言葉の選択 その2
人間は『おはよう』の挨拶に大抵は壁を作らずに返事をします。挨拶を返すというギブアンドテイクには精神的苦痛を伴わないことがほとんどです。ですから、人間は挨拶に関しては言葉の壁を建てることは少ないのです。深い意味の無い言葉に壁を建てることの方が労力だと無意識の内に理解しているのでしょう。
しかし、『お願いがある』と言われると相手との間にまず一枚目の壁を作ってしまう。言葉の壁、これは人間の感情にも影響を及ぼす厄介なもので、まずは何をお願いされるのかという不安の壁が出来上がる。そこに内容を加えるとその壁は大きくなり、問題が解決すると、その壁は記憶と感情に返還されます。
喜怒哀楽の感情を揺さぶり、お願い事の内容によっては恨みすらも生まれる。それを上手く作らせずに相手を納得させるには、言葉の選択が必要になってくる。別の言葉に言い換えるなら『気を遣う』ということ。
さっき、私は許容範囲というものに軽く触れたと思いますが、そこに付け加えて壁が出来るという話もしておきましょう。
作られた壁の中から人間は相手の様子を伺い、難しい問題でなければその課題に取り組もうとします。もしそれが難しく不可能な場合は断る。相手には選ぶ権利があるように見えますが、実はこの権利はほとんど役に立ちません。何が言いたいのかというと、この時、頼まれた相手には「はい」か「いいえ」の選択肢しか用意されていないことに気付いてもらえましたか。
物事にはやるかやらないか、の二択だという意見がほとんどだと思いますが、私はここに第三の選択肢を加えて、人に頼みごとをするように心掛けているんですよ。
『今大丈夫かな?』という、この言葉が一つ目の壁崩しとなります。まず頼み事をする前に相手の心配をする言葉から始める。こうすることで相手からすれば、一言断りを入れているため壁の建ち上がりが一歩遅くなるんです。この遅延行為を言葉の繋ぎで繰り返す。少し続けて話してみましょうか。
場面としては会社での資料をやり直しさせられている人間と、それを手伝わされる後輩のやり取りという場面にしましょうか」
電子世界の設定を操作し、私はビルの中にあるオフィスの一室へと彼と一緒に転送した。自らの想像している世界を、こうして目の前で相手に伝えられるというのは確実に人類が進化し続けているということ。そして、人ならざる者に近付きつつあるということ。人間は、人は一体何を目指して進んでいるのだろうか。
「ではワッツさん、少しこの風景の映像を動画にしてみますね」
上司と後輩のホログラムがオフィスへと現れた瞬間、ワッツはとてつもなく怪訝な表情を浮かべたが、それがホログラムであるということを思い出したのか、表情は真剣な眼差しへと変わった。ホログラムが私の脳内電子イメージを動画のように再生していく。
「今大丈夫かな?」
「はい、先輩何でしょうか」
「すまない、頼みたいがあるんだけど、他の人だと少し心配で」
「どうしたんですか」
「この資料のやり直しをしなくちゃいけないんだけど、どうも一人だと手一杯で、もし君が大丈夫なら手伝ってほしいんだ。他に頼める人が居なくてさ」
一連のやり取りを彼へと見せてから、私達は再びカフェの一角に腰を下ろした。
「言葉の繋ぎ、相手への『様子伺い』から次に『すまない』という謝罪で相手を上の立場に持ち上げる。そして、『他の人だと心配で』という特別を意識させてから内容を話す。言葉の壁の建設を遅延させ、建てさせないための順序。あとに続くのは、『君が大丈夫なら』という言葉で相手に選択権を与えて近寄り、最後に『他に頼める人が居ない』という特別感の後押しを行う。
頭の硬い上司はまず部下を無下に扱い、自分の仕事の処理をさせようとする。狭い世界で生きてきた人間によくある事だが、これが相手に負の感情をもたらしてしまう。『上司だから』『先輩だから』と、こういった頭の悪い、自分自身による洗脳が他者理解を弱める原因の一つなのでしょう。頼みごとをするのだから、まずは相手より自分が下の立場であることを理解した上で、お願いをすることが如何に重要かを理解出来ていない証拠だ。こういった人間は己の価値観を知らない内に相手に押し付けている行為だと分かっていないんです。
少し話が逸れましたが、『他の人だと心配』という言葉にもまた隠れた要素が存在します。言葉の裏にあるのは『他者よりも有能だ』という真実。まず、自分の立場を謝罪で下に紐づけさせ、謝罪による言葉で相手を上の立場なのだと理解させる。本人にその気が無くても、こうすることで相手はこちらの話に耳を傾けやすくなる。上司が自分の立場を利用して雑用を部下にさせることがありますが、この行為を続けていくと、部下は精神的なストレスを溜め込んでしまいます。ですが、この『立場の利用』を逆に使うことで、ストレスを感じずに相手は、つまり部下は話に耳を傾けやすくなります。
『他の人だと心配』という、貴方にしか頼めないのだということを強調しておく。人は常に誰かよりも優位に、そして自分にしか出来ないことがある、ありたいという意識が無意識の中に存在する。壁を構築しようとする行為の遅延、更に相手の立場が上だということを無意識の内に植え付け、自分にしか出来ない唯一無二だという信頼の橋を相手に組み立てさせる。
