雪の夜 ~和服を着た美女との一夜の出会いがもたらした15年後の奇跡~
雪の夜
瀧乃 健
1
見渡す限りの、桃畑だった。背の高さがそろった木々が、一様にこんもりとした樹形のシルエットをつくっていた。収穫の終わった木々は、どこか寂しげで、枝の間に風がよく通っていた。
この辺りの風景は、もう長い時間、何ひとつ変わっていないような気がした。福島からローカル線に乗り換えて、三十分くらい揺られて、ようやく着いた駅だった。このローカル線の先には、全国的に有名な温泉郷があったので、それなりに乗客はいた。しかし、途中のこの駅で降りる客は、ほとんどいなかった。
戸田英介は、改札を出ると、周囲を見渡した。駅前には、小さなロータリーがあり、ドラッグストアや郵便局があった。遠目には、幾つかの白い建物が並んでいた。工場のようだった。
その料亭は、すぐにわかった。周囲の建物の中では立派なつくりで、数寄屋造りの平屋で、切妻屋根に赤茶けた瓦が乗り、古い旅館のような佇まいがあった。
玄関から入ると、店の中は奥に向かって広く、タイル張りの三和土には、十卓ほどのテーブル席があり、奥には小上がりや座敷もあるみたいだった。昼食時のせいもあってか、客は多かった。忙しそうに立ち働く従業員は、ほとんどが女性だった。
英介は、年恰好から、これかと思う女の姿を目で追ってみたが、どれもピンとくるものがなかった。英介の記憶そのものも、どこか怪しかった。
「こちらに、葉子さんという方はいますか」
英介は、若い店員をつかまえて尋ねた。女は、地元の生まれという感じで、他の従業員たちと同じように紺地に縞の入った袷に赤い帯を締めているが、どこか垢抜けていない感じがした。
「葉子さんといったら、女将さんのことじゃない」
そう言って、近くにいた年増の女に向かって、声をかけた。
「女将さんなら、奥の座敷に。呼んできましょうか」
五十がらみの、優しそうな顔立ちの女が言った。英介は、ええ、と言って頭をさげた。
しばらくすると、奥から女が現れた。藍色の地に、梅鉢ちらしの文様をあしらった江戸小紋に、帯は白地に紅葉を散らした柄のものを合わせていた。女には、明らかに、他の従業員たちとは違った空気があった。
英介が、頭を下げると、女はすこし考えるような顔になり、それから、小さく口をあけた。
「あら、あのときの」
英介の頭の中で、長い時の流れが、ゆっくりと還流していくようだった。
きちんと化粧をされたその顔は、どこかおっとりとしているが、程よく垢抜けていて、細い目の印象がやさしげだった。白い肌に、頬紅の紅さが際立って、そこから香りが立つようだった。英介の記憶の中にある女の表情は、こんなだっただろうか。
「こちらへは?」
「ちょっと休みがとれたもので」
英介は、口籠るように言った。
「飯坂温泉かしら」
女の声は、透き通っていた。英介は、女の様子から、英介の訪問を迷惑がっていないようなので、ほっとした。
「ええ」
英介は、答えた。
「おひとりで?」
「まあ、気楽な一人旅です」
女の目が、すっと細まった。
「いまの季節、紅葉がちょうど見ごろです」
女はそう言うと、じっと英介を見つめた。細い目の奥に、黒い瞳があり、その色が濃かった。ああこの目だ、と英介は胸が熱くなった。
「注文、何になさいます?」
女の言葉に、英介はメニューを手にした。
「何がいいだろう」
「鮎はどうかしら?ちょうど落ち鮎の時期です」
「ええ」
英介は、頷いた。
店を出るとき、泊まりはどちらの宿かと、女に聞かれた。英介が予約していたのは、温泉郷でも、かなり老舗の旅館だった。
「今晩、伺っても?」
女は、英介の目を見ずに言った。
「ええ」
英介は、俯いた女の表情を見つめながら、胸が高鳴った。女のうなじの毛が、白く光っていた。
「すこし遅くなるかもしれませんが、きっと参りますから」
女の声を耳に焼き付けながら、英介は店を出た。女が、こんなことを言ってくれるとは、思っていないことだった。
英介は、十五年前のことを思い出した。
あの日、英介は仕事で名古屋から金沢へ向かっていた。たしか、二月の終り頃だった。北風の冷たい日で、朝から霧のような細かい雨があり、午後になって雪に変わった。
英介は、その日のうちに金沢に着けば良かったので、名古屋を出たのは午後の遅い時間だった。
名古屋では小降りだった雪は、関ヶ原のあたりから本降りになり、米原で新幹線から在来線に乗り換えたときには、かなりの降り方になっていた。
琵琶湖の方角は、薄白くかすんで、そこに何があるのかもわからないほどだった。特急列車は、速度を落としながら、湖西を北上した。情緒のある旅になったものだと思ったのを憶えている。敦賀にさしかかるころには、周囲は降る雪に覆われて、視界がほとんどなかった。
予報では、夜半まで降りやまないということだった。急行列車は、一駅ずつ、まるで確認するようにして進んだ。行けるところまで行こう、という感じだった。そして、辺りがすっかり暗くなり、武生にさしかかったとき、列車が停止した。雪の重みに耐えられなくなった倒木が、この先の進路を塞いでいるというアナウンスが流れた。
駅はすぐ近くにあり、屋舎の屋根が煙って見えた。周囲には、車内から漏れる光に映し出されて、白く光っていた。木々の枝が重く垂れていた。山がかなり迫っているはずだったが、雪との境目がはっきりとせず、定かには見えなかった。
復旧の見込みは立たないらしかった。九時を過ぎたとき、今日の除去作業は中断されたとアナウンスが流れた。列車はゆっくりと武生駅に引き返した。そこで断念して降りる乗客もいたが、車中で泊まる客も少なくなかった。英介は、ネットで検索して、付近にある宿を予約することができた。
窓ガラスには、雪が張り付いて凍っていた。電車が止まっているので、車両を覆う雪は、時間とともに増えていくばかりだった。窓の向こうに暗がりがあり、暗いのに雪の白さがあった。白くもあり、黒くもある雪だった。暗さの中に、明るさがあるようだった。こんな過酷な条件の中で、あかるさを仄見えるように感じるのは、いったい何故だろうかと思った。
英介は、窓際のボックス席に座っていたが、ガラスに映る女のことが、ずっと気になっていた。女は、英介とは通路を挟んだ反対側のボックスに座っていた。
米原から一緒だったような気がする。手荷物もとくになさそうで、和服にコートを羽織っただけの恰好だった。髪は巻き上げて、化粧も濃かったので、旅館か料亭に勤める人かとも思ったが、仕事中という感じでもなく、かといって、旅をしているという感じでもなかった。足元を見ると、底高の草履をはいた足袋が、黒く濡れていた。その様子が、すこし異様だった。
英介は、しばらく女の様子を観察していた。すぐに宿に行っても良かったが、なぜかそうしなかった。乗務員から、弁当と茶が配られて、女はそれにすこしだけ箸をつけたようだった。
「ここは、寒くないですか」
女は、一瞬話しかけられたことがわからなかった様子で、宙を見るような目をしただけだった。
「電車は朝まで動かないと言うし、困ったものですね」
もう一度声をかけると、女は初めて英介に振り向いた。
「ええ。ほんとうに、・・・」
その細面の顔は、すこしばかり頬が下膨れして、細い顎に唇が小さく肉感があった。目が細くやさしげで、はっとするほどきれいな顔立ちだった。
「どちらまで?」
「金沢に」
「そうですか、僕と同じですね」
そう言って英介は、女の顔をもう一度見た。目の奥の黒目が印象的だった。肌が、驚くほどに、白かった。
「まだ、付近の宿は空いているみたいですよ」
「そうですか」
女は、小さく頷いた。口元の紅が、すこしはげ落ちていた。
「良かったら、予約しましょうか」
「いいえ、結構です」
「でも、ここに朝までは、大変でしょう」
英介は、女の身に付けている仕立ての良さそうな着物を見ながら言った。
女は、すこし考えるような顔して、恥かしそうに言った。
「お金をもっていないんです」
その言い方が、どこか寂しげで、英介の心に、どうしようもない衝動が生まれた。
「よかったら、ご一緒しませんか」
英介の心に、思うところがなかったといえば嘘になる。しかし、自然に出た言葉だった。女の細面の顔の輪郭と、細い目の感じが、どうしても気になった。かなりの美人だったが、こういう美人顔に、はじめて出会った気がした。
2
葉子が旅館に現れたのは、夕食を済ませて、部屋でひとりビールを飲んでいるときだった。
宿は古い木造で、他の旅館と同じように渓流に沿ってせり出すように建っていた。どの部屋も流れに面していた。流れはかなり深いところにあって、それを木々が覆うようにしているので、川そのものは見えなかった。
流れが岩を打つ音だけが聞こえていた。渓流を覆う木々の葉は、どれもよく色づいていた。カエデが、いちばん目を惹いたが、桜やニシキギの葉も、鮮やかな色彩だった。視覚には、色づいた木々があり、川は見えないが、水の音ばかりが聞こえていた。
葉子は、部屋に入ってくると、案内してくれた女中に礼を言うと、英介に向かって居ずまいを正した。
「あのときは、ありがとうございました」
葉子の姿を見て、英介は言葉を失った。十五年前に見た葉子と、何ひとつ変わらない姿がここにある気がした。
藍色の地に、梅鉢ちらしの細かい文様が美しい江戸小紋に、ベージュの風除けコートを脇に抱えていただけの恰好だった。あのときと違っているのは、手提げを持っていることと、足袋が白光りするように真新しいことだった。
夜の八時を過ぎていた。
英介はすでに二度ほど湯を浴びて、浴衣の前をはだけていた。火照った身体を夜気で冷ましているところだった。
「お店を抜けて、良かったのですか?」
英介が尋ねると、葉子は、ええと頷いた。
「すこし、呑みませんか」
そう言って英介は、新しいコップを出して、座卓に置いた。赤光りする座卓の板は、見るからにしっかりとした樫で、四脚に彫りもあり、上質のものだとわかった。
葉子は、ビールが注がれたグラスを両手に取ると、三分の一ほど口をつけた。上品な飲み方だった。さすがに、料亭の女将という感じだった。
「これ、あのときの宿代に。いまさらですが」
そう言って葉子は、封筒を差し出した。
「そんなことは、もういいんです」
「でも」
「僕はただ、あなたがどうしているかと、ひと目みたいと思って。あんな立派なお店を切り盛りして、すごいですね。それに、ずいぶん元気そうで、良かった」
英介がそう言うと、葉子は、すこし下を見てから、目を上げた。
「わたしが、元気そうに?」
「違いますか?」
「どうでしょう、・・・」
葉子は、宙を見るような目をした。
「毎日、かつかつでやっているだけですから」
そう言ってから、葉子はすこし複雑そうな顔をした。しかし、十五年前の雪の夜に見た葉子と比べたら、ずいぶんと元気そうに見えるのは確かだった。
「あのときと、変わっていませんね」
