第三帖 国史夢想~根の国の主か逆賊~ 肆
安倍晴は、目の前の土木工事を、黙って観察する以外にすることが無かった。
高校のグラウンドに開いた大穴を急ピッチで埋める突貫工事を担当しているのは、一人と一体。
片や、高野空海が地上に残した、文車妖妃こと書物に宿ったカミである、文妖。彼女は符を量産することにかけては御瑞姫にも劣らぬ性能を有しており、封印と耐水、耐圧、耐神力の祝いを重ね掛けしたした特殊封印符を大量生産することで、とりあえずの穴の封印を実施し、地下5メートルの部分に、紙製の蓋を貼り巡らして、根の国との断絶を完成させた。
今は工事の第二段階に発展しており、それを担当するがもう一人……高野空海の召喚に応じ、空中から滲み出るように現れた巫女、庚の掃姫こと、紀里姫神社の御瑞姫、伊奈羽鈴瞳だ。
彼女は、同じ御瑞姫である晴から見ても、この現代という常識に照らし併せて、あり得ない特技を、その神宝に有していた。
異次元管理である。
鈴瞳の持つ葉隠という神宝は、現実の物体を異次元空間に取り込んでは自由に吐き出す能力を持っていて……現に今、晴の目の前で伊奈羽鈴瞳は、葉隠に取り込んで置いた生コンを、猛スピードで穴の中に注ぎ込んでいる。
中学生の晴から見たら、想像もつかない大人の一部としか感じられないのが、鈴瞳という女性の20歳という年齢だが、
「うち、なんでこんな不幸なんやろう」
重機を束にしたって出来ない仕事を一人でやってのける巫女は、愚痴がちだった。
「コンクリ強制凝固させたら、今度は盛土せなあかんやろ? その上砂利敷いて、整地して……こんなん、普通に一晩で終わる仕事ちゃうやん。おまけに呼び出した本人は地下に潜ってるって、阿呆かい!」
愚痴を言いたいのも分かる。
晴には逆立ちしても出来ない仕事だ。
目の前で、あれだけの大穴が塞がっている光景を見せつけられながらも、まるで現実の話だとは思えず……まして同じ御瑞姫の仕業とは考えたくもなかった。
(6年後の自分でも、無理だ)
単純な戦闘能力ならともかくとして、御瑞姫としての格の違いを、晴はまざまざと感じさせられていた。
「ちゃんと見ときなさいよ、晴」
そう言って彼女の頭に手を乗せるのは、母の芙由美で、
「あんただって、何かあったら、土木作業の指示くらい出さなきゃいけないんだから」
「それも御瑞姫の仕事だっての?」
「上に立つ者は、万能じゃなきゃ駄目なのよ」
基本戦乙女は、常識の外に生きている。
カミガミのテリトリーが山の中や地下洞穴など、人間の生活と重ならないように努めているのだから、基本、巫女の活動も、人間の生活とは重ならない。
晴は今まで、短いながらも御瑞姫として、そうして社会とは隔絶された舞台でばかり、舞っていた。両手の拳銃を振り回して。
その生きざまこそが御瑞姫と信じて疑わなかったし……単純に戦場での働きのみが、御瑞姫の優劣を決めるのだと確信していた、のだが。
「え? 何? 聞こえない!」
「あんたね。ここに来て母の助言を無視するか!」
突如両耳を塞いで大声を出し始めた娘に、母親の手刀が突っ込みとして入る。
「あたっ! 違うって。明! 明が連絡してきてるの!」
「あ、明?」
涙目の娘の訴えに、母は得心する。魂を分けた双子である晴と明は、電波でも霊でもない、それこそ量子力学的としか説明のしようがない遠距離心話を可能とするからだ。
そう言われれば、空海女史が地下に潜ってから3時間が過ぎようとしているが、定期連絡が遅れていることにも気づく。
「閉じこめられたぁ!? どこに! っていうか、どうやって助けろって言うのよ! おい、おーい!」
「とりあえず、加流姫に一通り託しました」
明の事務的な報告に、
「なぁ、知流姫……わたしらがどうして必死になって走っていたか、覚えているか?」
「出口を探していました」
「その前に、地上への連絡手段を探してたんだろが!」
空海女史の突っ込みはもっともだ。が、
「加流姫との心話は、我が神社においても秘中の秘。あなたが今まで知らなかった事が、なにより門外不出だった証だと思いますが」
明の態度は変わらない。
確信犯というか……そもそも他人の意向など無関心というか。
「だったら、なぜ、今になってそれを明かした」
「緊急事態だからです」
明の言に迷いはない。
「両面宿儺という名を、もっと早くに意識するべきでした。
かのカミは、大和王朝黎明期に、飛騨地方に拠点を置いた国津神。その名が示すは、人間を背中合わせに貼り付けたような、顔が2つ、手足が4本ずつという異形と語り継がれていますが、考古学的には双子であったのではないかと考えられています。
しかし現状を鑑みるに、それらの説は言い伝えに振り回された、虚像であったとしか言えません。
両面宿儺。両面。その面が何を意味するかと言えば、今ではこう言うしかありません。
幽世と現世。
