6.愛しい半身へ
それから更に数週間が経った。真夏の日差しはとうに盛りをすぎていて、高くなった空は秋が近付いてきたことを感じさせる。キースお兄様の記憶が相変わらず戻らないなか、私やシュワルツの容態は快方へと向かっていた。アルやロゼは私の腕に火傷のあとが残ることに顔をしかめていたけれど、腕一つでお兄様を引き留められたのなら安いものだ。それに怪我一つで損なわれるような美貌じゃないわと嘯けば、二人は肩を竦めて笑っていた。
「貴方と二人きりで会うのも久しぶりね」
懐かしむような口調でそう言えば、シュワルツは苦笑しながら手ずから淹れた紅茶を私の目の前に置いた。何やかんやと彼の執務室に足を運ぶ機会は少なくなかったが、こうして彼の淹れた紅茶を頂くのははじめてではないだろうか。大人数で居るときはルシフェルさんが全員分を用意するのが常で、彼は頑なにペンを離そうとしなかったから。
彼に返そうと持ってきた鍵束を机に置いた。代わりに、湯気のたつカップを手にとり少し傾ける。柑橘系の爽やかな香りが鼻をかすめた。恐らく、レモングラスだろうか。すっきりとした後味は、夏の果の空気によく合った。
「……ヴィスケリ領に、帰ると聞いた」
斜め向かいに腰掛けたシュワルツは、私と同じようにカップを呷った。短い言葉の中に拗ねるような響きが含まれていて、あまりにもわかりやすい王子様に笑いをこぼす。あれだけ人を食ったような態度を崩さなかったのに、こうしてステンターに帰ってきてから彼は手に取るようにわかりやすくなった。もしかして寂しいの、なんてからかっても、だんまりを決め込んだまま。全く、子供のほうがもう少しマシな嘘をつくだろうに。
「キースお兄様もロゼもこうして帰ってきた、オセルスとの関係もいい方向に向かいそう。もう、私の出る幕はないでしょう?」
彼は、政治的な利用価値と利害の一致とがあったから私と婚約した。その前提がなくなった今、私とシュワルツとに契約を交わす意味はない。あれだけ大々的に婚約披露をしただけあって気まずいことに変わりはないが、オセルスの手からセデンタリアが返ってくるとなれば、エディリーン・セデンタリアがシュワルツ・ステンターと契る意味は変化してしまう。折角三国の力関係が均衡になろうとしているのに、わざわざ今、二国だけが関係を強固にする必要はないだろう。
紅茶で喉を潤しながら彼の問に是、と返す。今更、理由を口にしなくたって聡い彼ならば理解できているはずだ。私は私のしあわせを取り戻し、彼は未来の王としての地盤を固めた。たまったものじゃないと思っていた彼との婚約だったけれど、振り返ってみればまあ、悪くはなかったと思えるのだから不思議なものだ。
「俺は、」
彼にしては珍しく、言葉を探すように視線を巡らせる。茶化さずに次の言葉を待てばシュワルツは訥々と話しだした。
「俺は、お前が羨ましかった。俺やルシィもセデンタリアに産まれていればよかったなんて、子供のころ、考えていた」
シュワルツは一息置いて、カップをソーサーに戻した。
私と彼は同じような立場だったけれど、私が彼よりも恵まれていたことは理解していた。一人ぼっちでルシィを守り続けたシュワルツと、ロゼとアルの嘘でずっと守られていた私。
それでも、私は彼に親近感を持っていた。尊大で、嫌みなやつで、彼を好きになるなんてありえないと思っていたけれど。
「私は貴方のこと、勝手に半身みたいに思ってたわ」
外面がよくて、口がよく回って、家族が何よりも大切で。
私たちは不器用で、嘘つきの、似た者同士だったから。
「……前に、偽装婚約についてお前に言った言葉を、覚えているか?」
「失礼ね、一言一句間違いなく覚えてるわよ。心から愛しいと思う奴をこんな泥沼に引きずり込むわけない、でしょう?」
「……嘘だよ」
あっけらかんと、シュワルツはそう言った。
「嘘をついた」
「……何、どういうこと?」
「愛しいと思っていた。お前の言葉を借りるなら、しあわせ、になっていた。欠けてほしくはないと思った。損ないたく、なかった」
初めて見る顔だった。親とはぐれた迷子の子供みたいな顔。