英介がそう言うと、葉子は首を振った。
「こんなに皺も増えて、ずいぶんおばあさんになってしまいました」
「いいや、十五年前と、あなたはすこしも変わっていない」
英介は、本心からそう思った。
「あなたも、変わっていないわ」
葉子は、英介を透かし見るように、上目使いにじっと見つめた。細い目の中に黒目があり、その黒目の中に、英介は吸い込まれそうになった。
「あなたに会ったら、いろいろなことをお話したいと、ずっとそう思っていました。でも、顔を見てしまうと、何を喋ったらいいのか、わからなくなってきました」
そう言うと、葉子は窓の方に目を向けた。
窓ガラスの向こうに、暗い夜があり、夕刻まで鮮やかな色を見せていた木々の葉が、黒い塊のようになっていた。
「あれから、どうしていたのか、良かったら、話してくれませんか」
「ええ。あなたの話も聞きたいわ」
葉子の姿が、英介に向かってゆっくりと近づいてくるような気がして、英介はどきっとした。十五年ぶりに再会した葉子が、こんな反応をしてくれるとは、予想もしていないことだった。男の中で勝手に理想化された女の姿は、現実の世界とは、かけ離れたものになっているだろうという覚悟はしていた。
「今日は、ゆっくりできますか?」
言葉を選びながら、英介は尋ねた。そのとき、葉子の目の黒いところが光ったように見えた。
「わたし、中崎の家を出てきました」
葉子の言葉に、英介は耳を疑った。
そして、葉子の姓が、中崎ということを改めて思い出した。昼間に見た料亭の玄関の軒下のうだつに、「中崎」という墨書きの看板が掛かっていた。
葉子の黒目が、ゆっくりと、また違った色に変わっていくようだった。女の心の揺れのようなものが、その黒目の中に映るようだった。この目は、あのときの目と、何も変わっていないと、英介は改めて思った。
「どうして、そんなこと?」
「ずっと、そうしようと思っていたの。今日で出ようか、明日出ようかと。このカバンの中には、いつも通帳やカード、保険証、それからパスポートも入れて、何かあったらいつでも出られるようにしています」
英介は、じっと葉子を見つめた。
「そうしていないと、自分がどうにかなってしまいそうで」
「苦労をしているみたいだね」
英介の問いかけに、葉子はふっと哀しげな顔を見せた。その表情が、びっくりするほどきれいに見えた。
「こんなことをして、あきれた女だと思っていらっしゃるでしょう?」
英介が首を振ると、葉子はふっと目を細めた。
「来る日も来る日も夫の不義を見せつけられて、お店の切り盛りもあって、心も身体もへとへと・・・・」
英介は、女の脇にある手提げカバンに目を落とした。格子の柄に、銀色の糸で刺繍が施してある。刺繍は、花のかたちをしていた。桔梗のようだった。
「お店に来てくれたあなたの姿を見て、わたしを救い出しに来てくれたのかと思ったくらい」
「しかし、・・・」
英介は、葉子に何かを言ってやりたかったが、言葉が思い当たらなかった。彼女がこれまで抱えてきたものが、目の前の葉子の姿を通して、英介の心にも滲んでくるようだった。
「心配なさらないで。あなたに迷惑はかけません。今度はちゃんとお金も持っています」
そう言って、葉子はじっと英介を見つめた。大胆なことを口にする女に対して、男がどんな反応をするのか、見逃すまいとしているようにも見えた。
「ご迷惑でなかったら、あなたのご旅行に、付き合わせてくださらない?あなたが帰るまでには、わたしもちゃんと自分の行くところを探しますから」
葉子は小さく笑った。声には、切羽詰まったようなところはなかったが、強い意志があるようだった。細面の顔は、口元には肉感があり、唇も豊かだった。この口元の感じを、英介はずっと覚えていた。あの夜に見た葉子は、口元の紅がすこしばかり剥がれていて、その感じが、どうしようもなく艶めかしかったのを覚えている。
「旅行といっても、あなたの顔を見たいと思って、あとは何も考えていない」
葉子は、ふふっと笑った。
「ここに二日ほど泊まって、そのあとのことは、これから考えようと」
「それでもいいのよ」
葉子の目が、真っ直ぐに英介を見ていた。
「あなたは、どうしていらしたの?」
「僕は、いろいろあって、いまは独り身です。あと数年もしたら、いわゆる役職定年になるので、会社が勧める早期退職プランというのがあって、グループ会社に出向することが決まっています。その方が、長く現役で働けますから」
「会社勤めの方には、そういうご苦労があるのね」
「いわゆる、人生の節目みたいなものです」
葉子の目が、もう一度英介の心に迫ってくるようだった。
「それで、わたしに会いにきてくれたの?」
英介が頷くと、葉子は、細い目を、さらに細めた。一本の筆で引いたような目になった。
「奥さまは?」
「出て行った」
「まあ」
葉子はそう言うと、じっと英介を見つめた。相手の顔を、じっと見つめるのは、彼女の癖のようだった。英介は、すこしばかり、居心地の悪さを感じた。
よく見ると、その黒目の動きが細動しているようで、ただの光の加減のようでもあり、それでも動きがあるようだった。
英介は、座卓を回り込んで、葉子の肩を抱きすくめた。草の匂いがした。新しい畳の匂いだった。部屋の空気は乾いていて、英介は瞬きをした。葉子が、軽く目を閉じたとき、英介はゆっくりと葉子に覆いかぶさった。
3
東京の世田谷の外れにある英介のマンションは、3LDKのつくりだった。古いマンションで、ここに住んでもう三十年になる。田舎を出て、東京の大学に通う英介たち兄弟のために、かつて父が買ってくれたものだった。
レンガ調の十二階建てで、各部屋にはそれぞれ大きなバルコニーがあり、白く塗られた欄干には、ツルクサを型とった派手な装飾があった。窓は大きく取られて、天井も高かった。当時としてはかなりモダンなマンションだった。
しばらくは、弟と二人で住んでいたが、弟が父の事業を継ぐために田舎に帰り、その父が亡くなると、このマンションは英介が相続した。
英介は、結婚してから、妻の恵美と二十五年間、このマンションで暮らした。息子が一人いたが、二年ほど前に就職して、いまは地方で暮らしていた。
英介の部屋は、二階にあった。部屋のすぐ下が、緑地になっていて、木々が豊かだった。木々の向こうに、関東山地の稜線が見えた。
「眺めのいいお部屋」
部屋を見ると、葉子は驚いたように声をあげた。
新築の当初は、広いリビングのある2DKの間取りだったが、十年ほど前に、子供部屋をつくるために、3DKにリフォームした。リビングを間仕切ってつくった部屋は、南向きで、眺望もいちばん良かった。その部屋を、妻の恵美が使っていた。
「この部屋を、自由につかったらいい」
部屋は、恵美がいたときのままだった。恵美がいつか帰ってくるかもしれないという思いが、心の片隅になかったかといえば、否定はできなかった。しかし、帰って来たとしても、再び元のような関係がつくれるかといえば、それはありえないことだった。
「わたしは、ソファーでも使わせてもらったら、それでいいのよ」
葉子は、困ったように言った。
「だって、しばらくいてくれるのだろう?」
英介が言うと、葉子は、口元に小さく笑みを浮かべた。
「あなたさえよければ」
葉子の細い目が、糸のような線をつくった。
「でもなんだか、奥さまに悪いわ」
「そんなことはない。だいいち、もう奥さんでもなんでもない。他人のものを使うのは、いやかもしれないが、いずれ捨てようかと思っていたものだ。使えるのなら、使ってくれたらいい。新しいのを買った方がよければ、そうすればいい。とにかく君のいいようにしてくれ」
部屋は、六畳ほどの広さで、南と東側にそれぞれ窓がある角部屋だった。南側にはテラスがあり、そこに立つと、手の届くほどの眼下に、緑地帯が広がっていた。すぐ下の緑地帯には、マンションの建物を囲うようにして、植栽が植えられていた。それは、ちょっとした公園のようでもあった。
冬に花を咲かせる木々もあり、ちょうど山茶花が花をつけていた。ここの山茶花は、十本ほどが等間隔に植わっているが、どういうわけか、どれも白い花ばかりだった。
目を移すと、ドウダンツツジや椿があり、背の低いシルバープリペットが青い葉を茂らせていた。ずいぶんと背の高い木もあった。その樹は、両手の指を広げたように、かたちよく枝を広げていた。シャラの樹だった。
緑地帯の向こうには、病院の建物があり、その庭にも緑が多かった。老人がひとり、ゆっくりと歩いていた。そこには、別の時間が流れているようだった。病院の庭とマンションの緑地帯は、地続きのようになっていて、ひとつの大きな公園が広がっているようだった。
葉子は、ひと目でこの部屋からの眺望が気に入った。中崎の家では、店に隣接した離れに住んでいたが、葉子の部屋は納屋に面していて、窓からの眺望はなかった。眺めのいい部屋に暮らすのは、葉子の夢だった。
家具は少なく、ベッドと小さな鏡台とラックがあるきりだった。
「ショパンがこんなたくさん」
葉子は、スチール製のラックに並べられたCDケースに目をとめた。二十枚ほどあるが、どれもショパンだった。
「奥さま、ピアノを?」
葉子は尋ねた。
「昔はやっていたみたいだが」
「わたしも、ショパンが大好きなのよ」
「君も、ピアノを?」
「ええ。でもずっと前のこと。高校生のときにやめてしまったわ」
葉子は、CDケースのラベルを、ひとつひとつ眺めた。古いものが多かった。バラード、スケルツォ、前奏曲、夜想曲、さまざまだった。中には、かつて自分で鍵盤をたたいた曲もあった。バラードの八長調は、とくに好きな曲だった。葉子は、ずいぶんピアノを弾いていないと思った。
それから、クローゼットを開けてみて、驚いた。
そこには、鮮やかな色彩の洋服がぎっしりと詰まっていた。とてもおしゃれな女性がここにいたのだと、瞬時に感じた。しかも、どれも葉子の趣味と合っていた。
「すてきなお洋服ばかり、・・・」
「気に入ったら、どれでも自由に使ってくれ」
「いいのかしら」
「ああ。一度も手を通さなかった洋服もあるみたいだ」
葉子は、着物ひとつで中崎の家を出て来たので、着替えを持ち合わせていなかった。洋服がこんなにあるのは、助かった。
「奥さまって、小柄な方だったのかしら」
「そうだね」
「わたしくらい?」
「まあ、そんなところかもしれない」
英介は、曖昧に答えた。
つい数か月前までここに、顔も知らない女が暮らしていたことを考えると、葉子はなんだか不思議な気がした。しかも、その女が使っていた日常の何もかもを、そっくりと受け継ごうとしている。葉子は、自分が別の人間の人生を生きようとしているような錯覚に陥った。
葉子は、自分の顔立ちが地味なので、家にいるときでも鮮やかな色合いの洋服を選んで着るようにしていた。店では和装だが、帯だけは華やかなものを選んで合わせた。普段着は、フリルのついたスカートや、花の刺繍のはいったブラウスとかを好んだ。そういうものを身につけるだけで、気持ちが華やかになった。