かのカミは、背中合わせの両面世界に、同時に存在できる希有な存在だったのでしょう。その存在を許されるために、恐らく距離的な制約があるとは言え、両世界に干渉する能力があると考えれば……現状の推測になります」
「つまりお前は……ここが両面宿儺の腹の中だと言いたいのか?」
「いえ、そうではなく……ここは既に、幽世なのです。分かりやすく言えば、まるで風船をひっくり返したかのごとく、私たちは周囲の洞穴ごと、幽世に幽閉されたかと」
空海女史が、私と姫子を交互に見た。「信じられるか?」と、その瞳が珍しく、疑問を浮かべて同意を求めている。
「剣は……その可能性を肯定しています。長らく現世にいすぎたために、幽世の感触を忘れていたと」
「こっちは意見なし。たとえそうだとして、問題はどうやって脱出するかって事だし」
「今は、それを地上に託した段階です。何らかの手段が、文献に残されていることを祈るのみですが」
明の声に、珍しく感情が乗った。不安という、隠しきれない……姉への不信が。
「んじゃ、偵察行こっか、のののん」
「ふぇ、は? あ、おん?」
いきなりの姫子の無茶振りに、訳も分からず手を差し伸べられて、掴んでしまったが運の尽き。
「どこに行く気だ?」
「いや、ジッとしてるのって苦手だし。あかりんの推測が正しいんなら、どこまでが相手の有効距離だか、計ってみよっかなって」
「……お前には、体力温存という言葉がないのか」
「マグロは泳ぎ続けてないと死んじゃうんだよ~」
こっちは出来れば休みたい。
「んじゃ、のののんは後ろをよろしく。私は前だけを見据えて進んでいくぜっ!」
私の意向を全部無視して、姫子は勝手に全速力で走って行きやがった。
「……まぁ、ボチボチ、行ってきます」
「ん、まぁ、付き合ってやれ」
そういって空海女史が差し出してきた符を受け取って、
「なんです?」
「カーナビみたいなもんだ」
本当、なんでもありだな、この人。
感謝を返して、姫子と反対方向へ。
自分の来た道を引き返すというのは、気持ち的には抵抗があるんだけど、考えてみれば考古学なんて、ドップリと振り返る行為だよなぁ、と改めて考えた。
「え~と、神樹? ヤツカ?」
今やむき出しの鋼となった七星剣を背負って、その慣れない感触に語りかけると、これまた聞き慣れない、ドスの利いたの太い男の返事が来る。
『なんだ? というか、汝は誰だ?』
最初はもの凄い高圧的で、とても言葉が通じる存在じゃないと思っていたけど、さっきの解放で何かが変わったのか、今のヤツカはその辺にいそうな、気難しいオッサンレベルの威圧感しか感じない。
『えっと、そっちはヤツカでオッケー? 私は月見里野乃華……というか、この場合は言葉を改めた方がいいのかな』
ちょっと待ってと前置きして、私は契約の言霊を頭の中で結んでいく。
「其の大御剣に鎮まりし、八握剱命の宇豆の御前に、恐み恐み申す。
常磐に堅磐に守り幸はへ奉り給ふ御綾威を、崇め奉り、謝び奉る、
稲田の屋代の姫たる我が名、月見里が長子、野乃華と申す。
今し、御前に願い奉るは、神道を誠の道と戴き持ちて、
各も各も持ち分くる職務の随に勤み励み、一向に平和しき世を作らんがため、
夜の守日の守に、共に魂ぢはひ給わんこと、聞こし召せと、恐み恐み申す」
『しかと、汝が事上げ、聞き及んだ』
「無上の感謝を。
で、型通りの儀式を済ませたところで、質問、いいかな?」
『分かることしか答えぬぞ』
「あなたを葦原中国に天降らせたのは、饒速日命? それとも、天之日矛?」
『……待て、それは汝が生まれる遥か昔の出来事ぞ』
「だから、よ。というか、この名前に心当たりがあるってことは……あなたは本当に、渡来したの? 出雲に?」
『……野乃華よ、汝は、何を知ろうとしている』
「事実を。ただ事実のみを。太古において何があったのか、今と繋がっている歴史と言う名の糸をただ、素直にたぐらんが我が願い」
長い、沈黙が生まれた。
まあ、相手にとっても、想定外の質問だったに違いない。他に聞くことがたくさんあるって事も重々承知。
神樹という鞘こそ消えていないものの、それでも鋼の刀身をさらけ出した七星剣に何が出きるのか。
この現状を共に考察し、少しでも現状打破のために動けることがないのかを探ったり。
姫子じゃないけど、七星剣特有の必殺技なり特別な使い方があるのなら確認しておかなきゃいけないし、そうでなくても、先代までの稲田姫の御瑞姫の情報くらい、聞いておいてしかるべき。
なのに。
私はその全てをすっ飛ばして、彼の起源に迫った。
十種の神宝。
十種神宝。
天璽瑞宝十種。
“先代旧事本紀”によれば、邇邇芸尊とは異なる天津神である、饒速日命が天降った時に皇祖から授けられた神宝であり、十種全てを揃えることで死者をも蘇らせるという逸品でありながら……現物は存在せずと公表され、何よりその出自が謎に包まれた、眉唾モノな一品でもある。
