螺子巻キライフ その1
直径五十メートル弱の広い円形の館の中、壁面に敷き詰められた棚に綺麗に並べられたオルゴールが今日もそれぞれ別の音色を奏で続けている。最上階の四階まで、各階毎に少しズらされて作られた螺旋状の階段を上ると、一番上にはドーム型の天窓が暗い夜空を映し出していた。あの夜空が本物かどうかを知る術は無い。硝子越しに見えているのなら本物だろうが、常に同じということは、硝子そのものに描かれているのかもしれない。強いて言うなら、殺風景じゃなくて良かった。
最上階の中心で寝転がることが、この館での唯一の趣味となっている。といっても、変わり映えのしない風景に飽きていることに違いはない。
この館に時間という概念は無い。昼も夜も無い。明かりを永遠に灯し続ける蝋燭が唯一の光だ。等間隔に、それも近しい距離で並べられているため、別に館全体が暗いという印象は抱かなかった。むしろ、天窓から見える景色の方がよっぽど暗くて恐ろしいように感じる。
さあ、そろそろ仕事を始めよう。始業時間があるわけではないが、決められた運命という仕事は全うしなければならないようで、その使命感には逆らうことが出来なかった。誰かに縛られることもなければ、ノルマがあるわけでもない。こんなに自由の利く仕事、あっちの世界には存在しなかった。気楽でいいものだ。
各階に並べられたオルゴールを確認し、音の途切れてしまったオルゴールを手に取り、私は作業机へと向かった。作業場を一階に設けているせいで、(いやおかげなのかもしれないが、)休憩は四階、作業に関しては一階でと、メリハリのある環境と言える。
今手に持っているのは結構気に入っていたオルゴールだが、止まってしまえばまた止まらないように改良しなければならない。音が途切れてしまえば、二度と同じ音色を作ることは出来ないのが、この仕事で唯一気分が落ち込む瞬間だった。お気に入りのオルゴールを何十個も作り変えてしまった今でもなお、少し憂鬱になってしまう。
無数に並べられた私のオルゴール、作った順に並べているうちに最初の棚を見失ってしまい、今となっては軽く千を超えて万に到達しているかもしれない。それでも、一番最初に作った物だけは常に作業台の片隅でその音を鳴らせ続けている。心を揺さぶってくれる懐かしいという感覚を思い出させてくれるもの。私の存在を肯定してくれるもの。
作業机の片隅に一番最初に作ったオルゴールは常に置いてあった。このオルゴールが止まれば、私も止まってしまう、つまり、消えるかもしれないという不安に襲われる。その度に気が付いたら私は螺子を巻き直していた。他のオルゴールが止まろうと壊れようと、捨てようとも何も感じないが、このオルゴールだけはどうも傍に置いておきたい。モノづくりとはそういうものなのかもしれない。最初が肝心とはあながち間違ってはいないのだろう。言葉が違うだろうか。最初の思い出、というべきなのかもしれない。自分が、自らの手で作り上げた最初の作品をそう簡単に壊せる訳もない。
止まってしまったオルゴールをもう一度、中身を改良してから螺子を巻き直し、再び同じ棚へと戻す。ここは一人で見て回るには少し厳しいと思えるくらいには多少なりとも広い。鳴り続けるオルゴールの中から鳴り止んでしまったオルゴールを見つけるのは難しい。
再び、止まってしまったオルゴールを見つけて片手に持ちながら、棚に並ぶオルゴールをチェックしていく。
私以外ここには誰も居ないし来たこともない。誰かが居たことが一度も無い。私は死んでいるんだろうが、神様も死神も未だに出会っていない。閻魔様にも会った記憶が無い。
そもそも今こうして居る私とは何なのか。この空間は何なのか。ふと疑問に思うが、考えても仕方がないので、私はいつも途中で考えることを止める。誰も居ないなら居ないで気が楽だ。寂しさはオルゴールがかき消してくれる。天使も悪魔も神様も、放任主義は現実とさほど変わらないらしい。この不思議な世界でも、その主義を貫き通しているようで、何も正解を教えてくれない。困った奴らだ。
古い木製の床がみしみしと音を立て、通路に敷かれた紺色の絨毯はところどころその色を薄めていた。カツンカツンと足音が響く。本当に私は何をしているのだろう。考えても無駄だと分かっていても、考えてしまうのが人というものだ。
「これも止まってしまったのか」
作業机へと向かい、再び今日の仕事を遂行する。ただ巻くだけでは駄目で、何が止まってしまった原因なのか。どこを換えればもっと良くなるのか。技法も何も分からないが、感覚だけでそれを続けている。上手くいったときは達成感に満ちてその日はぐっすりと眠ることが出来るが、失敗したときは作業机の隣に置いている底の見えないゴミ箱にそれを捨てることになる。このゴミ箱は自分でゴミを捨てなくても良いからとても重宝しているが、この底なしのゴミ箱がどこまで続いているのかは分からない。落としたオルゴールが何かに当たるような音も聞こえない。どこまで落ちているのかは分からない。
私は分からないことだらけだった。
