第二帖 剣拳豪合〜京の娘の侠気か凶器〜 壱
目が覚めたら、いきなり真っ暗だった。
夢の残滓も何もない、ただスイッチが切り替わっただけのような、意識100パーセントな完璧な覚醒。
後頭部には枕、背中からお尻、足にかけてはマットの感触、両腕は毛布の上に止め金のごとく投げ出されている。
重力は後ろから。ゆえにお手本と言ってもいいほど、仰向けに寝ている現状を確認。闇に目が慣れるに合わせて、嗅覚は嗅ぎ慣れた匂いを検知した。視覚と嗅覚、そして身体を包み込む布状物体の感触を分析し終えた触覚が、ここは自室だ、安堵しろ、と寝起きの無情報状態の脳に、緊張の緩和を提言し始めた。
いや、それが問題だろ。
自室の布団に横たわって、周囲に人の存在が感じられず、とりあえず緊急の危険がなさそうなことには感謝するけど、今一番問題なのは、どうして自分が自室で寝ているのかっていう、直前の記憶とのアグレッシブなまでの乖離のほうであって。
神事はどうなったの?
神樹は大丈夫?
どこも怪我してない?
あわてて、仰向け不動状態で、脳内身体スキャン開始。頭皮、顔面、胸、腕、手に腰、つま先まで……覚えている範囲の傷口に相応の痛みを感知するけど、それ以外では、そう、記憶断絶直前の、あの超絶な痛みが感じられない。それはそれで素晴らしいことで、喜ばしいことには間違いないんだけど……とりあえず、今、いつ?
恐る恐る、首を動かしてみた。大丈夫、違和は感じない。デフォルトで置いてあるはずの目覚まし時計が存在しないことにギョッとして、果たして勉強机の上に、それは鎮座していた。
ということは、自分の意思で布団に入ったわけじゃなく、おそらく母の手によって、この愛しい聖地への降臨がなされたという事か。枕元に時計を置いてくれなかったサービス不足は責めるに値するけど、このやぁかいサンドイッチに身を包んでくれた事に、そして階段を担いで登ってくれたであろう肉体労働は、評価せねばなるまい。
……連続睡眠30時間は、さすがに人生最長記録の大幅更新ですよ?
ていうか、さらっと24時間越えている辺りに、この温くて柔らかくて甘美な状況にも関わらず、わたくし、背筋が冷たくなってまいりましたが。
丸一日後の、真夜中丑三つ時。
意識した途端に、肉体がひどく、喉の渇きと胃のスッカラカンを主張し始めた。
あぁ、はいはい。あんたはあんたで、魂が眠ってる間もずっと、黙々と生命活動を維持してきたわけよね。ひょっとして目が覚めたのも、肉体の方の意思が、『いいかげん燃料補給しろやコラッ!』と、魂という上司に逆ギレしたからなのかもしれず……冷蔵庫にまだ、ポカリ残ってたかな?
腹筋の力で、上半身を起こす。きょうび、この程度の動きが出来ないほど身体を作っていない女の子もいるそうだけど、どんな不精よ、それ? 外見だけどれだけ着飾っても、結局一番最後は、筋肉と内蔵の健康さが物を言うのにねぇ、なんて思いつつ、身体を横から縦へと置換していく。うん、よし。魂と身体は、ちゃんと細部までシッカリ癒着している。
思い通りに動く肉体に満足して、その希求に従って階下へ。16年過ごした実績は、照明という文明の器具にいっさい触れず、私を物損事故なく冷蔵庫前まで誘導してくれる。
さぁて、ポカリポカリ……あった。取り上げますは、1リットルペットボトルいっぱいに作られた、スポーツドリンク粉末の水溶き品。お行儀なんて知ったことかと、私は直にそれを口に運び、うめぇっ!
ただの水道水と、謎の白い粉末を混ぜ合わせただけにも関わらず、その生命の水は、口から食道に至る間に身体中の細胞が競い合って奪っていく浸透現象をひきおこし……1リットル丸々全部、身体中に潤いさせましたが、なにか?