葉子が選んだのは、黒地に水玉の模様の入ったワンピースだった。腰の辺りがかなり絞ってあり、フリルのついたスカートは、バルーン状に膨らんでいた。
「ぴったりじゃないか」
着替えてリビングに出ると、英介が声をあげた。自分でも驚くほど、サイズが合っていた。
「なんだか、恥かしいわ」
「よく似合っている。嘘みたいだ」
英介の妻だった女の洋服を着ているところを、英介に見られて、葉子は、自分が自分でないような、拠り所のない気持ちになった。自分の中の深いところをすべて晒されているような気持になった。
「ほんとうに、よく似合っている」
英介が、同じことを言った。葉子は、胸が熱くなってくるようだった。
「それにしても、君の腕は細いんだね」
しみじみと、英介が言う。
「奥さまも、そうでしたの?」
「君の比じゃない」
「ほんとうかしら」
英介が、葉子の腕を取った。英介の指は、熱がこもったようだった。
「腕ばかりじゃない。脚も指も、こんなに細くて・・・」
英介の熱が、指を通して葉子の体内に伝染してくるようだった。こんなふうに男に言われたのも、触れられたのも、初めてだった。
葉子は、決して痩せているというわけではなかった。胸にも尻にも、それなりに肉はついていたが、腕や脚は、たしかに細いかもしれなかった。自分でも、もうすこし肉がついてくれたらと思うこともあったので、英介にそう言われて、葉子は嬉しかった。
「この細い指で、ピアノを弾いていたの?」
「そうよ」
葉子の指は細かったが、関節がすっとしていて、長かった。ピアノを弾くのは、指が長いといいと言われた。しかし、それも、練習曲が難しくなってくると、鍵盤の距離も長く、速度も速くなり、細い指の先まで力を込めるのは大変な作業だった。
その夜、葉子は何度も英介にかき乱された。
英介の奥さんが数か月前まで使っていたというベッドは、シモンズ製で、小振りながら頑丈なフレームだった。スプリングはしっかりと反発して、気持ち良かった。
「この部屋では、なんだか恥ずかしいわ」
葉子は、上の空でそうつぶやいた。天井のクロスが、ぼんやりと見えた。
英介は、葉子の言葉には答えずに、何度も葉子に覆いかぶさってきた。幾つかの波があり、葉子の全身から力が抜けていった。頭の中が、真っ白になった。
福島の温泉郷の旅館で、十五年振りに英介に身を任せたときは、何が何だかわからなかった。十五年の間に、英介との記憶はかたちを変え、葉子の中で結晶になっていた。それが、現実のものになって、目の前に現れたことに戸惑い、葉子は、緊張で押しつぶしてしまいそうだった。一日経って、それがすこし落ち着いてきたかたちだった。
明け方、葉子は夢を見た。
夜だった。しかし暗さの中に明るさのあるような、空間だった。白っぽいのは、雪だと思った。この白さは、雪の他には考えられなかった。しかし、雪だという確証もなかったし、寒さもなかった。感じているのかもしれなかったが、わからなかった。寒さの中に温かさがあるようだった。
葉子は、何もせずに、ただ座っていた。そうしていると、ゴトンと揺れがあり、電車が動いたようだった。周囲を見回したが、誰もいなかった。離れた席に、人がいるようだった。英介ではなかった。夫のようにも見えたが、はっきりとは確認できなかった。
英介のマンションに転がり込んで数日は、夢のように時間が過ぎた。
英介は、一週間ほど休暇をとっていたので、二人が新しい生活を準備するための時間は充分にあった。といっても、葉子は何もいらなかった。二人で買ったものといえば、新しいタオルと歯ブラシ、下着類と葉子のサイズに合ったパンプスくらいだった。それから、スマートフォンを新規契約して買った。
英介は優しかった。葉子を気遣い、いたわってくれた。このままでいたら、この人のことをほんとうに好きになってしまいそうだった。しかし、ここにずっと収まってしまうなんてことは、現実のこととしてはありえないことだった。葉子は、中崎の家を黙って出てきた。このままで済むものではなかった。
女将が急にいなくなった店は、どうなっているだろうか。長い年月働いてくれている従業員たちは、誰も真面目で、手を抜くような人たちではなかった。そのことは、結婚して、義母から女将を引き継ぎ、店を切り盛りしてきた葉子が、いちばんよく知っていた。
しかし、誰かが先頭に立って切り盛りしなければ、いずれ店は立ち行かなくなるだろう。隠居して店から離れて長い義母が、いまさら店を切り盛りできるはずもなかった。葉子は、店員たちの中で、古株の女たちの顔を思い浮かべで、すぐに首を振った。それから、大学生になる娘のことを考えた。あの子なら、わたしの代わりができるかもしれない。しかし、それも都合のよい空想にすぎなかった。
4
葉子は、あの雪の夜の記憶を、これまで何度たどっただろうかと思った。あの夜の出来事は、思い返せば思い返すほど、奇跡のようだった。
あの日、衝動的に「中崎」を出て、北陸をめざしていたが、そこにあてがあるわけでもなかった。父はもうこの世にはいなかったし、母はどこにいるのかわからなかった。葉子には、兄妹もなかった。親戚がいないでもなかったが、疎遠になっていたので、いきなり訪ねて行くわけにもいかなかった。古い友人たちの顔も思い浮かんだが、いま何をやっているのかもわからない人たちだった。
それでも、生まれ故郷の他に行くところが思いつかなかった。もし、あの雪で電車が止まらなかったら、葉子はどうしていただろうか。そのせいかもしれないが、あの夜の葉子は、別人だった。
葉子はあのときまで、夫以外の男を知らなかった。葉子にとって、初めての男が夫だったから、英介は、二人目の男ということになる。葉子は、生涯夫以外の男と、そういうことになるとは考えてもいなかった。
あの夜、葉子は、英介にかき乱されながら、声を上げていたと思う。そして、何度も英介にしがみついた。生の女というものが、こんなにも生々しく、凄絶なものだと、葉子はそれまで知らなかった。赤面するような記憶は、あれから何度思い返しても、葉子の胸を熱くした。そして、そのことが、葉子の心の支えになってきたのも事実だった。
あの雪の夜、駅員が配ってくれた弁当に、すこしだけ箸をつけたが、葉子はすぐに胸がいっぱいになった。弁当は、押し寿司とちらしをあしらったものだった。昼前に、衝動的に店を出てきてから、何も口にしていなかったが、食欲はなかった。
レジから掴み取ってきた一万円札が、何枚かあったが、ここまでくるうちになくなっていた。先のことを考えて、飛び出してきたわけではなかった。夫が店のアルバイトの女学生に手を出したことを知って、頭が真っ白になった。
そういうことが、これまでに何度あったことか知れなかった。結婚してしばらくしたとき、夫には昔から付き合っている女がいることを知った。教えてくれたのは、従業員の一人だった。以前に「中崎」に勤めていたという女は、夫の子供をつくって、市内に家を構えていた。それならば、夫はどうしてその女と一緒にならずに、葉子と結婚したのか。
夫の女癖の悪さは、それだけではなかった。夫は店に来る新しい女に、次々に手を出した。老舗料亭の跡取りで、見た目も男前の夫は、女性によく持てた。しかし、二十歳にもなっていない女学生にまで手を出すとは、思わなかった。気が付いたら、葉子は店を飛び出していた。
食べかけた弁当を膝に置いて、ぼんやりとしていたときだった。英介に話しかけられて、葉子は不意をつかれた格好だった。
「どちらまで?」
見上げると、スーツを着た、背の高い男が立っていた。押し出しのしっかりとした顔が、誰かに似ているなと思った。
初めて出会った男の人に、一緒に宿に行かないかと誘われて、葉子は深く考えることもなく頷いていた。雪で立ち往生しているし、この異常な状況が、女の警戒心を薄くさせたのかもしれなかった。それに、葉子は疲れていた。早く帯を解いて、横になりたかった。
宿に着いたとき、空室は英介がとった一部屋しかないことを告げられた。いまさら雪の中を引き返して、電車まで戻る気はしなかった。英介が、よかったら一緒に、と言ってくれたので、葉子は黙って頷いていた。
夜で雪も深かったので、どんな宿だったのか、定かには思い出せない。しかし、玄関は広くつくられ、小上がりに囲炉裏があったように思う。敷き詰められた緋色の絨毯が、宿の格式を思わせた。
満室だというのに、旅館に人の気配は少なかった。夜が更けているせいだろうか。お湯を借りに行くらしい浴衣姿の客に、すれ違っただけだった。
二人とも、言葉は少なかった。相手の名前も聞いていなかった。宿の女中が二人分の浴衣を置いて部屋を出て行くと、葉子は英介に抱きすくめられた。抵抗はなかった。帯は、自分で解いた。不思議と、恥かしさはなかった。
英介の身体は熱かった。その熱さに、葉子は救われたような気持ちだった。
あの夜、葉子の身体は、どこか硬かった。自分でもわかるほどに、四肢の隅々までもが硬直しているのがわかった。これは、女の身体が見知らぬ男を拒絶しているのだろうかとも思った。
部屋には暖房が効いていて、寒くはないはずなのに、奥歯の下からこみ上げてくるような震えが止まらなかった。震えていることを英介に悟られないようにと、歯を食いしばると、葉子の身体は一層硬くなった。
布団に入ってきた英介は、しばらく何もしなかった。葉子を抱きしめて、じっとしていた。男の身体の熱さと息の感触だけを、葉子は感じていた。男からは、いい匂いがしていた。アルマーニのコロンだと、後になって知った。
英介が、ゆっくりと股間に手を伸ばしてきたとき、葉子はもういちど身を固くした。
「寒くないかい?」
葉子は首を振った。震えるほど、緊張していた。
「わたし、初めて・・・」
英介の目が、すぐ近くにあった。
「夫以外の人とは、初めてなの」
言い終わらないうちに、口がふさがれた。そのあとのことは、よく覚えていなかった。
「痛くないか?」
英介の言葉に、必死に首を振っていたのを覚えている。
あの雪の夜に、英介と出会ったことは、偶然だった。偶然だったが、あの夜のことが、葉子の生き方を決定的に変えてしまったのもほんとうだった。
葉子はこれまで、ずっとあの夜の思い出にこだわってきた気がする。心のどこかで、いつか英介と再会できるかもしれないという思いがあった。
彼と再会して、自分は新しい人生を生き直す。自分にはそういう未来が待っているという思いが、心のどこかにいつもあった。そう思うことで、現実を生きてこれたような気がする。そんな根拠のないことを頼りに生きてきたのかと思うと、不思議でもあり、滑稽でもあった。
年が終わろうとしていた。葉子が英介のマンションに暮らすようになって、一か月ほどが過ぎていた。