自分から言葉の橋を作ったとしても、相手の心の扉は固い。ならば、向こう側から橋をかけてもらえばいいんです。こちらの準備は出来ているのだから、多少のズレは修正出来る。
上司だから、先輩だからと部下後輩に命令していいという権利は存在しない。自分が上から命令されることを嫌がるのに、その嫌がることを直接部下に押し付ける。最悪の構図だと思いませんか。世界の中で人間は平等に生きてはいないけれど、精神的平等は絶対でなければなりません。嫌な事をされれば嫌、嬉しいことがあれば喜ぶ、それぞれの価値観が基準となるため明確なことは言えませんが、それはすべて人間として平等に存在するべきものです。
人間社会、職場に上下関係というものが今でも存在しますが、気にするのは建前だけでいい。部下が上司に丁寧に話すことはマナー的なこと。仕事が終われば一人の人間として話せばいいんです。逆に上司も部下に高圧的であればあるほど、幾ら優れた人材であろうが、そのまた上司からも『使いにくい駒』としてしか見られないでしょう。もしくは『勝手に一人で出来る駒』、優秀かもしれないがこの手の人間は人の気持ちを推し量ることが出来ない。
上の言うことを聞かないが優秀、部下を高圧的な態度で接する上司。そう、この手の人間は後継が居なくなってしまう。継続した人材の成長が存在しないのです。上の言うことを聞かない上司は勝手に行動し、その結果、自分のやり方を見つけて成長するかもしれないが、そこには基本と呼ばれるものが無い。基本が無ければ次の部下は何を基礎に成長すればいいのか不明瞭になる。育てるための工程を用意出来なければ、いずれ作業方針が崩れ始めて、最後は崩壊を迎えてしまう。
部下を育てられない上司は自分の能力に依存しながら利益を生むかもしれない。だが、後続が居ないのであれば会社としては単体でしか意味が無い。抜ければ生んでいた利益は零になる。会社にとって必要な存在だったのに、それを継げる者が居ないから会社はその利益を生む部下殺しを重宝しなければならなくなる。昔の会社の成れの果てのようなものですね。そうして頭の凝り固まった連中がのさばってしまい、歴史の変化に付いてこれず潰れた会社は数えきれません。
高圧的に居座るという行為が如何に愚かで他者を無駄に苦しめるか、なんとなく分かってもらえましたかね。勝手に抜き出る杭もあるかもしれませんが、『出る杭を叩く者』と『出ない杭を引っ張り上げられる者』、優秀なのはどちらでしょうね」
私は追加でコーヒーを頼み、今度は砂糖とミルクを入れて混ぜ合わせた。黒い攻撃的な色合いが優柔不断そうなマイルドな色合いへと変わっていく。
ワッツはずっと黙って聞いていた。話しが終わるとお礼を言い、再び一人で黙々と考え始めた。彼には彼の言語処理の仕方がある。私がその途中で口を挟めば、その処理は止まってしまう。自分で考えて答えを出すことの大切さを彼は知っているのだから、私は静かにその答えが出るのを待とう。
自己の世界に閉じこもる寸前、ワッツは唐突に私に問いかけた。
「先生は高圧的な態度をとることはあるんですか?」
あまり人に対して興味を抱かない彼が、私の感情面への質問をしてきたことに少しだけ驚いた。感覚の共有から他者理解までこなせれば、ワッツも立派なカウンセラーになれるかもしれない。まあ、引きこもりな上に人見知りとまで重なればカウンセラーなど不向きかもしれないが。
「ワッツさん、私がもし、高圧的な態度を示すようなことがあるとすれば、それは私の考える芯という規律から外れた行為を目の前でされた時だけです。そんなことはそうそうありませんがね」
「そうですよね」
「もし私がここで発狂してワッツさんに攻撃的になったらどうしますか?」
真剣な表情で偽り、冗談交じりの質問を彼に投げかけてみた。
「え?」
「ふふ、冗談ですよ」
軽く微笑みながら返事をする。
「言葉には意味がありますから、今、私がワッツさんに攻撃的になると言った瞬間、ワッツさんは身構えてしまったでしょう?」
ワッツは自身の心の動きを振り返り、一人で納得しているようだった。
「話が逸れてしまいましたが、言葉とは使い方一つでここまで相手に違った印象を持たせるのです。私の勝手な自論なのであまり真に受けないでいいですけどね。こういう意見もまたあるんだなという程度で留めておくことで、それを自分の中に取り込んだ時に、ワッツさんの言葉に成りやすい。考えるという行為は個人の意思ですから、何者にも阻害されてはいけないものです」
「ありがとうございました。いやはや、楽しかったです」
ワッツはあまり見せない微笑みを浮かべていた。
誰かの思考を少しでも正しく導けたのなら良しとしようかな。
不意に退室時刻を知らせるアラームが優しく響き渡った。
「おっと、いつの間にかこんな時間でしたか。時間が過ぎるのはこうなった今でも変わらず早いものですね」
「全くその通りです。先生、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
面会の時間が終了したため、ワッツと握手を交わし彼の退室を見届けて、私もカフェの電子世界を後にした。