「ずっと、水の中にいるみたいだった。身動きが取れなくて、息ができなくて。でも、お前の隣は、呼吸がしやすかった」
今、私は彼がずっと抱えてきた心に初めて触れていた。
途切れ途切れに言葉を紡ぐ彼の姿は、お世辞にも大衆の思う理想の王子様とはかけ離れている。けれど私はそんな彼を見てはじめて、彼が愛おしいと思った。いつの間にか目の前の彼も、私のしあわせになっていたのだと気が付いた。
「……だが俺の麗しの婚約者殿は、宝箱に収まることを良しとしてくれなくてな」
シュワルツは腕を伸ばして、机に置かれた鍵束を手に取った。エドワードとして訪れて、立場を明かしてからも使っていた客室の鍵。今朝がたロゼと共に私物を撤去したが、第二の自分の部屋と言っても過言ではないほど馴染んでしまった場所を手放すことに、寂しさを覚えたのは事実だ。
彼は崩れた仮面をごまかすように、手すさびに鍵を弄っている。なんだ、案外かわいいところもあるじゃないか。この短時間で剥がれに剥がれまくっている彼の仮面の裏が自分の想像していたものよりずっと幼いことも、笑ってしまうほどそっくりだった。
「私、大人しく守られているようなタマじゃないわよ」
挑戦的に言い放った私に、シュワルツはふき出した。
「よく知ってる」
***
シュワルツに別れを告げ執務室を離れ、私は宮殿の前に停車している馬車に乗り込んだ。エドワードとして訪れた時に御者をしてくれたお爺さんが御者台に座っていることに少しだけ苦笑いしつつ、アルと向かい合って座る。
ロゼはキースお兄様の介抱があるからと、私たちより少しはやめに宮殿を発っている。私を残して帰れないと言うロゼだったが、御者のお爺さんを見た瞬間、彼女は一転してヴィスケリ領への帰還を決めた。ロゼのあの反応といい、結局シュワルツの配下ということ以外このお爺さんの正体は最後まで掴めずじまいだったことといい、もしかしたら一番の強者なんじゃないかしら、なんて考えが頭を過る。
「エディリーン!」
今にも出発せん、とお爺さんが鞭をしならせる音がした瞬間、私を呼び止める声が響いた。何事かと外を覗けば、駆けてきたシュワルツが息を切らしつつ馬車を覗きこむ。
「どうしたの、一体。私、忘れ物でもしていたかしら」
首を傾げた私に、彼は少し身を乗り出した。私の髪を一房すくって何かを結びつける。頭に疑問符を浮かべたまま髪にそっと触れる。滑らかな手触り、リボンだろうか。
「……付き合わせた、礼だ」
「貴方にしては嫌に殊勝ね。でも、ありがたく受け取っておくわ」
ネロからもらったリボンはあの日手放してしまったから、私の髪は飾り一つない寂しいままだ。何かしらつけようとは考えたものの、あのリボンよりしっくりくるものが思いつくはずもなく諦めていたのだ。
こうしてシュワルツからリボンを贈られたのも何かの縁だろう、家に帰ったら髪飾りにしてもいいかもしれない、と口角を上げる。あの日私は過去ではなく、未来を手に取った。ならば、自分の手でまた新しく「未来」を作るのも一興だ。
礼を伝えればシュワルツは、ふと何かを懐かしむような表情を浮かべた。
「そうだ、伝え忘れていたな。……あの日、俺の手をとってくれてありがとう」
「手? 一体、なんのこと?」
ぽかんとした私にシュワルツは、完璧な笑みともルシィへ向ける笑みとも違う悪戯気な子供のような笑みを浮かべて、こう、告げた。
「また会おう、エディリーン。……それ、似合ってる。可愛いよ」
真っ直ぐ私を見つめてそう言い放ったシュワルツは、目を丸くした私を見て満足そうに頷いたあと、御者に出発の合図を出す。走り出した馬車の窓から慌てて身を乗り出せば、もう遠くになった彼はいつもの嫌味な笑みを浮かべて、ちょうど背を翻したところだった。
「……アル、これは何かの間違いよね?」
肯定を求めアルを見つめるも、普段の三割増しの笑顔を浮かべた彼はにっこりと笑い、首を横に振る。
「間違いならよかったと僕も思ったけどね。正真正銘、シュワルツ王子は姉さんの王子様だよ」
私の絶叫が馬車の中にこだまする。震える手で触れた赤いリボンは紛れもなく、現実を突きつけてくるのであった。