どういうわけか、その年の冬は、雨が多かった。普段なら乾いた冷たい風が吹きつけるところを、雨が、激しくもなく、霧のように降る日が続いた。風はなかったので、窓から眺めていると、雨の粒が粉のように筋をつくっているのが見えた。
マンションの葉子の部屋のすぐ下は、緑地帯になっていて、そこに木々があり、冬でも葉を茂らせている樹木も多かった。シマトネリコ、ユーカリがとくに目についた。椿の葉も、尖ったようなかたちの葉を黒々とさせ、雨に光っていた。
部屋にはいつも、ショパンのピアノ曲が流れていた。ショパンが生涯で書いた、四つのバラードだった。
葉子は、部屋にあったCDを毎日聴いた。
とくに、四つのバラードは、リピートして繰り返し聴いた。奏者は、アシュケナージで、一九七〇年代に録音されたものだった。寄せる波のように音が揺れ、美しい演奏だった。奥行きがあって、心が引き込まれていくようだった。
葉子は高校生でピアノを辞めてしまったが、バラードの一番は得意な曲だった。他にも、弾いたことのある曲がいくつもあった。曲の中に物語があり、風景があった。まざまざと風景が脳裏に浮かび、そこに自分がいた。あの感覚は、この曲を弾いたことのある人でないとわからない気がした。
「いつもショパンを聴いているけれど、よほど好きなんだね」
英介に言われて、葉子もそうなのだろうかと思った。
「飽きないの?」
「そんなに、真剣に聴いているわけでもないのよ。昔弾いていたから、そのときのことなんかを、思い出すのよ」
葉子はそう言うと、リモコンを使って、CDプレイヤーの電源をオフにした。音が消えて、静寂が流れた。それでも、耳の奥に音が生きているようだった。
葉子にとっては、ショパンを聴いているというよりも、音の中にいるという感じだった。ショパンは、弟子たちに向かって、歌うように曲を弾くようにと指導したと言われている。彼のピアノ曲は、どこか人の語りにも似ていて、葉子が音の中にいると感じるのは、耳元で誰かに囁かれているように感じるせいかもしれなかった。
大晦日に、葉子は寒気を覚えて目が覚めた。全身にだるさがあり、身体が思うように動かなかった。体温を測ると、三十八度の熱があった。「中崎」で働いているときにも、風邪ひとつ、かかったことがなかった身体だった。
頭の中に、熱を持った水が巡っているようだった。神経のすべてが弛緩して、自分の手脚が自分のものでないような気がした。
葉子は、寝込んでしまった。
寝込んだ葉子を、英介は献身的に看病してくれた。英介は、どこまでも優しかった。この優しさがどこからくるものなのか、葉子にはわからなかった。この人の本来のものが、そこにあるような気がした。そうだとしたら、二十五年も一緒に暮らしてきた英介の妻は、どうしてここを出て行ってしまったのだろうか。
元旦の夜、葉子は熱にうなされながら、夢を見た。ここに来て、二度目のはっきりとした夢だった。
そこは、白い世界だった。白さの中に暗さがあり、その中に、明るさがあった。
葉子は、どこまでも白い世界を、ただ歩いているという気がした。今度は電車の中ではなかった。白さは、雪のようでもあったが、寒くはなかった。風も感じなかった。ただぼんやりとした柔らかさと、どこまでもこの道が続くのだという感覚だけがあった。その先には、希望や未来があるというよりも、ただこの繰り返しだけがあるだけという気がした。
5
英介は、葉子の顔色がすぐれていないのが、ずっと気になっていた。もともと色白で、どこか青みかかった肌の色をしていたが、このマンションに来た頃と比べても、その青み加減が、濃くなったように思えた。
初めのうちは、気のせいかとも思ったが、そうでもないように思うようになった。一度、病院で診察を受けてみたらどうかと言ったこともあったが、葉子は首を振るだけで、なかなか言うことを聞かなかった。年末に高熱を出したときにも、医者にはかからなかった。
「貧血症なのよ」
葉子はそう言うだけで、取り合わなかった。
「鉄分を処方してもらっているから、それを飲んだらすぐに良くなるわ」
英介が気になったのは、そればかりではなかった。
ときどき、夜中に葉子が目を覚ましているのに気付くことがあった。お酒を飲んで、ずいぶん頬を紅潮させたときでも、やはり寝付けない夜もあるようだった。
しかし、具合の悪そうなときばかりでもなく、調子の良い日もあった。手の込んだ料理を、テーブルに並べきれないくらいにつくってくれることもあった。料亭の女将で鍛えられただけあって、料理の味は確かだった。一抹の不安はあったが、英介と葉子の生活は、平穏に、ゆっくりと過ぎていった。
一月になると、英介の職場は変わった。
これまで、丸の内の本社に勤めていたが、川崎にあるグループ会社に転籍になった。役員待遇だったが、給与は本社にいるときの方がずっと良かった。それでも、グループ会社に移れば、六十過ぎまで現役で働くことができる。英介は、そちらを選んだ。
仕事を終えて家に帰ると、葉子が食事をつくって待っているという生活だった。若い頃から、残業や休日出勤をいとわずに、がむしゃらにやってきた英介にとっては、新鮮な生活だった。これまで、平日の夜に家で食事をするなんてことは、なかった。
「君がここに来てくれてから、家の中が変わった」
ある日、英介は葉子に向かって言った。
「そう?」
「華やかになった」
「好きなものや、美しいものに囲まれていられれば、わたしはそれで幸せ」
葉子の口癖だった。葉子は、よく花や食器を買い込んできた。テーブルクロスは、Zaraのブルーのストライプが鮮やかなものを使った。シーツも、枕カバーも、鮮やかなデザインのものにそろえた。そういう色彩のセンスそのものに、葉子の個性がにじみ出てくるようだった。
英介は、葉子の色が、この狭いマンションの部屋の中で、少しずつ滲み広がっていくような気がして、それが嬉しかった。
葉子は、お酒をよく口にしたが、とくにワインが好きだった。タイリア産のサンジョベーゼをダース買いして、たいてい一日一本は空けていた。重いワインだったが、どんなに飲んでも、乱れることも、顔色を変えることもなかった。白い顔に、うっすらと膜を張ったように色をつけて、その色合いが、透明に発色していった。
英介の仕事が休みの日には、明るいうちから二人でワインを開けることもあった。買い込んでいたピクルスやチーズを花柄のプレートに盛り付けて、バルコニーのブランインドを開けた。
冬の陽射しは柔らかく、つかみどころのないような光り方だったが、透明感のある温かみがあった。
「まだ、こんな明るいのに」
裸にされて、葉子は恥ずかしそうに身を縮めた。その感じが、英介はたまらなく好きだった。
「どうして、そんなふうに見るの?ブラインドを下ろしてくれないと、目を開けられないわ」
明かりの中で、すべて肌を晒してしまうことに、葉子は慣れることはなかった。それでも、英介はやめられなかった。葉子の身体の隅々までも、目に焼き付けておきたかった。この時間の中に、何か不吉があるというわけではなかった。ただ、そうしていないと、葉子がどこかへ霞んでしまいそうだった。
葉子の肌には、飽きることがなかった。透き通るような肌だった。英介は、女の肉に溺れるということが、こういうことかと、初めて知る思いだった。
どれくらいの時間が経ったろうか。しばらくまどろんでいたようだった。
知らないうちに、外は暗くなっていた。ブラインドを開けたままの窓の外に、満天の星があった。葉子がリピートにして流していたショパンは続いていた。葉子の身体に没頭しているときには気付かなかったが、音は低いところで、しっかりと振動して、ベッドのスプリングを通して、その細動が伝わってくるようだった。
そのとき、呼び鈴が鳴った。
洋服を身に付けて、英介が出ると、半年前にここを出て行った妻の恵美が、玄関前に立っていた。
「どうした?」
「どうもしないわ。ここは、わたしの家ですから」
「君とは、もう縁が切れたはずだ」
「わたしの荷物だってまだあるのよ。この部屋だって、わたしにも権利があるって、教えてくれたひとがいたわ」
恵美は、英介を睨み返すように見た。
「離婚届けも出した。必要な財産分与は終わったはずだ」
恵美は、くびをかしげた。
「誰かいるの?」
「君には、関係ない」
「ショパンが流れているわ」
恵美が言った。
「わたしのCDじゃない?」
英介は、黙っていた。
「わたしのものに、触らせないでよ」
「君のものなど、ここはない」
恵美は、かたちの良い目を吊り上げて、英介を睨んだ。
「いいわ。またくるわ」
恵美はそう言うと、すこしだけ寂しそうな目を見せて、それ以上は言わずに帰って行った。
「だいじょうぶ?」
リビングに戻ると、葉子が心配そうな目を向けた。ショパンのスケルツォが流れていた。
「勝手な女だ。いまさら話すことなどない」
「でも、あの部屋にあるものは、奥さまのものでしょう?返してあげたほうがいいのではありませんか」
「そんな必要はない」
葉子にはそう言ったが、英介の心は複雑だった。恵美は確かにここを出て行ったが、英介がそう望んだわけではなかった。まして、憎しみ合って別れたわけでもなかった。
そもそも、どうして恵美が別れると言い出したのか、英介にはよくわからなかった。子供が就職して、家を出て、これからは二人で残りの時間を過ごすのだろうと、漠然と思っていた。
関係会社に出向になることも伝えた。給料は減るが、六十までは仕事がもらえると聞いて、恵美も賛成してくれた。しかし、それから先のことは、考えていなかった。蓄えもすこしはある。年金も、期待はできた。ただ、そういう話を、恵美としたこともなかった。いずれそういうときがくるだろうとは思っていたが、その前に恵美は出て行った。
恵美は、好きな人ができたと言っていたが、それが誰なのか、英介は知らなかったし、そもそも恵美にそういう男がいたのかも、わからなかった。
しかし、恵美の意志は固かった。何度も話し合ったが、途中から、半ばあきらめた格好になって、離婚に合意した。
あのときから、英介の心には、小さな洞が残った。恵美のことをこれまでどれだけ見てきたのだろうかと思い返すと、彼女のことを、あまり顧みないで生きてきたという気もした。恵美に対して、申し訳ないという気もちもあった。しかし、すべては後から思うことにすぎなかった。
それから、数日後のことだった。
「わたし、働こうかしら」
葉子が、突然言い出した。
英介が目を上げると、葉子は意外にも真剣な顔をしていた。
「この部屋にいるだけでは、退屈か?」
「そういうわけではないのですけれど、もととも、休みもなく、お店で働いていたでしょう。そういうのに身体が慣れてしまっているのよ」