何より、天津神から地上に遣わされたというその由緒が、やばい。
珠恵たちに御瑞姫について教えてもらってから調べたのだけど、天津神と言えば、平たく言ってしまえば天皇家の祖だ。天皇が天子である依り所であり、太古であれば政と祭を執り行う大前提でもあったはずの、要するにスーパーパトロン。
天照大御神から地上の統治を任された、邇邇芸尊の直系という後ろ盾があるからこその天皇家の権力なわけで、となれば普通、天津神との直通パイプは天皇家が独占したがるもの。
でありながら、饒速日命は邇邇芸尊とは別ルートで地上に降り立ち、その子孫は初代・神武天皇が大和へ東征するより早く、時の豪族と共同で大和地方を治めていたとすら伝わる。
結果的には、饒速日命の子孫の裏切りもあって、初代・神武天皇からなる日本の統治がスタートし、饒速日命の子孫は神宝と一緒に天皇の配下に加わって、天下太平に尽くし、物部氏という太古の有力血筋を残すのだけれど……この伝承、記紀ではサラリと流されたりして、ましてや十種の神宝が、三種の神器と並ばれて語られることなんて、無い。
本当なら、そんな伝承がわざわざ残っていること自体不思議なんだけど、それを言い出したら記紀なんて矛盾だらけで信用に足らないって事になってしまう。
そして、その神器を、もう一つややこしくしている神が、もう一柱。
その名が、天之日矛。
ただし、こっちは出自がもう少しハッキリしていて、韓国から嫁さんを追って日本海を渡って出雲に上陸した神。
それだけならまだしも、この神、荒ぶる日本海を渡りきった秘策として、八種の玉津寳なんてものを持ち込んできたからややこしい。
その八種の玉津寳と十種の神宝のうち、奥津鏡と辺津鏡の二つの神宝が、もろ被りしているからだ。
一覧にすると、こう!
十種神宝 玉津寳
生玉 珠(名称不明)
足玉 珠(名称不明)
蛇比礼 浪振る領巾
蜂比礼 浪切る領巾
品物比礼 風振る領巾
八握剣 風切る領巾
沖津鏡 奥津鏡
辺津鏡 邉津鏡
死返玉
道返玉
もうこうなってくると、オカルト系の妄想はスパークしちゃって、二人は同一人物で天皇家は韓国発で、高天原は韓国で、みたいな暴論になったりしそうだけど、とりあえず今は関係ない。
十種の神宝は、そういう具合に胡散臭いのだ。
大体、七星剣はまだ剣という形態をしているから、十種の神宝の一つの八握剣だって同定できるけど……明の人形や姫子の鉄甲、空海女史の筆もどきになってくると、本当に十種の神宝と関連があるのかすら疑わしい。
ま、信じる者は救われるって事で、愚直に迷わず、お上の言っていることを鵜呑みにして疑問にも思わないのが、本来の日本人のあり方なんだろうけど。
私、高天原の娘、らしいからなぁ。
十種の神宝の真相は確かに気になるし解き明かしたいけど、今一番知りたいのは、高天原が実在するのか否か、その一点だ。
だから、ヤツカが本当に饒速日命と一緒に来たのなら、高天原は実在したって言う得難い証言をゲットできるわけだし、もし天之日矛が主だったのなら、それがどうして十種神宝になったのか、その経緯が激しく気になるわけで。
『………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………』
目に見えるほど長い沈黙がって、さすがに長いわっ!
「あの、ヤツカ? 答えにくい質問だったら、ハッキリ言ってくれてもいいんだけど」
質問を変えるだけだから。
『のぅ、野乃華よ。汝にとって、我とは一体何なのだ』
質問に質問で返されたっ!
「なにって、あなたは十種の神宝の一つである八握剣のカミで、今は七星剣に宿っている、稲田姫の御瑞姫の神具でしょ? 太古から国津神を平定して、民の暮らしを騒がす魑魅魍魎と闘ってきた、この国の守護者」
『ふむ。なれば、先の問いは不要であろう。我と汝は、主と僕。それ以外の関係ではありえまい』
「うん、細かく突っ込んでゴメンだけどさ、主と僕、逆だから♪」
わざとおどけて強調しておいた。
「ヤツカが本当に天津神だったら、私の魂がどういう種類か、分かるでしょ?」
『ふむ……む? むむむ? むむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむ?!』
こんどは、む、多すぎだから。
『汝、本当に女か?』
「胸っ? 胸のこと?! だったら宣戦布告とみなすっ!」
『汝、本当に人間か?』
シレッと言い直しやがるし!
「人間じゃなきゃ、なんだっていうのよ」
『いや、しかし、これは……もしや汝、皇の血を受け継ぐ巫女か? 今生で遂に儂は、斎宮に巡り会ったと言うのか!』
今度は勝手に早合点して、何だか興奮してるし……ていうか、斎宮って何? 皇は聞いたことあるけど、また聞き馴染みのない単語が出てきましたよ?