「野乃華、気がついたの?」
うおっ! ビックリした。
「なによ、電気もつけないで泥棒みたいに……ちゃんと冷蔵庫閉めなさい。それに、コップくらい使いなさいよ」
言葉と同時に、蛍光灯という名の照明兵器が発動。闇に調整されていた眼球は突然のルーメン差に真っ白に跳んで……日本全国お母さんっていう生物は、冷蔵庫の開け閉めに連動した精密な監視装置を内蔵しているに違いない。
「大丈夫? どこも痛くない?」
「えぇと、あちこち少しずつ痛いけど、とりあえず平気そう。それより、お腹減った」
「……お腹減るなら大丈夫ね。脂肪覚悟で、何か食べる?」
やな覚悟だなぁ、それ。そりゃ、母さんみたいに脂肪倉庫が胸部にしか存在しない設計なら喜べるけど、なんでそういう所だけでも、越境遺伝しなかったんだろ。育ての親の、良いとこだけ似ればいいのに。
「焼きうどん」
「はいはい」
冷蔵庫の貯蔵を確認済みでの催促に、母苦笑。卵、4玉99円の生うどん、豚コマ切れ(アメリカ産)、キャベツを取り出す間に、ゴマ油を垂らされた中華鍋が、火あぶりの刑に。シンクに回りこんで、剥いたキャベツを千切っては洗う間に、隣の母は、蛮族もかくやの勢いで、薄い豚肉を適当に手で裂いて鍋に放り込んでいく。
「おはよう」
なぜか、父登場。
「キャベツ3枚追加。4玉すすいで」
「へ?」
食べるのか、父? なんて、余裕こいてる暇はない。うちの調理はトヨタ生産方式。全部同時進行で、どっかが止まれば具材が焦げる。慌ててキャベツを千切って洗って、続いてうどんを次々にボウルに放り込んで、水洗いしたかどうかで、
「頂戴」
「ほいな」
水を切って渡したうどん玉は、そのまま良い感じに炒まったキャベツと豚肉の上へダイブ。うどん玉が纏っていた水分が油と喧嘩して、ジュッと盛大な音を立てる。再び、今度は母の隣へ。熱まってステイしていたフライパンに、生卵を連続投下。広まった白身が白濁しきるかどうかの境で、用意していたコップの水を少量垂らして、ジャワッビチビチッと跳ねまくる油をガラス蓋でガード。濛々と立ちのぼる湯気がガラス蓋に遮られて、目玉焼きを上から押さえる様に蒸していく間に、
「醤油取って」
「へい」
うどん調理終了。塩胡椒を大雑把にふられた焼きうどんに、最後の醤油がタラリと垂らされ、熱を持った麺が香しく食欲をかきたてる。それを三枚の皿に取り分ける頃には、目玉の方も焼きあがり。火を止め、繋がった白身を菜箸で切り離して、最後のトッピングに黄色い半熟を載せていき、鰹節を豪快にぶちまけて、完・成!
「お見事」
父の賛辞よありがとう。これでも小学低学年から、強制……もとい自主的に家事手伝いを叩き込まれてきたキャリアがある。母との無言のコンビネーションも、視線のみで大舌戦を繰り広げられるレベルに達していて、目で言い負かされてお皿をテーブルへと運び、
「さぁて」
かくして、真夜中の食堂に、家族の団欒
「いろいろ説明してもらいましょうか」
……もとい、取調室は誕生した。
かつぶし踊る焼きうどんに箸を進めながら、
「んで、結局、おまえはその、なんとかって代表に選ばれたのか?」
「んーと、よく分かんない」
不思議と、会話は弾んでいた。
「あなた、何か頼まれてる?」
「つか、御山でそんな神事、聞いたことないんだが……拳銃で撃たれたってのもな」
「今から一緒に?」
「これから一緒に?」
「「殴りに行こうかぁ♪」」
ノリノリですね、あんたら。深夜っつうか早朝に。
「いや、ガサ入れする準備は出来てたぞ」
それ、意味違う思います。
というか、隠しても仕方ないと思って荒唐無稽ばらしたけど、本当スポンジだなぁ、うちの両親。その上、嘘だけを的確に分別回収する高性能発見機まで備えてるし……エスパー?