週末に届く新聞広告には、いくつもの求人があった。レジや接客、調理補助、事務といった簡単な仕事が多かった。しかし、飲食店には、興味がないらしかった。慣れているといえばそうだか、もっと違う世界を見たいと、葉子はうれしそうに言った。
6
二月になると、葉子は、新宿にある百貨店の売り場に立つようになった。勤務は週三日で、朝の十時から三時までのパートタイムだった。食器卸しの会社に採用された格好で、百貨店の生活雑貨売り場に派遣されて、陶器の販売を担当した。
勤めてわかったことだが、百貨店の売り場にいる店員のほとんどは、百貨店の社員ではなかった。葉子のいる日用雑貨フロアの食器売り場でも、社員は数えるほどしかおらず、実際に客の相手をしているのは、メーカーや卸し会社から派遣されている葉子のような人たちだった。
彼らは、自分の会社の商品を売りに来ているわけだが、客にしてみれば、そんなことは知ったことではなかった。自社製品以外のこともいろいろ聞かれるので、勉強しておかなければならなかった。
しかし、覚えてしまえば、仕事は単純だった。接客と展示品の入れ替え、それに商品の発注や納品管理が主な内容だった。会計は、社員がやってくれるので、客を商品と一緒にレジまで連れていけばそれで終わりだった。しかし、客の中には専門家もいて、陶器の産地や素材について詳しく聞かれることもあった。中には、一個数十万もする陶器もあり、そういう商品については、作家や焼き窯のことも、詳しく知っていなければならなかった。
葉子にとって、陶器は馴染みがある。葉子が切り盛りしていた「中崎」では、使用している器の大半は九谷焼だった。九谷焼は、昔から九谷五彩といわれて、緑、紫、赤、紺青の五色で絵付けされていた。山水や草花、動物などが描かれていて、図柄も巧みだった。
器にこだわりをもっていた先代が、石川県の窯元までわざわざ出向いて、買い付けたというものだった。窯元のある街が、葉子の故郷に近いというのも、親近感があった。「中崎」では、伊万里や唐津も使っていたが、それらはどこか敷居が高かった。ガラスのような手触りも、硬さが目だつばかりで、葉子は馴染めなかった。
美濃焼も、店ではよく使っていた。徳利やお猪口、小皿に使うことが多かった。葉子は、美濃焼が好きだった。これという特徴もない焼き物だったが、そこがよかった。土の風味があり、釉薬の色合いも、どちらかというと、地味だった。厚手で、ぽってりとした手触りも好きだった。
そうして、英介のマンションに暮らすようになってから、三か月が経った。
福島の家の様子については、娘がときどきメールで教えてくれた。娘には、友人のところを渡り歩いていると言ってあった。
夫は、血眼になって自分を探しているらしかった。半月分の売り上げと、銀行の預金を全部引き出して持ってきたわけだから、支払いにも困っているはずだった。もしかしたら、警察に被害届を出すかもしれなかったが、それも覚悟してのことだった。
そのことを英介に話すと、彼は意外にもきっぱりとこう言った。
「お金は、返してあげたらいい」
「でも、わたしは何もないのよ。自分の名義になっている預金はわずかですし、ずっとあの店で働き詰めて、何も残っていません」
「それはそうだが、このままでは犯罪者になってしまうよ。それに、君がここで暮らしていけるくらいのことは、僕にできるよ」
英介は、何でもないことのように言った。
「わかったわ。そうする」
葉子は、頷いた。
次の日、葉子は通帳と印鑑を書留で送り返した。そうしたことで、葉子は肩の荷が下りた気がした。
これまでも、葉子は中崎の家を無断で出たことがある。十五年前の雪の夜のときもそうだった。しかし、一日か二日で戻った。こんなにも長く家に帰らなかったことは、これまでにないことだった。葉子には、もうあの家に帰るという道が、見えなくなっていた。
三か月経って、葉子の日常は、かつての日常と大きく様変わりしていた。
葉子の毎日は、至って単調だった。英介を送り出すと、洗濯や掃除をして、買い物をして、英介の帰りを待って食事をつくる。週に三日は、新宿の百貨店に出て、陶器の売り場に立った。毎日出ても良かったが、週に三日くらいが、ちょうど良かった。
パートのない日には、ショパンを聴きながら、一日中バルコニーから外を眺めて過ごすこともあった。そうしているだけで、時間を楽しむことができた。
それだけの日々だったが、充実していた。こういうのが、幸せというのかと思った。自分は、これまでどうして、こういうものに縁がなかったのだろうかとも思った。
考えてみたら、二十歳のときに、後先も考えずに夫の元に走ってから、こんな生活をしたことはかつてなかった。夫と暮らした二十年の月日は、振り返ってみれば、振り返ることもないような日々だった。葉子には、その日々がほんとうにあったことなのかどうか、わからなくなってきた。これまで自分はずっと、夢の中を歩いてきた。そして、ようやく現実の生が戻ってきたのだと、そんなふうに思ったりもした。
しかし、こんな日々が、いつまでも続くとも思えなかった。許されないことをしていると思わずにはいられなかった。葉子の性分がそう思わせるのか、女の業がそう思わせるのか、いつも心の底に、不安のようなものがこびりついていた。
その不安は、別の疑問にもつながった。
自分がこれまで生きてきて、そしてこれから生きていくことの意味は、なんだろうか。それを考えると、大きな、どこまでも深い洞を覗き込んでいるような気分になってしまう。そういうとき、葉子は、自分がそこに吸い込まれて、消えてなくなってしまいそうになった。
その一方で、葉子は、自分が明らかに変わっていくのを感じた。それは、生身の身体が見せる変化でもあった。自分の身体の内側から、流れ出て来るものをはっきりと感じた。それは、いままでも、そこにあったものかもしれなかったが、初めて見えるかたちであらわれたようだった。
あのまま、「中崎」の家にいて、小間使いのように働かされ続けていたら、いつか壊れてしまったかもしれなかった。
そのときふと、義父のことを思いだした。夫が家を省みず、外で女をつくったとき、夫を叱ってくれたのは、義父だけだった。優しい、人だった。
義父が葉子をかばうと、それとは反対に、義母は葉子に辛く当たった。それはしかし、やむを得ないことだった。その義父も三年前に亡くなり、それからは、義母も人が変わったようにおとなしくなった。いまとなっては、義母も良い人だったと思えるようになってきた。厳しい人だったが、店のしきたりや作法をひとつひとつを葉子に手ほどきしてくれたのは、義母だった。もし義母がいなかったら、いまの葉子はなかったともいえる。
そして、ときどき思うのが、実の父母のことだった。
葉子が生まれたのは、北陸の海沿いにある街だった。家は、日曜雑貨を扱う、小さな店だった。地元の人たちには贔屓にされていたが、郊外に出店した大型ショッピングモールに客を奪われて廃業した。葉子が、中学のときだった。商店街では、同じように廃業する店が、いくつもあった。
店が廃業してからは、父はあまり外出をしないようになった。店を売ったお金で、郊外に家を買い、家族でそこに移り住んだ。
母は、父とは違って、家に引き籠るような人ではなかった。郊外に出店したショッピングモールの店舗で働くようになった。服飾の雑貨を扱う店だったが、アクセサリーや海外から買い付けてきた小物などを扱っていて、わりと流行っていた。
店では、ネイルサービスもやっていた。もともとそういうことに興味のあった母は、資格をとって、ネイルサービスを自分でやるようになった。店は流行った。社交的な母の性格も手伝ったのだと思う。
葉子が高校二年のとき、母は県庁のある街の百貨店に引き抜かれた。ネイルができて、雑貨の扱いもうまかった母のビジネスセンスが買われた格好だった。
母が家に帰らなくなったのは、それからしばらくしてのことだった。男ができたらしかった。
家事は、残された葉子がひとりでやった。父は、一層引きこもりがちになり、日増しに元気がなくなった。そして、その数年後の冬、風邪をこじらせて肺炎を誘発させて、あっという間に亡くなった。葉子はそのとき、地元の短大に通っていた。
夫と知り合ったのは、そのころだった。
ドライブインでアルバイトをしていた葉子は、夫に声を掛けられた。友人たちと遊びに来ていた夫は、葉子をドライブに誘った。葉子はもちろん断ったが、メールアドレスを交換して、連絡を取り合うようになった。
夫は、隣県の大学生だった。休みを利用して、葉子に会いに来るようになった。羽振りが良くて、明るくてハンサムな夫に、葉子は恋をした。夫が大学を卒業して、福島の実家の料亭を継ぐために帰るとき、葉子はプロポーズされた。断る理由はなかった。しかし、夫の両親は反対だった。とくに、母親が反対した。父もなく、母も失踪している葉子の素性を怪しんだ。もっともなことだった。
葉子は努力して、義母に認めてもらえるように頑張った。料理はもとより、しきたりや作法、着付けもお茶も覚えて、中崎の家に溶け込もうとした。
しかし、結婚してすぐに、夫は外に女をつくった。というよりも、夫にはもともと、女がいた。ずいぶん年上の女だった。その女との間には、子供もいた。夫が高校生のときにできた相手で、「中崎」で働いていた女だった。夫の両親がお金を出して、女と子供に家を与えていた。そこに、夫は通っていた。知らなかったのは、葉子だけだった。
それでも、葉子は店に情熱を傾けた。接客業は、自分には向いているのだと思ったし、母の血を自分も継いでいるのだと思った。しかし、ときどき訪れる無性な寂しさだけは、どうすることもできなかった。心と身体とが、バラバラになってしまいそうになることもあった。
そういうとき、葉子は家を出た。思いつきのように、何も持たずに家を出ることもあった。その日のうちに帰ってくることもあれば、数日かけることもあった。しかし、男の人と泊まったのは、十五年前のあの雪の夜だけだった。
7
英介には、葉子の肌が、日増しに白くなっていくように思えて仕方なかった。白く、と言うよりも、色素が抜け落ちて、透明になっていくようだった。年末に高熱を出して寝込んでから、あれほどひどいことはなかったが、ときどき病人の顔のような表情を見せることもあった。
「どこか、具合が悪いのじゃないか」
英介の問いに、葉子は首を振った。
「どこも悪いところなんて。二十歳からずっと、中崎で働き詰めだったから、疲れてしまったのよ」
そう言われれば、そうかと思うより仕方なかった。
「しばらくパートは休んで、家でゆっくりとしていたらどうだろう」
「あのお仕事は、とても楽しいのよ。わたし、お皿とか、食器が好きだから、ずっとやりたかったの。父が、いつもお店で、品物を大事に扱っているのを見て育ってきたから、そう思うのかしら」
葉子は、昔のことを思い出すようにして言った。そういう葉子の様子を見ていると、英介は葉子の気持を大切にしたいと思った。葉子が居心地がいいと思う時間を長続きさせたいと思った。
