第二十四話 ≪PRESENT THREE。チャレンジ、みかさ(1)≫
いちばん大切なのは、たぶん…。
第二十四話 ≪PRESENT THREE。チャレンジ、みかさ≫
「なんなのよ…。」
試練に試され始めた瞬間から、インターセプトは雑言を口ずさんだ。だって、目の前ではっきりしてる過去は、なかなか醜い。目覚めた朝、鏡の向こうから映る絡まって髪のように、不愉快になるだけ。
「いったい、なんなんだよ!」
少女はなにげなく長袖を取り出した。いや、そもそも選ぶ権利なんて持っていないし。体に刻まれた青あざを隠すためなら、半袖は贅沢。
「うっ…。」
喉から痛みを感じる。首にもあざが出来たよう。スカーフ探しに失敗した少女は結局マフラーを取り出した。
少女は昨日、また首を締められた。父の仕業だった。
「こんなの…。」
地面を引っ搔く指の痛みより、奪われた叫びがたまらない。生まれた時から失った声。それを取り戻したくて。
「みっともねえじゃん!」
可哀相な過去の情けない姿。見苦しい、格好悪い。それでも目が離せないのは、なぜだろう。
『もう夏だね。』
『衣替えまだかな?』
『合服で我慢しなさい。』
『やだもん!早く夏服着たいもん!』
『そういえば、ちょっとあついかも。』
『ねえ、木村さんはあつくない?』
『え?』
少女の顔が赤く染まる。早めていた足をばれたとしか思えない。皆の視線が自分に集まる臭い感覚が、瞳を揺らせる。
『いや、その…。』
少女は夏にも冬服を着た。男子の制服を選んだのはわざとだった。スラックスで足を隠して、濃いメイクで顔のあざを覆い隠した。思ったより簡単に許された。何が何でも、芸能人みたいなものだから。
『ワタクシは別に…。』
真っ直ぐな視線に肺を押される。揺れる瞳を回して視線をそらす。幸か不幸か、人々は少女の必死な逃避を『人見知り』と呼んだ。
『へえ、寒がり屋さんだね!』
そう、あの笑顔だ。全てを持った者だけに許される余裕。何心ない人だけに与えられる証。『不思議』とか『珍しい』には慣れてる。だが、あの笑みだけは耐えられない。苦しみから離れて生きている者の無理解が産み出す頷き。
『あら、もうこんな時間。急がないと。』
いずれ独り言も大きな声で言えるようになった。芸能人でよかった。モノローグは皆に見せる物だから。
『では、出席をとります。』
『あ』から始まる劇。自分の生徒の様子を見て、理想的なあり方を確かめる儀式。顔もあげないまま答えをチェックする漫才。それは『はい』への過信か、それとも蛮勇か。
『木村さん。』
『…。』
『木村さん?』
『え?』
『大丈夫ですか?』
朝になると少女は悩む。もし今、ここで、この教室で、全てを打ち明けたらどうなるだろう。担任は唖然とするあまり、気を失うかもしれない。ささやきはざわめきになり、理事長にまで届く。責任は取りたくないから、きっと警察は呼ばない。負われたり逃れたり煩くなったら、いつかのように、父が来るはず。父は涙を流し、皆を信じされる。そしては少女の妄想症を誠に心配する。なにを言っても、なにを見せても、きっと誰もが父の見方になる。だって父は大いなる偉人。歴史がその存在を刻む。狂った娘への懺悔が終わったら、待つのは地獄。だから言わない。絶対言えない。なにより、『気違い』と呼ばれるのは、こっちからごめんだから。
『…はい。』
少女は入学と共に希望を、卒業と共に断念を教わった。
『起立!礼!』
『お疲れ様でした!』
一番嫌いのはチャイムの音。家との距離をますます縮める怖い音。もう少しだけでいいから、学校にいたい。でも、立てる名目がない。部活は禁止。音楽に関するものは全て父から教わっているから。學校の時間が終わったら、帰らなくてはならない。
『ただいま。』
そっとドアを開けた、足を入れた。待ってるのはゴミの山。ほとんど全部、父が壊したんだ。
『こりゃこりゃ、みかさじゃない。』
酒臭い息が頬を触る。据わった目は焦点が合ってない。手招きに答えたくない。最後の境界を越えたくない。
『お前も俺が恥ずかしいのかい?』
やばい、答えられない。本音を漏らしたら絶対殺される。だが、嘘だけはついたくない。確かに今の父は、誇らしくは思わない。
『そりゃ恥ずかしいだろう?』
