀のように鋭い。青年はふんと鼻を鳴らす。
「まったく……本当ならば、昨日モニカ嬢に断りを入れるはずだったのに……」
苦々しげに言いながら、しかし次の瞬間には瞳の険が取れる。
「思いがけずヘルガが出てくるから! びっくりして、それどころではなくなってしまった!」
「ああ……モニカ嬢に断りをお入れになるおつもりだったのですか」
護衛は呆れ半分。驚き半分といった顔をする。──もちろん呆れは、悪のボスのような顔をしておきながら、ヘルガの名前が出てくると途端にそれが崩れる主人の分かり易さに向けたものだ。
メルヴィンは当たり前だと憤慨している。
「母上があまりにもゴリ押しでちっとも私の意見を聞こうとしない。こうなったら本人に直接断りを入れるしかないだろう」
「しかしそれはモニカ嬢を傷つけてしまうのでは……」
グラントが懸念を示すと、メルヴィンの眼光は鋭く尖り、彼は知ったことかと吐き捨てた。
「そもそも婚約者候補のリストの一番上にはヘルガの名前があったんだぞ! それなのに……デメロー親子が大臣や高官に賄賂を贈ってそれを削除させたんだ! ──あちらがその気なら、こちらが容赦してやる必要がどこに?」
恨みのこもった低い声で王太子が言うと、グラントがおやめくださいという。
「殿下、お顔が物凄いことになっております……」
「(無視)そもそもモニカ嬢の傍若無人な性格は下では有名な話だろう。城下の茶房では、常々高慢に振る舞っては、ライバルたちの悪評をあることないこと流して愉快にやっているらしい。私は──ヘルガの悪口を言うやつをけして許しはしない。たとえ相手が女でも」
「…………(もう何をいっても無駄だな……)しかし殿下、ということは、そろそろヘルガ嬢に正体を明かされるので?」
事情がどうあれ、ヘルガが王太子を狙っているのは確かで、彼もそれを望んでいる以上もはや隠す必要もあるまい。
そうグラントが問うと、しかしメルヴィンは沈黙する。
「………………もうちょっと……黙っておこうかな……」
「は? 何故ですか?」
グラントが怪訝な顔をすると、メルヴィンは思案顔で腕を組む。
「だってヘルガはまだ王太子である私のことも、読書仲間である“マル(私)”のことも、好きなわけではないだろう……? もうちょっと身近な存在としてそばにいたほうが良くないか? 私が急に王太子として現れたらヘルガだって身構えるだろうし……」
「しかしですね殿下……」
「いや、それに! ヘルガは私のためにあんなに恋愛小説を読んでくれているんだぞ!? いつもはああいう類は絶対に読まない真面目なヘルガが!」
──と、言う王太子は、これまでヘルガが王立図書館で読んだすべての書物を把握している。グラントはそんな王太子を相変わらず気持ち悪いなぁと思いつつ、その確かな記憶力をもっと国のためにも生かしてほしいと切に思った。
「やれやれ……これで殿下がお仕事をきっちりこなしていなかったら私は殿下に目を覚ましていただくべく張り倒しているところですよ……」
「黙れグラント。いいから聞けよ。ヘルガが、ああやって一生懸命恋愛小説を読んで、その成果をもって、私のところへ来るんだぞ? 今後どんな方法で誘惑しにくるつもりなのか──ものすごく興味がありすぎるじゃないか! ……いや、やっぱり駄目だな。もうしばらくは様子を見る」
「…………」
そうキッパリと決断する王太子の顔は麗しくキマりきっていて。それが逆に彼の残念さを加速させる。
ため息をこぼすグラントの隣で、王太子メルヴィンは宣言する。
「まあとりあえず、ヘルガをリストから外した奴らも、私が遊学中にヘルガを貶めた奴らも。そしてヘルガを冷遇してきたヴィンデ候も。私が王となった暁にはまとめて国外追放してやろう」
「……そういえば、どうしてヘルガ嬢の虫取りのお誘いをお断りになったので?」
そんなに好きならば行けばよかったのでは、と、いうグラントに。親の仇を睨むような顔をしていた王太子がパッと相好を崩した。その変わりように、グラントが引く。
「いや、だって。ヘルガは虫が苦手だから。本当は図鑑の挿絵も触れないし、道に芋虫が転がっていたら、それだけでその道を通れないくらいで……つまりっ、彼女は私のために頑張って昆虫について調べてくれたんだ! いじらしくないか!? 私のために、頑張って虫取りにも行ってくれる気だったんだぞ? ふふふ……なんて可愛いんだろうなヘルガは」
「……」
にやけっぱなしの主人に、これはもうつける薬はないないとグラントは諦めた。
ヘルガ嬢のためなら、彼女を陥れた者どころか、昆虫すべて国外追放とか言い出しそうである。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ評価、ご感想等よろしくお願いいたします。それによって続きを書くか、やはりここで完結とするかなどを考えたりいたしますので( ´ ▽ ` )
2021/07/01追記
ご要望ありがとうございました。
新しく【連載版】にて続話投稿を開始いたしましたので、続きはそちらでご覧いただけると幸いです。