「いやごめん、ふつうに人間なんだけど、どうやら魂は高天原生らしくてさ。同じ高天原生のヤツカなら、魂から何か感じてくれるんじゃないかと期待したんだけど。主に血縁関係とかそういう主旨で」
『人間? 汝が? それはおかしいだろう。だったら、そもそも肉体に宿っていた魂は、どこに消えたと言うんだ?』
「へ?」
『人間とは、魂が宿ってこその霊処であろう。我らカミは、魂の存在であるからこそ、現世では儚い。特に祭事に干渉しようものなら、器が必要不可欠だ。ゆえの巫女であり、神降ろしの儀式による神託がありうるのだが……汝のように日毎夜毎に肉体を支配するとなれば、当然、本来の魂は弾かれることとなる……滅したのか?』
呆然となった。
ヤツカの言うことは、正論だ。
けれど、私は私として16年、欠く事なき記憶の連続を有している。産道を通り抜けた記憶こそないけれど、私は最初から、この身体を受肉して生まれてきたっていう確信をもって生きてきた。
え? 高天原の魂ってそういうもの?
じゃ、母さんは、それを承知で今まで育ててくれたの? 本来赤ん坊に宿っていた魂を蹴飛ばして、得体の知れない魂がお腹の中に宿っていたって?
記憶に、ない。
あるわけがない。
だって私が魂の秘密を知ったのはこの夏のことで、それまで、なんの違和感もなかったのに……。
「ちょっと待った。その質問には沈黙で応えるわ。で、私の魂のことを皇の血を引くって言ったけど……それってつまり、皇祖のカミの系譜に連なるって意味?」
『……なにやら、深い事情がありそうだな。天孫、饒速日命が地上で神隠れされ、その弟たる邇邇芸尊が遣わされて後、この葦原中国に天照の血を引く者は降臨していないと聞いていたが……』
「ちょっと待った! じゃ、やっぱりヤツカは、饒速日命が天照大御神から戴いた十種神宝で間違いないのね! 古事記じゃなく、先代旧事本紀の天孫降臨の方が、真実だったって事なんだ……」
『真実かどうかはどうであれ、本来地上を治めるべき饒速日命が志を遂げぬままにお隠れあそばされた事は、高天原の意に沿わぬ凶事であったからな。当時はまだ出雲王朝が恭順しておらぬ国乱の時であったため、その死が隠匿されておったとしても、不可思議ではあるまい』
「ヤツカ、今、サラリととんでもないこと言ったわよ。
出雲王朝って、実在したの? というか、じゃ、日本は昔から大和王朝だけに統治されてきたっていう記紀の言い分はどうなるのよ?」
『汝は不思議なことを言うな。国を興すということは、幾多の小国を平らげ、大国同士が雌雄を決することでしか成し得まいに。
最初に大国を興したのは、確かに出雲国だったがな、やはり鉄剣の威力にはあらがいきれんかったよ。
天孫が鉄器という利器をもって天下を平けたのは、時代の流れ、自明のことであったと言えよう』
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと!」
なんてことを言い出すかな、こいつは。
「その天孫って、もしかして、筑紫に都を築いたりしてない?」
『そりゃ、そうだろう。そもそも、海士族は対馬が本拠地だったからな。当時は新羅や百済との領土争いも盛んであったし、漢や魏との交流もあったから、狭い対馬ではなく、対岸の筑紫に都を築くのは、当然の話であろ?』
ヤツカの言い分が、いちいち正論で困る。
当時の文化水準から言ったら、日本が中国の恩恵を受けていないわけがない。
だとして、いまだ航海技術の発展してない時代。日本海を無事に渡るだけでも事なのに、わざわざ九州に上陸してから、瀬戸内海を経由して大和まで、なんていう労力を強いる理由なんて、ないのだ。
中国から一番近い九州で、たとえ仮であったとしても、接待したほうが理に叶っている。現に後の時代では、北九州を対中国の玄関口として、接待のための街を作っている。
なのに、本居宣長(当時誰も見向きしていなかった古事記を半生かけて解読し、未だにそのオタク度合いでは並ぶもののいない、古代史オタの元祖というか教祖というか、もはや神)を始めとした国学者は、大和天皇家こそが日本で唯一の王朝であると信じて疑うことすらせず、世界のあらゆる古代王朝が、河口もしくは海に面した交通の要所に成立しつつ、文明の成長に伴って、戦争という政治交渉に対応するために、内陸部や丘の上という戦いやすい場所へと都市を移動させていったという歴史の必然を、全く無視している。
いや、宣長翁は、さすがに別格だ。
彼は確かに、大和王朝こそを唯一の国主と盲信してこそいたけれど、魏志倭人伝を始めとする古書の記述にも着目し、邪馬台国が九州北部にあったことを、既に江戸時代中期に喝破していたのだから。
しかも宣長翁は、邪馬台国が大和王朝とは別の系統であることすら、見抜いていた。
彼は卑弥呼という女王が九州にいたことを認めつつ、彼女はあくまで、大和王朝とは別の意図で、勝手に中国と交流していたのだと、読み取っていたのだから。
宣長翁が歴史家としても別格なのは、その研究に私心を盛大に投入しながらも(人生全部費やしたとも言う)、自身の説にそぐわない記述を隠蔽しなかった、その学問への真摯すぎる姿勢にある。