新しく作った物、修理をした物を完成させた後、必ず行わなければならないことがある。オルゴールに体液を付着させること。唾液でも涙でも血でもなんでもいい。物に魂を与えるための作業、何故こんなことをしているのかはいまいち分からないが、自分が作ったのだという印のようなものかもしれない。私は唾液には抵抗を覚え、あくびが出た時はそのまま涙を、出ない時は腕を軽く刃物で切り付けて血を垂らす。痛みももう慣れてしまい、どの辺りが一番浅く血を出せるかも分かってきてからは随分とこの最後の作業が楽になった。切りたくない、怖い、痛い、そんな感情が渦巻いて最初の頃は完成させるのにも時間がかかった。そんな時は恐怖を糧に涙を流した。
切り過ぎた時、血を残し、新しいものが完成した時に代用してみたが、そのオルゴールは直ぐに壊れてしまった。その後も何度か試してみたが、全て直ぐに壊れてしまった。壊れた代償に分かったことは、新鮮な体液でなければならないということだった。どうも、時間的な問題が存在するのか、身体から離れてしまった液体には印としての価値は無いらしい。
初めて作ったオルゴールを眺めていると、最初の頃を思い出す。ここには時間というものも風化も劣化も何もない。食べ物という記憶はあるけれど、食べなくてもどうということはなく、腹が減るということもない。ただ、寝るという行為だけは体が強制的に行ってしまう。私の意識は眠るということをしなくてもいいのに対し、身体はずっと動かし続けられるのを嫌うみたいだった。目が乾燥して意識がふらふらしだすと、私は自然と最上階の中心で寝転んでは変わり映えのしない夜空を見ながら眠りにつく。時間というものがあるはずだが、それを感じさせるものがここにはない。何処にもない。無いから老いることも無い。腹が減ることも無い。だが、無意識で眠くなる。仕事はある。
オルゴールに血を滴らせ、木枠を濡らす。最初は綺麗な朱色の液体も乾けば赤茶色の薄汚い色へと変化していく。元々が木枠のためそこまで汚くは見えないが、塗り込み過ぎるとオルゴールがダメになる前に木枠がダメになってしまうことがあり、慣れないうちは、失敗した木枠を捨てて新しいものに移し替えた。
今回は良い感じに出来たみたいだ。
この作業の意味を自分なりに考えてみようと思い、起きてから仕事をせずに何故作り続け、直し続けるのかを考えた時があった。だが、仕事は仕事、やらなければならないようで、半強制的に身体がオルゴールを求めて動く。逆らうことは出来ないらしく、私は仕事の合間に考えることにした。
魂の分配、自分の作った物に魂を分けることで、自身の魂の向上と浄化を図る。これが私の辿り着いた答えだ。
ここに来てからずっと、こうして魂を分配し続けていると思うと、もう私の魂の大元はこの体に無いのではないかと思ってしまうが、私という思念はここにこうして体に宿っているのだから大丈夫なのだろう。数千の分けられた魂に囲まれていると思うと、オルゴールと合わさって一種の楽団のようなものにも思える。まあ、独り舞台だが。
思念、魂、心とは何なのか。生きていた時に考えていたことがあるが、結局よく分からなかった。今もこれが死んでいるという状況なのか、何処かの実験施設にでも入れられたのか、本当に何も分からない。
私はここに最初から居たのかもしれないし、それとも別の場所からここに移動してきたのかもしれない。どこか別の場所で生きていたような気がしないでもないが、陽炎のようにもやもやとした記憶が頭の片隅に残っている。何かを見出したような、見出す前に死んでしまったような、そんな溶けて消えてしまいそうな記憶が残っている。ただ、生きていた時は、あまり自由な人生ではなかったように思う。世界的な制限、社会的な制限、家族的な制限、人間的な制限、個人的な制限、法律や規則、色々なものがそれぞれ相手を縛り合っている世界だったように思う。
世界はぞれぞれ自分の国を主張し分断され、自分たちの仲間意識でしか物事を考えず、その国の中でも、仲間と敵を作り出しては争っていた。仕方がないことだった。人ではなく人間なのだから。いがみ合い、争うか競い合うことでしか意味を見出せない生き物だから。社会もまた人間を善と悪に分けて差別をした。人間には決められない善悪を、様々な過去の出来事から掘り返し、何が悪で何が善なのかの基準を作った。だがそれもまた悪の逃げ道となってしまった。基準とは逸脱したものを測ることは出来ない。人間は善悪の判別が付けられない時に、それぞれの経験を持ち寄って解決しようとした。だが、そもそも善悪に基準は作れない。人間に罪を裁くことは出来ない。
一番手っ取り早いのはオウム返しだ。誰かを殺したのなら死刑。物を盗んだのならば本人の何かを盗む、奪う。脅迫したのなら本人を脅迫する。誰かを撃ったのならその本人を撃つ。自分に返ってこないと思っているからこそ、人間は罪を犯す。記憶に、心にその代償を刻み付けたならば、罪の重石を引きずって歩かせることが出来る。こんなことを言えば道徳に背く行為だと誰かが非難するだろう。そう、だから人間はそこで止まってしまった。