英介は、葉子と暮らすようになって、自分の中に、こんなにも他人を思いやる気持ちがあったのかと、驚くことがあった。妻の恵美と暮らしていたときには、感じたことのないことだった。
英介には、葉子の考えていることが、手に取るようにわかる気がした。家を出てきたことに、後悔がないはずがなかった。残してきた娘や、店のことも、気がかりなはずだった。このマンションにいて、いくら英介がいるとはいえ、この時間が永遠に続くという保証もなかったし、だいいち英介と葉子は、入籍もしていない赤の他人だった。
葉子の籍は、まだ中崎のままだったから、それについてはどうしようもなかった。数か月前までここにいた、恵美のことも気になるはずだった。地方に暮らしている息子のこともある。葉子のことを、息子にどう伝えたらいいのか、英介はまだ考えていなかった。
しかし、英介には、葉子に寄り添うことが歓びだった。葉子の気持になって、彼女の心が平穏でいられるように、できるだけの努力をしたかった。葉子の結婚生活が、どれほど酷いものであったのかは、英介の想像の及ばないことだった。ただ、その生活の中で、十五年前の雪の夜のことをいつも心に抱いて生きていたということを聞いて、英介は宿命を感じた。
週末に、近くのドラックストアで、葉子と買い物をしているときだった。
女が近づいてくるのに気付いた。
「とてもすてきなワンピースね」
女はそう言って、葉子を上から下までなめまわすように見た。猫のように大きな目が特徴的だった。唇が赤くて、その輪郭が鮮やかだった。
「何をしている」
女が恵美だと気付いたのは、そのときだった。
「この人に何を言った?」
英介は、恵美を睨むように言った。
「わたしは、何も。すてきなワンピースね、と褒めていただけよ」
そう言って、恵美は口元を歪めた。形のいい鮮やかなラインが、生き物のように動いた。
「嫌味を言うな。君が置いていって、処分に困っていた洋服を使ってもらっている。感謝してほしいところだ」
「あら、ずいぶんと都合のいいこと」
恵美は、敵意をむき出しにした。
「わるいが、先に帰っていてくれないか」
葉子を返してしまうと、英介は恵美を連れて、駅近くのカフェに入った。
店は混んでいた。テーブル席がひとつだけ空いていた。英介は、そこに恵美を座らせると、コーヒーとミルクティーを買ってきた。
「あの人は、誰なの?」
恵美は、突っかかるように言った。
「昔からの知り合いだ」
「だから、誰なのよ?」
「東北で、料亭をやっている人だ。君には、関係のないことだ」
英介は、冷静に言った。葉子のことを、恵美に話したくはなかった。
「それって、どういうことなの?わたしの知らないところで、付き合っていた女がいたということなの?」
英介は、首を振った。
「どういうことなのよ?」
「君に説明しても、理解できない」
事実、そうだった。十五年前の雪の夜のことを、恵美に話したところで、行きずりの出会いくらいにしか、思ってくれないだろう。恵美だけでなく、誰か他の人に話しても、同じことだろう。
恵美は、不満そうな眼差しを英介に向けた。
「わたし、離婚して、なんだか馬鹿みたい」
「ん?」
「だって、経済的には不利だし、独りになっても、いいことなんて、なにもなかったわ」
そう言って恵美は、疲れたような顔をした。
「好きな人ができたんじゃなかったか」
恵美は、顎を引いた。
「そんな単純なものではないわ」
英介は、どこか恵美のことが哀れに思えてきた。しかし、どうしてやることも、できなかった。
「ねえ、わたしたち、やり直すことはできないかしら?」
恵美の言葉に、英介は驚いて目をあげた。
「そんなこと、・・・」
恵美は、そうよね、と言って、小さく溜息をついた。
「どうしたんだ?」
「わたし、詐欺にやられたみたい」
「えっ?」
「一緒に店を出そうってお店の敷金まで入れたのに、知らないうちに解約されて、お金も彼もいなくなった」
恵美の言い方は、投げやりだった。
「お金って、どれくらい?」
「あなたから分けてもらったお金」
「全部か?」
「ええ」
英介は、声が出なかった。離婚のとき、すべての定期を解約して、持っている現金のほとんどは恵美に渡した。かなりの金額になった。恵美が新しい人生を生きるために、必要なことはできるだけしてやりたいと思った。英介自身は、まだグループ会社で働けるので、減りはするが収入はあった。専業主婦をしてきた恵美には、元手となるお金が必要なはずだった。
「警察には?」
恵美は、首を振った。
「彼が帰ってくるかも、しれないから」
そんなはずが、あるわけがなかった。恵美自身が、そのことをいちばんよく知っているはずだった。
「あなたみたいに、なんでもできる人ではないのよ」
恵美は、言い訳をするようにそう言うと、カップに残ったミルクティーを口に含んだ。白っぽく、だまりになったミルクが、カップの縁に残った。
「これから、どうするの?」
「どうするって、なんとかするしかないじゃない」
恵美の様子は、すこしばかり投げやりに見えた。これから先、何十年生きることになるか知らないが、この女は身一つで、どうやって生きていくのだろう。英介は、恵美の身に降りかかっていることが、自分のことのように身につまされる思いだった。
「住むところは、どうしている?」
「知り合いのところに、居候させてもらっているわ」
「知り合い?」
「大学時代の先輩、わたしによくしてくれる人」
「男か」
「そうよ」
英介は、呆れた。
「その人ね、浮気が奥さんにバレて離婚したわ。そのときに、慰謝料をたっぷりとられて、文無しなのよ」
恵美は、平然と言った。
「その浮気の相手って、君じゃないだろうね」
恵美は、小首をかしげただけで、答えなかった。
「あなた、あの頃から変わったわ」
不意に言われて、英介は何のことかわからなかった。
「十五年くらい前だったかしら、北陸の方で大雪に遭って、帰れなかったことがあったでしょう」
英介は、驚いた。恵美が、あのときのことを憶えているとは思わなかった。
「どうして?」
「だって、・・・」
恵美は、そう言ってから、英介をじっと見た。
「あなた、あのとき、とても変だったわ」
「僕が?」
「そうよ。ずいぶん疲れた顔をして帰って来たから、電車の中で一晩明かしたのが、よほど大変だったのかしらって」
「・・・」
「ねえ、電車に朝まで閉じ込められたって言っていたけれど、何かあったの?幽霊にでも会ったんじゃないの?」
恵美の言葉に、英介は、曖昧に頷いた。たしかにあのとき、恵美にそんな話をした気がする。
そのとき、英介の心に、不思議な違和感が生まれた。
あの雪の夜、たまたま電車に乗り合わせた葉子と二人で、同じ部屋に泊まった。あの雪の夜の出来事は、ほんとうにあったことなのだろうか。十五年前の記憶には、定かではない部分と、ひどく鮮明な部分とが入り混じっていた。それぞれが、混沌としながら、英介の記憶の一部になっていた。
「あなた、ほんとうはあのとき、女の人と旅行に行ったのでしょう?わたしに嘘をつくために、雪で電車が動かなくなったとか言って」
「なにを言うんだ」
英介は、声を荒げた。女と一緒だったことは事実だ。しかし、行きずりの出会いだったとは言えなかった。
「あなたがずっと浮気していたとは言わないわ。でも、あなたの中には、その人のことがずっとあって、・・・」
英介は、答えられなかった。
「それが、いまわたしの部屋にいる、あの人なの?」
恵美の、大きな目が光りを帯びていた。それが、こちらに向かって、迫ってくるようだった。
恵美は、見当違いのことを口にはしているが、英介の心理は、彼女に見抜かれているような気がした。
「ところであなた、身体の具合はいいの?」
恵美の言葉に、英介は顔をあげた。
「肺に翳があるって、再検査してもなかなか結果がでないって、言っていたでしょう」
恵美が、英介の顔を覗き込んだ。
「こんどは、CTをやった」
「それで?」
「手術をすることになる」
英介がそう言うと、恵美は、まあと言って顔をしかめた。
「翳は、何だったの?」
「たいしたことない、ただの潰瘍だ」
「そう。あなたも、たいへんね」
気付いたら、店内は閑散としていた。英介は、空になった二人分のカップを片づけると、恵美を外に出るように促した。
風が冷たかった。早い夕暮れが、街を暗くしていた。
「もう来ないでくれ」
そう言うと、英介は返事を待たずに歩き出した。心の中に、何かがずっと引っかかっていて、それが冷たかった。
8
一月の終りに降った雪が、日陰のところどころに残っていた。朝晩の冷え込みが厳しい日が続いた。寒椿が、ピンクの花をつけていたが、朝方には霜で凍りついて、その姿が痛々しかった。痛々しさの一方で、造花のように端正な花弁は、見ていて美しかった。
英介は、冬に咲く花の、整った美しさが好きだった。そこには、水や冷気までもを呑みこんで佇む、強さのようなものがあった。
ある日、夕食を終えて、葉子とワインを飲んでいるときだった。
呼び鈴が鳴り、しばらくすると、玄関のドアをノックする音が聞こえた。
また、恵美が訪ねて来たのかと思った。時計を見ると、夜の十時を過ぎたところだった。無視していたが、呼び鈴がもう一度鳴った。
英介が玄関を開けると、そこに立っていたのは、高校生くらいにしか見えない女の子だった。
「中崎加南といいます」
女の子は、そう言ってぺこりと頭を下げた。
「加南じゃないの?」
女の子の声を聞いて、葉子が玄関に姿を現した。
「娘よ」
英介は、二人を見比べた。驚くほど、良く似ていた。しかし、葉子のほうが、肌が白かった。加南は、活発な少女らしく、すこし日焼けしているみたいだった。
「夜分に、ごめんなさい」
加南はそう言って、上目づかいに二人を見た。
二人だけの食卓に、少女が一人加わった。
「よくここがわかったわね」
葉子が尋ねると、加南は下を見た。
「わたしの友達が、お母さんを新宿のデパートで見たと教えてくれて」
「それで、あなたひとりでここを?」
加南は頷いた。
「このことは?」
「わたししか知らない」
「そう」
葉子は目を細めて、加南を見た。母親の目をしていた。
「お母さんを連れ戻しにきたわけじゃないのよ。どんなところにいるのか、いちど見てみたいと思ったから」
加南は、しっかりとした口調で言った。
「わたしは、お母さんが出て行った理由がわかるから、お母さんにあの家に戻ってとは言えない」
「そう、ごめんなさいね。あなたには、中崎のお店のことを押し付けた格好になってしまって」
「わたし、ちゃんとお店やってるのよ」
加南は、誇らしそうにそう言った。
「偉いわ」
「だって、お母さんがあの店に来たのも、わたしと同じ歳でしょう。わたしね。あのお店が好き。春に短大を卒業したら、中崎をまかせてもらうことにしたのよ」
