2.長い夕暮れ
息切れなんて気にならないほど、全速力で駆けた。途中、すれ違ったエディリーンが目を丸くして此方を見ていた気がするが、今のキースに足を止めることはできなかった。
扉の前で荒れた息を整える。片手を扉についたキースは思案を巡らせた。何から話せばいいのだろう。扉一枚隔てた先にいる男は、自分の出自を知っている。きっと自分がしでかしたことも、それ以外だって。
馬鹿正直に、僕のことを愛していますか、なんて聞けるわけがなかった。衝動のまま飛び出してきたけれど、もう少しミーナから話を聞いたほうがよかったのではないか。自分に己の名をつけたことだって、彼女が告げたのとは正反対に、意趣返しかもしれないのではないか、なんて。悪い思考が鎌首をもたげて、ぱくりと頭から自分を飲み込んでしまいそうになる。
そも、自分はここに何をしに来たのか。許しを得に来た? それとも、謝罪をしに?
まとまらない思考に蓋をして帰ろうとした矢先、体重を預けていた扉が、急に内側に開かれた。バランスを崩したキースは前のめりに倒れかけて、誰かに支えられことなきを得た。
慌てて顔を上げれば、ぎょっとした顔の男と目が合う。瞬間、頭が真っ白になった。考えていた言葉が全部消えてしまって、キースは酸素の足りない魚のようにハクハクと口を開閉させる。
「此方から会いに行こうとしていたんだけれど、どうやら先を越されてしまったみたいだ」
男は肩をすくめて、キースをソファへと促した。
「紅茶でいいかな」
戸棚を開きながら、こちらに背を向ける男に是、と返す。味なんてわかりそうになかったから、正直なところ何でも構わなかった。ふかふかとしたソファは、あまり座り心地がよくない。彼の私室は一国の王だというにはあまりにも閑散としていた。調度品も少なく、最低限度の家具くらいしか見当たらない。柱に刻まれたレリーフが最も華美に見えるくらいだ。
少しして、湯気の立つ陶器が目の前に差し出される。くすんだ白磁に繊細な金細工の施された、美しいカップだった。
「きみも、話したいことがあるのだろうけれど。先に一つだけ言わせてもらえるかい」
シナモンスティックをテーブルの中央に置き腰掛けた彼は、改まった姿勢をとった。是、と答えながら、弟を少しだけ大人にしたみたいだ、と場違いにも思う。生え際に白髪の混じった髪、神経質そうな皺が眉間に数本走っている。
「すまなかった。ずっときみに、謝らなければと思っていたんだ」
息を止めた。頭を下げた彼に思考が真っ白になる。だってまさか、謝られるなんて思ってもいなかったから。
顔を上げてくださいと恐々声をかければ、緩慢な動作で彼は姿勢を戻す。
「……それは、何に対する謝罪、ですか」
声が震えた。彼に謝られることなんて一つだってないはずだった。彼の妻を汚したのは己の"父"であり、友を奪ったのは自分なのだから。
それだというのに彼は真剣な顔付きで此方を見やる。縮こまった自分とは対象的に、凛とした姿で。
「きみの家族でいられなかったことへの、謝罪だよ」
西日がさす。長い夕暮れになりそうだった。