「で、だ」
父、真顔。レアだ。半生じゃない方の意味の。
「まだ、続くのか、その危険な神事」
「はっきりとは分からないけど、多分……。神剣自体、そういう危険な神事向けに作られてるっぽいし、日本を守るための10本の武器の1つだとか何とか……」
「だとよ」
「大変ねぇ……で、野乃華はどうなの? やってみる気なの、そのお勤め」
「いや、まだ全然サッパリ、なんにも分かんないから。大体、今更遅いけど、本当は今日が神事の本番だったんだから。私としては、そっちの方が心配なんだけど、むしろ。何か、連絡あった? 神社から」
「あぁ、そうか」
ポンッと、右拳で左手の平を叩いて相槌をわざわざ打つのは、狭い自宅内では父くらいで、
「野乃華が倒れた後の話、してないじゃん」
「あら、やだ」
おいおい。
「私が社務所のお手伝いで残ってたら、望ちゃんたちが血相変えて運んできたのよ、野乃華を。なんかグッタリしてるし気を失ってるしで、とりあえず、その日は神社の方で寝かせてもらったんだけどね、病院じゃ手に負えないからって言われて。
でも、一晩経っても目が覚めないし、かといって苦しそうにも見えなかったから、手伝ってもらって、自宅まで運んでもらったわけ。あ、あんたを二階に上げたの、望ちゃんたちだからね。お礼言っときなさいよ。」
「それだけ?」
「それだけ」
「ほかには、特に?」
「聞かされてないけど。大体、野乃華が気絶した理由だって、神事の途中で、の一点張りだったから、てっきり神楽舞で目が回ったのかと思ってたのよ。あとは、狐憑きとか」
うわぁ、それでごまかそうとしたのか、稲田姫神社。
「とりあえず、今日明日お休みなんだから、一回神社に行ってきたら?」
うん、そうする。
というか、問い詰めてくるわ、色々と。
同刻、月見里家から遠く離れた古都・京都も鴨川から東側の昔ながらの街並みの一角にて。
稲田姫神社から帰還してから丸一日、こちらは一睡もせずに姉である晴の看病を、自分の人形である茶吉尼の調査と同時進行(1対9の割合)で行っていた安倍明とその母もまた、疲れ切った身体と脳細胞に栄養を補給していた。
そこが京都で、彼女が巫女で、おまけに陰陽師で有名な『あの』安倍家が関わる以上、陽の当たる温かな縁側で高級緑茶に季節の和菓子(例・栗羊羹)というのが定番になりそうなものだが、そこは深夜で時は平成。
幻のコーヒーと呼ばれるコピ・ルアク(ジャコウネコにコーヒーの実を食べさせ、排泄物に残った豆を集めて洗った超特殊なコーヒー)を贅沢にドバドバとカップに注ぎ、お茶菓子は本場ベルギーから取り寄せたピエール・マルコリーニのシャンパントリュフ。24時間を超えた連続稼動に疲れきった頭脳に、味覚と嗅覚を刺激する酸味と糖が、それはそれは侵略すること火の如くの表現が相応しい勢いで吸収されていく。
「で、収穫は?」
「分からない……ということが、ハッキリと」
疲労の極みでたどり着いた境地。
ありとあらゆる試みが徒労に終わった結果の、胸を張って断言できる事実が『原因不明』。
明の操る人形であるはずの茶吉尼と、安倍家の巫女の1人で、日本最強の巫女である御瑞姫でもある晴の、暴走。
それは常識ではあり得ない現象であり、事実、茶吉尼には何の痕跡も見つけることが出来なかった。
本来なら茶吉尼は、明専用の神器によってのみ、操られる。明が操る神器の中に住まうカミが明の命令下、茶吉尼に降臨することで、初めて動くことが可能になる……はずだったのである。
だが現実に茶吉尼は動いてしまった。その上、稲田姫神社の巫女に襲い掛かり、敗北したらしいのである。
それは安倍家の面子に関わる、重大事件であった。
『あの』安倍家の直系の子孫であり、神器の研究を1000年以上にわたって積み重ね、近代科学との融合をテーマに文字通りカミの領域に踏み込んできた安倍家の虎の子の神器が、よりによって見知らぬカミに乗っ取られ、原因不明の挙句、ど素人の巫女に負けてしまった……などと、今更どの面下げて神宮に報告することができよう、いや出来ぬ、出来るか、揉み潰すに大決定!