「そう」
葉子は目を細めた。葉子の帰る場所は、もうなくなってしまった。
「先月ね、お祖母さんが亡くなったわ」
「そうなの?」
「知らせなくてごめんなさい」
「いいのよ」
葉子の細い目の、黒目の奥に、深い色が詰まっていた。娘の加南も、同じ目をしていた。黒目が濃く、そこにたくさんの感情と意志とが、詰まっているようだった。
「明日には帰るわ」
「ゆっくりしていったらいいのよ」
「だめよ。お店があるのだから」
加南は、はっきりとした口調で言った。
英介は、秋にあった定期検診で胃に翳が見つかり、一か月後に再検査すると、癌だと言われた。コイン大の影の映った写真を見せられて、かなり進行していると言われた。
痛みも、自覚症状もなかった。ときどき、胸やけがするくらいだったが、飲酒で胃が荒れているくらいにしか考えていなかった。英介は、自分が癌を患っていると聞いて愕然とした。
十一月の終りに福島を訪ねたのは、この検査の結果を聞いたからでもあった。すぐに死ぬというものではなかったが、これまで当然のように考えていた生が、違ったものに思えたとき、十五年間ずっと胸に抱えてきたあの雪の夜のことが、英介の心を揺らした。ひと目でいいから、葉子に会いたいと思った。
それが、思いがけないかたちで葉子と暮らすことになり、英介は運命に救われたような気持ちだった。しかし、病は消えてくれるわけではない。医師からは、早めの治療が必要だと釘を刺されていた。英介に残された時間は、あまりなかった。
葉子には、心配をさせてたくなかった。しかし、いつまでも秘密にしておくわけにはいかなかった。
ある日、悩んだ挙句に、英介はCT検査の結果を、葉子に伝えた。
「治療に専念しなければならない。時間がかかるかもしれない。会社にも、いられなくなってしまうだろう」
話を聞いて、葉子は、黙っていた。
細い目の奥に、黒い目があった。透明な黒色だった。深みがあった。この目の色が、いつも英介の心の中にあった。十五年前の雪の夜に見た日のことが、いつまでも脳裏に焼き付いていて、それはそのまま目の前で生きているのだった。
「わたしでよかったら、いつまでもそばにいます」
「しかし、僕たちはまだ、・・・何かあっても、何も残してあげることはできない」
「そんなこと、・・・わたしは、こうしてあなたと暮らせるだけで、幸せなのよ」
葉子は静かに笑った。その笑い方が、花が咲くように上品で、唇の端がすこし白っぽく見えた。ファンデーションが、小さな粒になっているようだった。首の辺りを見ると、肌が透き通るように白かった。死人のように白い、と英介は不吉なことを思った。そう思うのは、自分が死につながりかねない病を持っているからだろうかとも思った。
「あなたは」
葉子が、口を開いた。
「何を支えにこれまで?」
「ん?」
「奥さまのこととか、息子さんのこととか、いろいろあるでしょう」
「ああ」
「わたしも・・・、あんな夫でも、わたしに希望を与えてくれたし、娘はわたしの誇り。でも、それはそれと、近ごろでは思えるようになってきたわ」
英介は、葉子の言いたいことが、なんとなくわかる気がした。
「わたしは、わたしの時間を生きて、それで死んでいくなら本望だと思っています」
英介は、はっとした。自分には、妻と息子との生活と、三十年勤めた会社生活があった。たしかに、それは、生きがいといえばそうだが、本当にそうだったのか、いまとなってはわからない。
葉子の言う、自分の時間を生きるというのは、もっと違うことのような気がした。
「でもね。だからといって、時間を巻き戻したいとは思いません。ここまで来て、やっとそう思えるようになったのですから」
葉子はそう言うと、真っ直ぐに英介を見つめた。細まった目の奥に、濡れたような眼差しがあった。英介よりも、葉子の方が、よほど覚悟ができているらしかった。
これまで、十五年前のあの雪の夜のことが、英介にとっての希望だったことは、確かなことだった。
「あなた、とてもすてきな目をしているわ。わたし、あなたの目が好き」
洋子はそう言って、もう一度目を細めた。
「希望をもって。きっと治りますから」
葉子は、まるでわがことのように、そう言った。
二月の終りに、雪が降った。
朝からの粉雪が、昼過ぎになって、かなり本降りになってきた。
検査で病院へ行くと、医師からは、すぐに手術しなければ、持って一年だろうと言われた。半月前のことだった。それを聞いたとき、英介は自分が死と向き合っているということに、正面から向き合うことができなかった。それはどこか他人事で、ずいぶん遠い世界のことのように思えた。
実際、英介の日常は、これまでと変わらなかった。体調の悪い日には休暇をとることもあったが、仕事はそれまで通りに続けていた。英介の周りの人間たちの中に、英介の病気のことを知る人はいなかった。英介さえ黙っていれば、何もないのと同じだった。
人は、死と現実的に向き合うと、世界が変わって見えてくるというが、英介には、そういうことはなかった。普段と変わらない光景が目の前にあり、普段と変わらない日常の営みがあるだけだった。しかし、そう思っているだけということもわかっていた。
英介は、いつまでも覚悟ができなかった。覚悟ができないまま、葉子との生活に没頭した。時間だけが過ぎていった。しかし、時が経つにつれて、現実と心の乖離は、ごまかせなくなっていった。
葉子のことを考えると、いたたまれなくなった。葉子と別れるということなど、英介には考えられないことだった。いつか二人で老いて、どちらかが先に逝くときがくる。そう考えるだけでもいたたまれない気持ちになるのに、あと数か月でそういうことが起こるかもしれないと考えることは、あまりに苦しい想像だった。
ある日、英介は喀血した。
病院へ行くと、腫瘍はかなり進行していて、胃の半分以上を摘出しなければならないと言われた。完治しても、生活にはかなり支障がでるとも、言われた。しかも、手術が成功する確率は、五分五分だとも言われた。
英介は、ついに手術することを決意した。
一週間後から入院して、手術はその半月後を予定した。職場には事情を説明して、とりあえず三か月の休職届をだした。
9
雪は、降る日があったり、やんだり、また降ったりと、断続的に降り続いた。三月になっても、降りやまなかった。
「よく降るね。東京で、こんなに雪が降ったのは、いつ以来だろうか」
窓から見下ろすと、一面は銀世界だった。視界は、どこまでも白く、濃く、くすぶっていた。
「雪を見ると、思い出すわ」
葉子は、細い目をゆっくりと細めた。白い肌が、雪の白さと溶け合って、透明感が増してくるようだった。
「あのときも、すごい雪だった」
英介の脳裏に、十五年前の雪の夜のことが、思い浮かんだ。
「あの旅館、まだあるかしら」
不意に、葉子がつぶやいた。
「どうだろう、確かめに行ってみようか」
葉子の顔に、ふっと光が射したような気がした。
「でも、身体はだいじょうぶなの?」
「入院したら、しばらく外に出られなくなる」
「そうね」
翌日、英介と葉子は、新幹線に乗った。米原で、ローカル線に乗り換えた。雪は、関西でも降っていた。琵琶湖の西を、北に向かうにつれて、雪は深くなった。
風はなかった。雪は、垂直に天から糸を垂らしたような降り方だった。電車は多少速度を落としながら走ったが、たいした遅れもなく武生に着いた。まだ明るい時間だった。雪の降る鉛色の空は、厚い雲に覆われて、その雲には光があった。
二人は、駅を降りると、ロータリーを抜けた。雪に覆われた駅前の佇まいは、十五年前にきたときと、あまり変わっていないように思えた。駅前には、ホテルらしきものがあり、商店もいくつかあったが、すべてシャッターが降ろされていた。古ぼけた路線バスが、一台だけ停まっていた。
英介と葉子は、バス通りに沿って、しばらく歩いた。除雪されてはいるが、降りしきる雪で、何度も足を取られそうになった。
十五年前に来たときには気付かなかったが、小さな杜が見えた。木々の中に、堂のようなものが見えた。近づいてみると、観音堂だった。享保時代の造りと書かれていた。切妻の庇が長く、柱も荒削りだが、太かった。杜の周囲は濠が割られていて、かつてここが古墳だったことを想像させた。一部には、水も湛えられていて、白く凍っていた。
そのとき、風が起きて、冠雪したブナの細い枝が、音を立てた。わずかに残っている葉が、凍りついて白く光り、それが細かく震えていた。
旅館は、すぐに見つかった。玄関を入ると、緋色の絨毯が、記憶にあった。小上がりの囲炉裏も、あのときのままだった。二人が通された部屋は、二階の奥まったところにあった。角部屋になっていて、障子に仕切られた外廊下が二面についていた。
障子を開け放つと、外が見えた。そこに、中庭があった。池泉式の庭らしく、中ほどにある池は、白く凍っていた。築山の植栽も、どれも雪を被っていて、木の種類も見分けがつかなかった。
「こんな庭があったとは、あのときは気付かなかった」
陽はまだ落ちていないが、空は暗かった。まだら雪が、視界を埋めていた。
「この部屋だったろうか」
英介は、床の間の掛け軸を見た。
「すこし違う気がします」
葉子はそう言うと、もういちど窓の外を見た。
「あんなことがあったなんて、今でも信じられないわ」
英介も、葉子と同じ気持ちだった。
「あの雪の夜に、話したこと、覚えている?」
英介の中に、あの夜の記憶が還流してくるようだった。凍えるように、寒い夜だった。
「どちらか、つれあいがいなくなったら、会おうと約束をした」
「ええ、覚えているわ」
「ぼくは、その約束を支えにして、ずっとやってきたような気がする」
「あなた、それでわたしに会いに来てくれたの?」
「ああ」
「ありがとう。うれしかった」
葉子は目を閉じた。細い目の瞼が、薄らと青みかかっていた。
「わたしはあのとき、ほんとうに行き暮れてしまって。知り合いに心当たりもなくて、お金も持っていなかったから、電車が雪で立ち往生して、朝まで動かないって聞いて、ほっとしたのよ。電車の中にいれば、暖房もきいているし、駅の人がお茶やお弁当を差し入れてくれたでしょう」
あの夜の光景が、目に浮かんでくるようだった。
時間が、目にはわからないような速度で還流していた。英介は、葉子をゆっくりと押し倒して、スカートに手を入れた。
黒字にグリーンのリーフ柄のはいったスカートは、ベルベットの生地で、すこしごわごわしていた。それが、英介の重みで型崩れしていた。
「こんな明るいところで」
葉子の声は、掠れていた。部屋には暖房が効いていて、温かいはずなのに、葉子の肌は冷たかった。指も脚も、驚くほど冷たかった。あの雪の夜の葉子も、こんなふうに冷たかったと、英介は思いだした。
葉子は、じっと何かに耐えているような顔していた。
「痛くないか?」