ま、真摯レベルが天を突き抜けて、「古事記最高!」「古事記こそ真実! 異論は認めねぇ!」っていう、盲信を超越した五体倒置も辞さない信仰を公言してはばからなかった人らしかったんだけど。
邪馬台国と卑弥呼を九州に設定したのも、そうじゃないと整合性が取れない上、古事記に卑弥呼の記述がないことの説明が出来なかったから、らしいし。
歴史というものが、勝者によって都合よく紡がれるものであるということは、今更強調するまでもない。
たった70年前の太平洋戦争ですら、日本に対する間違った歴史認識が蔓延しているのが現状なのだ。
太古であれば尚更、文字として歴史を残す能力を持っていた数少ない学者たちが、自分たちの権力を盤石にするために筆をふるっても、決して、自分たちが非を犯したことを声高に歴史書の中に書き付けることなど、公にはするはずがない。
日本で最古の書物と言われている古事記と日本書紀にしても、実際それよりも前に文字媒体での記録物が存在していないはずがなく、現に書物は残っていないけれど、書名だけは伝わっている。
何が言いたいかというと、世の中には、漢字が輸入されて古事記が成立するまで、日本に成文文化はなかったと主張されていることだ。
確かに、沖縄やアイヌ圏など、中世まで狩猟中心生活を送っていた文化園では、文字が成立せずに口頭伝承がすべて、という地域もある(沖縄はその後、日本語を文字ごと輸入した)。
けれど、中国で紀元前の歴史が残っているにも関わらず、国際的交流を持っていた日本に8世紀まで文字が伝わらなかったというのは、設定的に無理がありすぎる。
だからと言って、すぐに神代文字に飛びつくわけにもいかないのだけど。
竹内文書、上記、秀真伝、えとせとら。
神代文字と伝えられる書物は数あれど、それらは現在、歴史家に偽書として扱われている。
まぁ、内容も去ることながら、それらが話題になったのが江戸時代からで、残っている現物も、比較的新しいものだっていうのが、ねつ造説、つまり偽書と決めつけられた理由。
信者側は信者側で、古書を長期間保存するのは技術的に困難で、写本による継承の結果として、時代的に新しい写本しか残っていないのは当然、と主張。
おまけに飛鳥時代以降の漢字流入によって、神代文字の使用が禁止されたために、朝廷に近い地域の神代文字書物は没収もしくは廃棄されて、時代が江戸に下るまで、地方でヒッソリと保存されるしか生き残る道がなかった、と。
その点、宣長翁は、神代文字など存在しなかった、と一刀両断。根拠は、古語拾遺っていう古文献に、漢字以前の文字はなかったって明言されていたから。
ま、その弟子を自称する平田篤胤は、研究に研究を重ねた結果、これならアリじゃね? っていう神代文字を選別したりもしたけれど……現実問題として、それらの文字は日常的に継承されていない。
もし神代文字が存在して、その文字で記述された古い書物があったとしても、古事記もしくは日本書紀を編纂した朝廷にとって都合の悪い過去の記録は、破棄、焚書された可能性は、ないわけじゃない。
南米文明の貴重な書物を全焼しやがった宣教師のような悪例は、ごまんと歴史に残っているわけだし。
それはさておき、朝廷に古文書を破棄しなければならなかった理由があったとすれば、その王権委譲が、正当な手続きでなかった場合だ。
自分たちの行いを正当化するために、歴史書を新たに作り、過去の記録を抹消する。
そうして歴史がねつ造される事は、何も太古だけの特権ではない。
現に日本でも、今現在、邪馬台国が筑紫に存在していたことを認める学術書は、発行されていない。邪馬台国どころか、出雲に王朝があったことすら、公の場で認められていないのが実状で、二千年という長い時を経てもまだ、天皇家が隠匿し続けた王権算奪劇の封印は、頑なに守られている。
にも関わらず、在野の民間伝承や、古い神社の縁起をよくよく調べれば、縄文時代から弥生時代にかけての各王朝の力関係などが見えてきて、隅々まで情報統制が行き届いていないところが、抜けているというか、懐が広いというか、とにかく面白い。
その最たるものが、出雲の神在月の伝承で、どうして日本中の神様が十月に出雲に集まるのか、その納得のいく理由を、古事記だけでは見つけられない。
それどころか、天照大御神のルーツとすら言われている対馬の阿麻氐留明神ですら、十月には出雲へ参詣していたことが伝承に残されていて、本当の太古には、天照大御神が、出雲神・大国主神の部下だったらしいことが、見えてくる。
かつては、文字通りの、国の主であった大国主神。
その彼が治めていた出雲という国は、石器文明華やかなりし縄文時代において、良質の黒曜石を産出することで、その基礎を確かなものにしたと、推測されている。
その、出雲産の黒曜石が、遠くウラジオストックにも輸出されていたらしいというのだから、今から二千年以上昔の人たちの冒険心には頭が下がる。
丸太船一つで大洋を駆け巡り、日本式縄文土器に似た物が南米で発掘されたりするのが、古代史のスケールなのだ。
「ねえ、海士族って、昔は出雲のために働いていたりした?」