なのだが。
「対策の取りようがないわね」
「あの時の茶吉尼は整備直後で完璧でした」
「おまけに、箱入り休眠状態から、暖機なしのトップギア。これはもう……」
「内部への侵略ではなく、外部憑依の強制駆動かと。実際、内部器官への影響は軽微であり、衝撃のフィードバックによる損傷程度しか認められていません。それに内部器官を活発にすれば、機械的に活動履歴が残ります。つまり茶吉尼は、いっさいの制御下になく、乗っ取られた、という事です」
「それだけが、救いよね。これが明の操縦中の外部干渉だったら、あらゆる神器の信頼性が霧散するもの」
「敗北も、それが原因。茶吉尼本来の性能は、人工筋肉による柔軟駆動。外部からの強制介入では、本来の動きの再現は不可能。けれど、今問題とすべきは、動機」
「あの時、百々山のカミが、何を目的にうちの人形と娘を利用したのか、だわね」
しょぼくれる瞳を揉みほぐしながら、母・芙由美の視線は気を失ったままの晴に注がれる。
「魂を斬られるなんて、想定してなかったわ」
「晴の生き意地の悪さが幸いしました。普通の人間だったら、そのまま肉体との接点を失って、怨霊化するところです」
「えげつない言い方するわね」
「えげつない事を、されました」
あの時、気を失った稲田姫の巫女を無視して、明は急いで晴を回収した。が、脱臼した肩を嵌めて、目立つ外傷の応急処置を的確にしただけで、彼女は茶吉尼の方の原因究明に没頭したのである。
結果、京都へ戻るまでの2時間強、晴は臨死状態のまま搬送された。
精密検査で、肉体と魂の結合が切れていることが分かっても、その場に晴の魂が無ければ治療のすべは無かったであろう。明の言の通り、晴の魂が高速道路を全力で突っ走るワゴンを追いかけてきたからこそ、今の小康状態が保たれているのだ。恐らく、彼女の意地が無ければ、今頃この場は、反省会ではなく告別式になっていたに相違ない。
「大丈夫。生への執着は、美徳です」
「明が見逃してなかったら、もうちょっと穏便にすませられたんだけど」
「結果オーライです。どんまい、母さま」
「それ、こっちの台詞だから」
とは言え、終わり良ければ、に持ち込めれば、確かに憂いはない。問題は、終わりどころか、まだまだ問題が絶賛進行中の最中も最中、中盤の山場を迎えている現状で、いったいどう進めれば、『終わり』が見えてくるか、である。
「晴も、撃ってるしねぇ」
娘を瀕死に追い込まれた安倍芙由美(38、双子の娘有)としては、損害賠償の請求に先方に殴り込みをかけるに吝かではない、と言いたいところなのだが、実際には『吝か在ります』であり、おまけにその元凶が被害者であるはずの晴なのだから、たちが悪い。
「銃弾、ばらまいてるからなぁ」
それも1発2発ならともかく、実霊弾合わせて100発以上の大盤振る舞い。いくらこっちが操られていたとは言え、そんな暴走状態を野放しにしてくれる道理があるとは到底思えず、むしろ正当防衛と主張されたら、ぐうの音も出ないのが見え透いたオチ。
「おまけに、御瑞姫ともあろう者が、一介のカミに好きなように操られたじゃ、安倍の名誉も地に落ちるわよ」
と愚痴ばかりも言っていられない。
娘の介護と人形の整備。
時間はいくらあっても足りず、むしろ事件が週末であったお蔭で、明を学校に出さずに整備を手伝わせることが出来る偶然に、感謝せざるを得ない。
「とりあえず、茶吉尼を補修しますか」
内部器官への影響は比較的軽微であったとは言え、外部装甲の損傷は無残の二文字が似合う状況に、母と娘は怒りを抱えつつも、この先の長い作業にため息を止められないのである。