父は注目のピアニストだった。演奏会の父はいつも胸を張っていた。目を輝かせ、誰より明るく笑った。
『みかさ、お前まで俺を無視するのか!』
飲み始めたのは、事故に巻き込まれたすぐ後。手のしびれは父の心までむしばんだ。父はお出かけに誘った娘を恨んだ。
『俺は天才だ、天才ピアニストなんだ!』
ガラスの瓶が飛んでくる。足元で散らばるガラスのかけら。もうなんのための瓶だったのかさえわからなくなった。たぶんワイン瓶、そうじゃないと薬瓶だろう。
制服が赤く染まる。突然、足から痛みを感じる。先掠めたかけらに裂かれたみたい。ドアを開ける前、着替えたらよかったのに。一月に三度もスラックスを買うなんて、必ず疑われる。
『事故さえなかったら、あのステージは俺のものだった!』
父は世界一のオーケストラのピアニストを目指していた。壊して、投げて、潰しても、テレビには手を出さなかった。昔の仲間の演奏を誇らしく聞いた。まるで自分のものであるように。
『お前さえ生まれなかったら!』
世界一の座はすぐ奪われた。だが、父の夢は奪えるものではなかった。
『俺は世界一のピアニストになれた!』
『くっ…。』
首を締められても、息詰まってきて、視界がかすんでも、少女は飛びかかる父から逃げられない。中学生の少女の力では、成人男性の力に歯向かえなかった。
終りを数えていた少女はまた母によって救われた。首が痛い。頭痛がする。めまいの世界で揺らめく赤色。
父が家を出た後、母の胸に抱かれた。現実を確かめる瞬間、襲ってくる脅威。本当に殺されたかもしれない。死んじゃったかもしれない。震える体、流れる涙。大きな声で、叫びたがる心。
泣き疲れて寝る。そしたらまた太陽が上る。また傷跡を隠して学校に行く。長袖とマフラー、帽子と太いブレスレット。耳を踏み躙られた日はヘッドホンまで。先生に失礼なことだった。わかっていた。仕方なかった。
裏金を見つけ出された理事長は、少女を弾除けにした。崩れたプライドを建て直そうとした。成果は十二分に上がった。
『やっぱり、私立学校って素晴らしい!』
『でもここ、ニュースに出たじゃん。裏金問題とかあってさ。』
『もう、なにいってるの?絶対、すてきな出会いがまっている、そうきまってる!だって、有名人が通う学校だもん!』
誰もが少女を求めた。少女の傍にいるだけで、自分の価値を高めた。飛躍が論理になる世間で、少女だけ染みる痛みに耐えていた。
『木村さんは放課後、何して過ごしてるの?やはり作曲?』
『ねえ、新しくできたカフェもう行った?』
たくさんの誘いがあった。『あなたを知りたい』とか『仲良くなりたい』などはもううんざり。遠回りの人も、真っ直ぐぶつかってくる人もいた。全て遠慮した。形のない寂しさより、命の方が大切だった。
『ごめんなさい。今日、忙しいので。』
笑いながら逃げ出す少女は、いずれ憎まれはじめた。『わざと皆を無視している』と言う噂のせいだった。信じられなかった。そんな噂を流す皆が、噂を信じる皆が。あんなやつらに敬語なんて使いたくなかった。
『オレに構うな。マジ面倒なんだから。』
ワタクシはオレとなり、敬語の空席は呼び捨てが埋めた。変わった子に思われた時から、誰も少女に近づかなかった。ちょっとだけ自由になったと思った。勘違いだった。
「なに見てんだ…。」
興味は憎しみとなりはじめ、やがて誹謗中傷になった。嫉妬は誤解を運んだ。立たせなかった誤解は偏見を呼んだ。餅のように粘る視線はどこまでも少女を追い掛けた。
「やめろ、やめるんだ…。」
あざ笑いが近づくたび、インターセプトは後退りする。彼女は本能的に腕を隠した。なんのあざもない、きれいな腕を。
「こっち見るな。見せ物になりたくねぇんだ!」
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「あいつ、自滅だな。」
簡単な言葉だった。自分が口ずさむ歌詞の意味もわからない人のように。神様の考えはあんまりにも安くて、軽かった。
「なぜそう思う。」
「人目を気にするやつは、自らの闇には立ち向かえねぇ。」
神様は頷きを求めた。だが、チャレンジは答えなかった。ただ黙って、みかさを見るだけ。