『そうだったかもしれん。対馬の海士族は、もともとが漂流民ばかりだったからの。それでも、船を操ることにかけては、どの民にも負けぬ腕前を誇っておった。出雲どもがその勢力を拡大できたのも、海士族の海運がなければ、成り立たなかったかもしれん』
だからこそ、クリティカルな質問を繰り出す。
「それが、大国主神に反旗を翻して、下克上を達成した原動力?」
『……少し、違うかの。
もともと、海士族が対馬に本拠地を置いたのは、そこが船をもってしか辿り着けぬ島だったからだ。
人の住める土地は限られており、彼らはそれまで住み馴染んでおった地を、火の神の怒りで失った。それゆえ、対馬に逃げ延びたのじゃ。
大陸から、青銅や鉄の技術が伝わってきたときに、彼らが対馬に住んでいたことは、不幸中の幸いと言うか、神の采配というか、とにかく、偶然ではあったが必然的な出来事じゃったのだろう。
それまでの生活を一変させる金属の登場は、同時に米という、貯蔵可能な食物の、大規模集中生産を可能にさせよった。
水稲生産を可能にするには、高度な土木技術が必要不可欠じゃったからな。畦を作り、水路を整備し、倉を建て……稲を生産するための専門的技術集団集落、村の形成が必要不可欠じゃった。
海士族が窓口を担当し、筑紫において本格的な村の経営を始めつつ、他地方への鉄器の輸出と大陸人の移住を制限したのは、慧眼じゃったと言える』
「あれ? 青銅器はそういえば、関西地方にも広まっているもんね。銅鐸とか有名だし、銅鏡も発掘されているし」
確か出雲地方でも、何百本という単位で銅剣が出土して、歴史家の度肝を抜いていたはずだ。
『それだけ、鉄という金属が、海士族には魅力的じゃったのだ。
なにせ、青銅など問題にならぬ強度を誇っておるからの。
おまけに、食料の備蓄に成功し、順調に人口を増やす目処がたっておった。
大陸にて、鉄の生産過多で森林が壊滅し、難民が流れ込んできておったのも、一助を担っておったかもしれん』
「……そして、機を見て饒速日命に部下をつけて、関西へと降臨させた」
『まぁ、そのまま饒速日命が使命を全うできておれば、また流れも変わったかも知れぬが、死んでしまっての。
天照大御神も奇襲作戦が失敗して、さすがに気落ちしたらしい。部下を大国主神のもとに派遣して、内部からの懐柔を画策したのじゃが……』
「ことごとく、部下が丸め込まれたのよね、確か」
古事記でも二度、天照大御神は部下を出雲に派遣して、二度とも大国主神に寝返られている。
『まぁ、結局業を煮やして、建御雷神、天鳥船神を大将にして、攻めかかったわけだがな。我らも饒速日命の忘れ形見として、裏方として暗躍してなぁ。
大国主神こそ、老齢だったために見逃したが、その息子の一人を海戦で打ち倒して、もう一人を諏訪まで放逐して、王権委譲を完遂したわけじゃ……』
「……ふつう、それってクーデターって言うよね? 少なくとも、国譲りなんていう悠長なもんじゃないわ」
『昔は、みんなやっておった事じゃろ?』
そりゃ、戦争にルールなんてないからなぁ、今だって。昔なんて、もっとえぐいことしていただろうし。
「つまり、そうやって出雲王朝が滅んで、筑紫王朝が生まれたと?
……そりゃ、大国主神から見たら、呪わずにはいられないわね、天津神を。かつては部下だったわけだし」
『たとえ主従の関係だったとしても、出雲と筑紫では距離が離れすぎておる。
それに大本を考えれば、海士族が独占しようとしていた鉄器を、出雲朝が許してくれなんだのが原因での。
当時はまだ圧倒的な戦力差があったからな、大国主神が本気で筑紫を攻め込んできたら、ひとたまりも無かったろうて』
「そうなの?」
『出雲の方が力があったから従っておった。民も増え、武器を手に入れたから、攻めていった。単純な話じゃろ』
「うん、簡単な話なのは良いんだけどさ」
私は、拭いようのない違和感を、ヤツカの話から感じていた。
「結局、高天原って、どこなの?」
『なんじゃい、藪から棒に。
汝は、天孫降臨の事情を知りたかったのではなかったのか?』
「いや、そうなんだけど。ヤツカの今の話だと、対馬に住んでいた海士族の人が、筑紫の地で繁栄して、出雲朝を手中にしたっていうことでしょ? それって、別に、神様いらないんじゃん?」
『汝に最初に言ったであろう。
高天原の魂は、単独では現世に影響できぬ故、巫女に一時的にその身を借りることで、地上の政に干渉してきた、と。
つまり、天照大御神にせよ、饒速日命にせよ、邇邇芸尊にせよ、我ら十種神宝にせよ、巫女という憑依対象がおって初めて、この地で活動できるのじゃ。
大国主神たち国津神にしたって、もともとは出雲の山神であったり、彼らの祖霊の力を借りての王朝維持であったからの。
言い方を変えれば、人の身を借りての、高天原と葦原中国の間での、全面戦争が出雲攻略戦であったわけじゃ』
「じゃ、国津神を全部根の国に追いやったっていうのも」
『事実じゃ。人間に力を貸し、天津神に仇なす神はすべて、地下へと封じた。その際には須佐之男命の力も借りたがな』
ここにきて、いきなり須佐之男命の名前まで出てくるし!