葉子は、首を振った。十五年ぶりに再会してから、葉子は変わった。葉子の身体の反応が、触れるたびに熱を帯びてくるのがわかった。女の顔が、桜色に染まって、ぽうっと、上気したようになる。細い目の中の黒目が、すこし泳いでいた。
葉子が何かを言っている。
「あなた、死んだらいやよ」
英介は、胸が詰まった。
「これくらいの病気では、死なないよ」
英介は、そう答えながらも、頭が熱くなってきた。成功する確率は、五分五分といわれている手術だった。不安がないはずがなかった。もう二度と、葉子に会えなくなるかもしれないと考えると、息が詰まりそうになる。妻の恵美のことも、息子のことも、思い浮かんだ。そこに、順番など、つけられるものではなかった。すべてが、生への執着だった。
「わたしが高校生のときに、母は出て行ったわ。男の人をつくって、父とわたしを残して。隣県で男の人と暮らしていると人づてに聞かされたときには、なんて我儘な人だろうと思ったわ」
英介が、初めて聞かされることだった。
「けれど、改めて考えてみると、わたしもこうして同じことをしているのね。血は争えないと、つくづく思うわ」
葉子の言い方は、どこか寂しげだった。
「お母さんは、いま?」
「さあ。その男の人とは別れて、いまは独りでいるみたい。隣県の病院で働いているって話も聞いたことがあるわ。若い頃に、看護師の仕事をしていたこともあるから、そういうことが嫌いじゃないのでしょう」
葉子は、淡々と言った。その言い方が、葉子が心に抱えている母親へのこだわりを、浮き立たせてくるようだった。
「お母さんのこと、恨んでいるのか?」
「さあ、どうかしら」
そう言って、葉子は首を傾げた。
「昔は、そういう気持ちもあったけれど、いまはもう何も思わない。母は母の人生を生きていけばそれでいいでしょうし、わたしは母のそういう姿に少なからず影響を受けながら、自分の人生を生きていくのだと思うから」
英介には、理解しきれない世界だと思った。
葉子は、これまでいったい何を支えに生きてきたのだろう。そう思って、その細い目を見つめたとき、葉子の目の中の黒目が大きくなり、そこに小さな陰のようなものが見えた気がした。それは、とても小さな斑点のような、何かの破片のようなもので、すぐに消えてなくなってしまった。
東京に戻ると、英介はすぐに入院した。
五分五分と言われたが、手術は成功だった。胃の、かなりの部位を摘出してしまったので、生活にはそれなりに支障があったが、一か月ほどの入院で退院することができた。奇跡的な治癒力だと言われた。
葉子は、献身的に介護をしてくれた。周りの人たちは、誰もが葉子のことを、英介の妻と思い、その熱心な介護に感心した。
マンションのエントランスの植込みに、ドウダンツツジが咲いていた。春がもう来ていた。白い、提灯のようなかたちをした花弁が、可憐だった。ドウダンツツジに絡みつくようにして、朝顔が咲いていた。岩絵の具を塗ったような濃い群青の朝顔だった。
バルコニーから見える緑地帯の木々は、緑が鮮やかになり、草の匂いが、サッシを閉めていても、伝わってくるようだった。
家でのリハビリは順調だった。葉子が献身的に看護してくれるので、何も不自由はなかった。英介は、自分が明らかに回復していくのがわかった。
休職届は三か月だったが、予定通りに復職できそうだった。英介は、復職を六月一日に決めた。
あと数日で六月になろうという日だった。葉子が、姿を消した。
どこを探しても、見つからなかった。福島の家にも、帰っていないらしかった。警察にも問い合わせたが、事故に遭ったということでもなかった。捜索願を出すわけにもいかなかった。英介は、途方に暮れた。
10
葉子がマンションからいなくなって、二か月が過ぎようとしていた。七月が、終わりかけていた。
ある日、恵美から一枚の葉書が届いた。住所もなく、ただ恵美とだけ署名があった。消印を見ると、沖縄の離島から投函されたものらしかった。
居候をさせてもらっていた大学の先輩と、離島に移住してきたと、葉書には書いてあった。家を借りて、民宿をやるということだった。思いがけない知らせだった。
恵美という女と、離島での生活とが、どこか結びつかなかった。離島暮らしは、息子が勧めてくれたとも書いてあった。二十六になる息子は、地方でリゾートのデベロッパー企業に勤めている。母と息子が、父親の知らないところでつながっていた。英介は、自分だけが蚊帳の外のいるようで、すこし寂しかったが、恵美のためにはこれがいいのかと思った。
降るような陽射しの強い日が続いていた。バルコニーから見える緑地帯には、緑が眩しいほどに吹いていた。すぐに目につくのは、シャクヤクだった。大輪の紅い花をつけていた。女の立ち姿のようだった。一メートルくらいの高さに揃った立ち方だった。
華麗な咲き方は、英介にひとときの歓びを与えてくれたが、英介の心は、虚ろだった。
葉子のいなくなった部屋は、そのままだった。英介には、葉子がいなくなってしまったことが、いまでも受け止められなかった。窓を開けると、陽射しは強いが、空気は乾いていて、肌に心地よかった。すこしばかり、風があった。風に乗って、草の匂いがあった。
ショパンのピアノが流れていた。葉子はこうやって窓を開けて、ショパンを聴いていた。窓辺に立つと、音が英介の身体を通して、ピアノの音が、外へ流れ出していくようだった。美しい調べだったが、抑揚もあり、乱れもあった。人間の喜怒哀楽がその音階に凝縮されているようだった。
出て行った妻も、ショパンが好きだった。二人とも、かつてピアノをやっていたと言うが、英介には、他にも共通点があるような気がした。しかし、二人とも、もうここにはいない。
そのとき、呼び鈴が鳴った。
胸騒ぎがして、英介は玄関を開けた。
「あなたは?」
年の頃は、八十に近いという感じだった。皺の深さに年齢を感じるが、華やかな感じのする老女だった。
英介は、その面長の顔をしばらく眺めていたが、やがてはっとした。
「西山と言います。葉子の母です」
英介は、女の顔を改めて見つめた。
すこし下ふくれした頬の感じも、小さくて肉感のある唇も、葉子と同じだった。何よりも、線を引いたような細い目の奥の、黒い瞳が特徴的だった。
葉子から母親のことは聞いていたが、会ったこともなかったし、写真を見たこともなかった。しかし、いま英介の目の前にいる女は、葉子そのものにも見えるようだった。
「葉子は、先週亡くなりました」
「え?」
英介は、思わず聞き返した。
「だって、彼女は家にも帰っていなかったし、ずっと行方がわからなかった」
「あの子は、自分の希望で、富山にあるホスピスに入っていました」
女は、ゆっくりと言った。その言葉のイントネーションも、葉子と同じだった。
「ホスピス?」
ホスピスといえば、ターミナルケアの専門施設であることくらい、英介も知っていた。
「肝臓の末期癌で、最後は、静かに眠るように」
英介は、女の言っていることが、すぐには呑みこめなかった。葉子は、二か月前までここにいて、英介と一緒に暮らしていた。英介の手術に立ち会い、そのあとのリハビリも、献身的に支えてくれた。
「あなたには、ほんとうのことを最後まで話せなかったと、あの子は言っていました」
「肝臓の癌って、いつから?」
「一年くらい前のことかしら。そのときには、来年の桜は見られないだろうって言われたらしいけれど、一年以上も頑張れたのね」
英介は、女の言っていることが、どうしても信じられなかった。
「わたしのところに来たのは、半年くらい前かしら。あの子にはずいぶん苦労をかけてしまって、わたしはあの子がまだ高校生だったとき、夫とあの子を捨てた人間ですから、・・・。それからは、あまり良いことはなかったわ。自業自得というところかしら」
女はそう言って、目をしばたたかせた。
窓の外に、シャラの樹の伸びた枝が、美しいシルエットをつくっていた。葉はよく生い茂り、丸みを帯びた葉のひとつひとつの造型が鮮明で、それが風に揺れていた。
「あなたに、会いに行きたいと言っていました。でも、会いに行くのが怖いとも。それが、あなたから、あの子に会いにきてくれたなんて」
そう言って、女は言葉を詰まらせた。
「あの子からは、ときどきメールがきていましたが、ここでの暮らしが、とっても幸せそうで、たぶんね、一生にいちばん幸せな時間を過ごしていたのでしょうね」
女の目から、涙があふれた。
「余命がいくらもないことを知っていましたから、あなたに迷惑を掛けまいと思って、ずいぶん強い薬を使っていました。薬かなくなると、送ってくれと催促がくるので、特別に主治医に頼んで処方してもらいました」
英介は、葉子の肌がどんどん白くなって、青みがかってきたと感じたことを思い返した。ときどき、具合が悪そうにしていたのも、いまになって、思い当たることだった。
「これをあなたに」
そう言って女は、バックから小さな包みを取り出した。スマートフォンが入っていた。
「これは」
英介が、二人の連絡用にと買ったものだった。ストラップのリングに見覚えがあった。
「あなた、ずっとあの子にメールを送ってくれていたでしょう。あなたからのメッセージを、あの子はいつも楽しみにしていました」
英介は、胸が詰まった。
葉子の母は、何かを思い出すような、遠い表情を浮かべた。
スマートフォンの電源を入れると、アプリが起動した。暗唱ロックはなかった。そういうことに、無頓着な女だった。
仕事を終えて電車に乗るとき、毎日英介は、この携帯にショートメールを送った。英介が帰ってくる時間に合わせて、葉子はいつも手料理を用意してくれた。手の込んだ料理も多かった。パートをしていた百貨店で買った、美濃焼や信楽焼きの器に、色鮮やかな料理を盛り付けてくれた。
そういう日々が、三か月くらい続いたことになる。あの日々が、もっと続いてくれたらと、いまでも思うことだった。
英介が入院してからは、携帯は必要なかった。葉子は、毎日英介に付き添ってくれた。リハビリを終えて、このマンションに戻ってきてからも、そうだった。葉子は、百貨店のパートをやめて、英介の世話にすべてを捧げてくれた。
「あなたのメールに、ほんとうは、返信をしたくてしかたなかったのでしょうけれど、そうすると、会いたくなってしまうからって、ずっとがまんしていたわ」
英介は、着信のメッセージをスクロールした。
そこには、葉子がいなくなってから、英介が毎日送った、三百通を超えるメッセージが保存されていた。
「どうして、これを?」
「あの子があなたに伝えたかったことが、ここに、・・・」
英介は、送信ボックスを開いた。
「これは」
そこには、英介が送ったメールに対する数えきれないほどの返信が、未送信のまま残っていた。
英介は、女を見た。
葉子に良く似た細い目の中に、黒目があった。葉子の目だった。女の顔を見て、葉子も年齢を重ねたら、こんなふうになっていたのかと想像した。 (完)