幕間.どうか、愛しい君の日々を
「……んじゃあ最後の質問な。お前はなんのためにここに入ろうと思った?」
騎士団入団試験の最終面接、目の前の机に肘をついた団長はオレの目を見てそう問いかけた。この質問を想定していなかったといえば嘘になる。師匠相手に何度も練習したし、紋切り型の回答だって諳じられる。
でもなぜか、それを口にするのは憚られた。
「オレは」
不意に脳裏に浮かんだ彼女の姿に、オレはふっと吐息を漏らす。
オレは。オレが騎士を志した──理由は。
***
「ちょっとエリス! 一人だけおいしそうなもの食べて、ずるいわ!」
威勢のいい声に、今まさにフリュテール──ステンターの伝統料理であるプラムの揚げ菓子を食べようと口を開いていたオレは硬直した。
ステンター城下の市街地、その中でも総菜屋がいくつか並んだ区域。師匠ことモルゲン爺さんの使いで鍛冶屋に預けていた片手剣を取りに来たオレは、小腹がすいて、この区域に立ち寄り、辺りに漂ってきた香ばしい衣の匂いに我慢しきれずフリュテールを購入して、今まさにかじらんとしていた。聞き覚えのある声を上げた少女は、雑踏の中、すたすたとこちらに向かってくる。
「ディ……ディー?」
ぎこちない動きで声のしたほうを見ると、琥珀色の髪を揺らしたディーはすぐ近くまで迫っていた。
すらりと均等のとれた体に薄桃色の頬。髪と同じ色をした瞳は作り物かと見間違えるほど綺麗な、誰もが振り返るような美少女。黙って微笑んでいれば儚ささえ感じさせる彼女が──今は市街地のど真ん中で仁王立ちしている。
その姿にオレはすっとんきょうな声を上げた。
「ディー! どうしたの!?」
「人間、時には気晴らしも必要よね……ふっ、おばさまもまだまだね。裏口のスペアキーなら持っているのよ。何をしても私は抜け出してやるんだから!」
「待ってディー、話がまったく読めない……」
どうやら、大事な来客があったのに稽古場にいたことが養母の逆鱗に触れ、稽古場通いを禁止されてしまったらしい。彼女の言葉を聞く限り、そこをちゃっかり抜け出してきたようだった。オレはため息をつきつつ、ディーの視線が自分の手元に向かっているのに気付いて、手に持ったそれを慌てて背後に隠した。
先ほど彼女が言っていた、おいしそうなもの。それがこのフリュテールなのは言うまでもない。そんなオレの反応に対し、ディーは眉間に皺を寄せた。そうして小さく呟いた後、思考を巡らすように視線をそらす。
「……地団駄を踏むのはみっともないし。ここはやっぱり儚げに泣くのがベストかしらね……」
「全部聞こえてるからね!? それに、これオレのフリュテールだよ?」
「ふりゅてーる? お菓子か何かなの?」
こてん、と首を傾げたディーに目を丸くする。ディーはフリュテールを知らないのだろうか。こんなに有名な伝統料理は、ステンターでは他にないだろうに。
なけなしの小遣いで買ったおやつだ。最初は絶対に譲らないと思っていたが、フリュテールを食べたことがないというディーに、このおいしさを秘密にしておこうという気にはどうしてもなれなかった。
もしかしたらディーが身を寄せている家は、セデンタリア寄りの食習慣なのかもしれない。きっとディーがフリュテールを知らないのはそのせいだ。オレだって、ステンターに来るまでは果物を揚げるなんて発想はしたことがなかったのだから。
「……はい、冷めないうちに早く食べて」
後ろに回していた腕をディーに差し出すと、彼女の顔が嬉しそうに輝く。両手でフリュテールを受け取ったディーはぱくっとそれにかじりついた。揚げ衣に歯を立てる小気味良い音が響く。
「……おいひっ!」
鼻のてっぺんにクリームをつけながらも満面の笑みでディーは声を上げる。予想以上の反応に、オレは自分の空腹なんて忘れてしまうほど満たされた気持ちを覚えていた。
「おいしかった! ありがとう、エリス」
「……え? 食べないの?」
「え、これはエリスのでしょう? 私は一口もらえたから十分よ。残りはエリスが食べないと!」
ディーは一口かじったフリュテールをぐいぐいとオレに押し付けてくる。せっかく譲ったんだから全部食べればいいのに、と言い張るオレと彼女とが店の目の前で押し問答していれば、一部始終を見ていた店主のおじさんは笑って、もうひとつおまけしてくれたのだった。
***
「……本当なら、国を守るため、なんて答えなきゃいけないんでしょうけど」
息を飲み込み、団長の赤い瞳を射抜くように真っすぐ視線を上げた。
「正直、国なんかどうでもいいんです。オレは、オレの大切な人を守りたい。──例えば、屋台で売っているフリュテールを食べて、おいしいねなんて笑い合える、そんな平凡な毎日を、当たり前に送れるように」
人形のような外見をした女の子。ディーの第一印象はそれだった。上品な言葉遣いに、稽古場にいるにしては浮いている洗練された所作。その中にどこか歪さを感じたのは、本当にただの偶然だった。
初対面であるオレの前でボロボロ泣いて、それこそ、まるで子供のように。ああ、この子は人形じゃなかったと、オレは彼女の頭を撫でながらそう思ったのだ。
オセルスに攻め入られたセデンタリアの戦争で、両親と兄を亡くしたというディー。瓦礫だらけの村の跡地で拾われたオレには、選択権があった。「男手ひとつで育てる責任が持てないから」と一度はオレを親族に預けた爺さんの元に、自分の足で戻る、なんて選択権が。爺さんはそんなオレを見て一度は呆れたように肩を竦めたけれど、本当の子供と同じくらい惜しみない愛情を注いでオレを育ててくれた。けれど、幼い弟と共に生き残ったディーに、そんな選択権なんてなかったのだ。現に、ディーはあの日からずっと姉として生きてきた。彼女だって、姉である前に家族を亡くした子供だというのに。
『私には弟しかいないのよ』
そう朗らかに笑ったディーは、無理しているとは思えないほど、その言葉によくなじんで見えた。きっと幾度となく繰り返してきたのだろう。流れるように紡いだ言葉は、その年月を示しているようで、ひどく胸が締め付けられる思いがした。
だからオレは、ディーとディーの世界を守れるように強くなる。
一人では泣くこともできない女の子を、もうこれ以上、悲しませないように。──もう二度と、大事なものを失わないように。
オレの言葉に団長はふっと口角を上げると、目尻を下げて一言、口にした。
「──合格だ」