「じゃ、ここには、須佐之男命と大国主神の、二柱の神が、いるんだ、やっぱり」
『ま、須佐之男命はさすがに残念がっておったがの。もともとは奴の土地であった出雲を武力制圧されたとあって、心中穏やかでなかったであろうに、よく堪えたもんじゃて』
「でも、須佐之男命は、天照大御神の弟なんでしょ? そりゃ、大国主神のお父さんでもあるんだから、心中複雑だったと思うけど……もともと、天津神じゃないの?」
『須佐之男命は、根っからの国津神じゃぞ? 名前からして、須佐の男なんじゃから、国の名を冠した土地神であることは、当たり前じゃろうが』
えっと?
なんか、すごく重大な案件を、またまたサラリと流された気がしますよ?
だって須佐之男命って、伊邪那岐命から、天照大御神と月読命と一緒に生まれた、三貴士の一人じゃないの?
そりゃ、高天原で悪さして、天の岩戸事件を引き起こした張本人で、永久追放もされたけど、その後で出雲の八俣大蛇を討伐して、天叢雲を天上に差し出したりもして……って、そもそも、それがおかしいんだ。
さっきの話で、大国主神は、石と木と土の時代であった、縄文時代の統治者だってことがハッキリしたわけで……須佐之男命は、そのお父さんに当たる神じゃないか。
片や天照大御神は、水稲農業の守護神、太陽を司る農耕神として長く信仰を得てきたわけで……当然、水稲農業の方が縄文時代より、遅い。
えっと、じゃ、つまり……古事記も日本書紀も、須佐之男命が自分たちの神より、もっと古い神様だって知っていた上で、わざと嘘をぶち上げたって事?
須佐之男命を天照大御神の弟に仕立て上げて、自分たちの出雲侵攻を、いかにも姉が弟の領地を譲り受けた、みたいに印象づけるために?
あぁ、でも、なんか、分かる気がするわ。
全く同じ事を、時代は奈良時代以降まで下るけど、仏教もやったからなぁ。
仏教の卑怯なところは、仏様が一番偉いことを印象づけるために、日本の神様たちを、「仏の卵だ」っていう大嘘をこいた事で。
日本の神様すら、まだ仏になるために修行している段階に過ぎず、だから天照大御神よりも阿弥陀如来の方が実力が上だ、なんて根拠もないのに広めたものだから、一人の仏様がいろんな神様の芸名を得ることになっちゃって、神仏習合といえば聞こえが良いけど、もともとのルーツが全然別なんだから、無茶設定にもほどがある。
つまり、太古の筑紫王朝も、まったく同じ嘘をついたわけなの?
須佐之男命を天照大御神の弟にすることで、天照大御神の神格を一段上に棚上げしたと?
……せこっ。
理屈は分かるけどさ、なんというか、こすい手だよなぁ。
なんて、思っていた矢先に、
「きゃぁ!」
ボインッ!
日常ではあり得ない柔らかオノマトペを高らかに、何かが私とゴッツンコ。
私の顔は、その柔らかな二つの山に埋もれるような格好で、あれ? この匂い……
「姫子?!」
「のののん?!」
「あんた、何やってんのよ、こんな所まで戻ってきて」
「のののんこそ、いつの間に先回りしたわけ? それとも、寂しくなって追いかけてきたとか?」
現実に引き戻された私は、姫子の胸元から顔を引っこ抜くと、自分の前方と後方の通路を交互に眺め、
「私は、まっすぐ来ただけだわよ」
「私だって、一直線にがむしゃらに突進してきたよ?」
と、いうことは、
「完全に、球体の中に閉じこめられてるってことか」
「まさしく、神技だね」
私は空海女史から貰ったナビ符を確認する。直線距離にして500メートル、スタート地点から離れている。しかし、体感で1キロメートル以上歩いているわけで、
「姫子、あなたずっと走ってた?」
「YES!」
だとしたら、私の3倍は距離を稼いでいるだろうから……単純計算で4キロメートル強の通路が円上に走っているわけか。
『勢理姫、こちら、甕姫と合流しました』
霊話を試みる。
『報告ご苦労。こちらでも把握している。大雑把に言って、直径2キロ強といった空間と見て良いな』
繋がった。
『そちら、捜索中に異常はあったか?』
ずっと妄想にふけっていたなんて言えない。
「姫子、何か見つけた?」
「んにゃ。ずっと同じ通路だったっしょ?」
『綻びなどは、見当たりませんでした』
『だろうな。こちらも今、馬鹿が殴り開けた洞窟を精査しているが、現世に繋がりそうなヒントはまだ見つかっていない。用心しながら戻ってきてくれ』
私は了解の返事とともに霊話を切断すると、姫子にその旨を伝えようと思い、ふと、彼女の胸元に注目した。
その巨乳が、何かを私に想起させたのだ。
つい最近、同じような事があったような、そんなデジャブを覚えて、
「あ!」
思い出した。
「ん? どしたん?」
「ちょっと、その胸、借りてもいい?」
「エロい事に使うんならオッケ。まじめな意味なら却下」
相手が馬鹿なのを言い訳に、私の身体は問答無用で傾き始めていた。
『幽世だったら、魂の方が捜索に向いているよね』
私の肉体が姫子の無駄に放漫な乳房に埋もれていくのを眼下にしながら、魂にて抜け出して、この世界の本当の境界を知りに行く。
『相変わらず、思いつき優先っすね』
背には神樹と、
『だから、補佐が要るのだろう』
ヤツカが揃って貼り付いている。
『ここではヤツカの方が専門家よね? 霊剣らしく、何か都合の良い直感とか働かない?』
『儂、葦原中国育ちだからなぁ』
使えない奴め。
歴代の御瑞姫をさんざん振り回してきたっていう依佐利の評を信じる限り、相当なワガママなんだろうが……解放時の演劇がかった台詞と今のオッサン口調、いったいどっちが地なんだろうか? それともあっちは荒霊で、こっちが和霊なんだろうか。
とにかく、目的は正確な空間半径の調査なので、外へ外へと動いていくことにする。
『ところで、あんまり良く分かっていないんだけどさ、現世と幽世の違いって、この世とあの世みたいなもんだと思っていいわけ?』
『あの世というのが、死後の世界という意味で使っているなら、否だ。
死者が赴くべきは黄泉比良坂であり、黄泉の国だからな。ま、それも出雲の地での伝承だが』
『あれ? そうか。ん? 根の国と黄泉の国って別物?』
『根の国が死者の国じゃなかったのは、実際に見た通りっすよ。根の国は、国津神を地下に封じ込めた、神の牢屋みたいなものですから』
あぁ、そうか。ここでも記紀の嘘が出てくるのか。
記紀では、大国主神を根の国に押し込んだときに、死者の魂を管理する王、という名目が使われる。
でも実際は、政争に負けた前王朝の主を、地下へ幽閉したってだけの話なわけで。
『だとして、わっかんないな。
だったら、幽世って何? 根の国でも黄泉の国でもないってこと?』
『幽世は、魂の世界だ。いずれ魂が行き着く場所とも言える。現世とは重なってもいるが、隔絶もしている。世界の裏側だと言っても良い』
『山中がカミでうるさいのは、山では現世と幽世が重なって存在しているからっす。逆に平地では、限られた場所にしか幽世が現出していませんから、カミが出やすい場所とそうでない場所が生まれるわけっす』
『霊脈っていうのも、関係しているわけ?』
『霊脈は、言ってみれば幽世から幽世への回廊みたいなものだな。幽世を俯瞰して見ることが可能ならば、それは瘤と瘤を細い線で繋いだ、網の目のような世界だと言えるだろう』
『幽世は、魂の再生産の場所でもあるっす。年月を経た魂は、最終的に己と他を隔てる境界が融解して、純粋な命となって、幽世で全と一つになるっすから。だから、幽世は命で満ちた世界だとも言えるっすね』
『命って、何? それが魂の原材料だってこと?』
『そもそも魂とは、命が詰まった瓶みたいなものだ。命が密集して皮となり、その内部を命が満たし、一個の固まりとして現世に出ていける状態こそを、魂と呼ぶ』
『ま、本来なら出ていけない現世に、存在するための皮っすよね。ただ無理している分、どうしても徐々に、皮が薄くなっていってしまって、せいぜい百年しか保たないっすが』
……それが、寿命ってことね。
あれ、じゃ、カミって何?
純粋な命のみだったら、周囲にとけ込んじゃって、個別認識できないんじゃないの?
『皮が溶けて消えると言っても、人間世界の尺度の話ではないからな。それこそ、数百年の単位で、徐々に境界が希薄になっていくもんでな。
カミというのは、そういった希薄な皮の魂たちが、惹かれ合って一つの意志のようなものを生じた融合意志体じゃ。
幽世でも命の濃い場所と薄い場所が存在し、カミとはそういう濃い場所で、たまたま溶け残っていた皮が、お互いに補完しあいながら魂を形作っておる。
ま、その際、どうしても魂の合う合わないがあるからな、波動の似たもの同士が集まることで、まるで特定の性格を保っているように振る舞うが、逆に言えばもともと魂が持っていた性質を、ある性格は強め合い、ある性格は薄まって、そうやって日々、特定の方向へ濃く行っているがためじゃな』
『じゃ、強引に話を戻すけど……この場所にずっといたら、私たちの魂も溶かされて、命ってものと同化しちゃったりする?』
『安心しろ。その前に肉体が維持できなくなって、餓死する』
なにをどう安心しろというのか。
ま、一日二日でどうかなる場所じゃないってことか。胃酸の中に放り込まれたんならともかく。
それにしても、なかなか見えないな、境界。垂直に上ってきていると言っても、指標となるものがないから正確な距離が分からないけど、それでも100メートル以上は上昇しているはず。
土をすり抜けるように移動しているから、当然周囲は真っ暗で……そういや、地下水とか全然感じないよね。根の国らしい神工物にも出くわさないし。
もう少し、進んでみるか。どうせ、他に出来ることなんてないわけだし。