1.帰還
「ディーちゃん! おかえり! ……ですわ!」
けたたましい音を立てて開かれた扉から、弾丸のようにアルミラさんがこちらへ突っ込んできた。ぎゅう、と私を抱きしめた彼女はすぐさま私の肩を持つとその場でくるりと一回転させ、自らも位置を変えながら整備不良を探す技師のような動きをする。
腕に巻かれた包帯を見た彼女は一瞬痛ましそうな顔をしたものの、「生きているだけ御の字ですわね!!」と令嬢にあるまじき言葉を叫ぶ。
「鳥籠」が炎上し、キースお兄様が目覚めてから数週間。私たちはオセルスの宮殿から、このステンターへと帰ってきた。目覚めたばかりのお兄様に長旅をさせるのは正直なところかなり悩んだが、ロゼの強いすすめと、何よりお兄様本人の願いもあって予定よりはやく帰路につくことになったのだ。
特筆すべきことといえば、オセルス側でも事態について何らかの措置を行わなければならないということで、私たち一行にはハイルちゃんが「鳥籠」の代表としてついてきていることくらい、だろうか。
「よかった、ディーちゃん。ほんとに、よかった。……よく、乗り越えたね」
「アルミラさん?」
彼女に視線を向ける。取ってつけたような典型的なお嬢様言葉も鳴りを潜めていて、笑顔とも泣き顔ともとれるようなぐしゃぐしゃな顔をしている。
未来が視えると語った彼女。「冷たいグラスは選んじゃダメ」。そう言った彼女には、あのとき一体どんな未来が視えていたのだろう。結果としてグラスはシュワルツが煽り、昏睡して。鳥籠が燃えて、キースお兄様は記憶を失った。私のとった行動は、最善だったのだろうか。生きているだけ御の字だと、安堵してもいいんだろうか。
「お疲れ様、ディーちゃん」
ぐるぐると回った思考は、たったその一言で許された気がした。身内でもなんでもない同い年の女の子のその一言で、ああ、帰ってこれたのだと、そう実感できた。
「……ただいま、ミラちゃん」
「そういえば。わたくし、未来が視えなくなりましたの」
客人として招かれた部屋で、ベッドに並んで座りながらミラちゃんはなんてことなしに呟いた。
「え? 視えなくなった、って、」
「文字通りですわ。綺麗さっぱり、未来視なんて出来なくなりましたわ。まあ何故だか、わたくしと違ってカイはまだ視えるみたいですけれど」
深刻な内容を打ち明けるにしてはいっそ不思議なほどあっけらかんと笑う彼女に首を傾げる。
「何かきっかけがあったの?」
「ふふふ。あのね、ディーちゃん。わたくしはアルミラ・ヴァン・トゥルーズですの」
「そ、そうね? ミラちゃんはミラちゃんだとは思うけれど」
困惑する私に、彼女は誇らしそうに胸をそらした。
「わたくしは、アルミラ・ヴァン・トゥルーズだから。だからもう、未来なんて視えなくたって、いいんですわ」
***
オセルスから帰還したキースは現在、王立研究所に身を寄せていた。本来であればセデンタリアの王族であるキース・セデンタリアは客室へと招かれるべきなのだが、記憶喪失を偽っているとはいえ戦争の火種となり両親を殺し、あまつさえ妹弟さえ危険に晒した自身が何の抵抗もなく招かれると思うほど、キースの心臓に毛は生えていない。
自身が城へ踏み入れることへ抵抗を示したリヒテンシュテルンのにこれ幸いと便乗し、ここへ一時預かりとなったのだ──が。
「きぃくん、きれいだからジュリのおよめさんにしてあげる」
キース・セデンタリア、24歳、男。
この度3歳の幼女から求婚されている。しかも、嫁として。
「コラ、ジュリ。ダメでしょ、きぃくんを困らせちゃ。クッキーをお口に押し付けないの」
「みつけたえものはのがすなって、ととしゃまが。あとえづけ。それがととしゃまがかかしゃまをつかまえたひけ、」
「と、ととさまとかかさまのことは今はいいの! コラっ、ジュリ! きぃくんのお膝にのぼらない抱きつかない!」
この研究所に勤めているリヒテンシュテルンのの嫁──紛らわしい。ルシフェル・リヒテンシュテルンの嫁、ミーナと、二人の娘ジュリ。彼女らには、ルシフェル経由でキースやロゼのしでかしたことが伝わっている。
それだというのに、幼い娘はまだしもミーナまでもが「きぃくん」と己を呼び、まるで親戚の子供のように自分やロゼを扱うことに、キースは少々面食らっていた。「記憶を失った自分」は、自身の認識と時間の流れとに齟齬があることを妹と話したその後に説明されている。本人の認識としては十代だから、とでも思っているのだろうか。
「ジュリ様、」
「なあに、ロゼおねえちゃま」
「口を挟むようで恐縮ですが、彼は駄目です。差し上げられません。……私のもの、なので」
「……わかった。りゃくだつあいはひげきしかうまない。ジュリはとてもかしこいからりかいしてる。きぃくんのこと、ちゃんとしあわせにしてね」
「無論、そのつもりです」
……いくら記憶喪失という設定だからといって、こんなふうにゆるやかな空気が流れてよいものなのだろうか。
「ええと。僕はどうして、きぃくん、と呼ばれているんだろう」
当たり障りのない言葉を紡げば、己の膝から飛び降りたジュリを抱えなおしたミーナは曖昧に笑う。
「うぅ、ごめんね。キースくんって呼んだほうがいいよね」
「謝らないでほしいな。嫌な訳ではないんだ。ただ、理由が知りたくて」
「そうだなあ。特に大した理由はなくて、ただ呼びにくいだけなの。──うちの陛下と、おんなじ名前だから」
陛下。ここでいう陛下とは、当然ステンターの王のことだろう。
自らの母にあたる女性の、夫。彼と同じ名前。
キースが産まれたのはステンターだ。オセルスに留学し、襲われた"母"が孕んだ子。産まれてすぐにセデンタリアに預けられたとはいえ、自らが産声をあげたのがこの地であることは調べがついている。
それだというのにキースは、彼の名を知らなかった。それ以外のことはある程度、耳にしたというのに。
傍らのロゼを見やる。咎めるような視線を向ければ、彼女はあからさまに目をそらした。……彼女が意図的に、隠していたのだろう。
恨んだはずの男の子供に、自らと同じ名を付けた。
それは呪いか、それとも。
恨まれていると思っていた。疎まれていると思っていた。彼女を傷付けた男の血を引く子供。それが当然だと、恨まずにはいられないだろうと。
馬鹿だと思う。散々期待して、裏切られて、僕はあんなことをしでかしたのに。いい加減学習しろよ、と心の中の自分が言う。ありえないと否定するのは容易くて、でも、否定しきれない自分がどこかにいて。
おかえりと、自分に手を伸ばした妹のように、彼もまた己をあいしてくれていたんじゃないか、なんて、そんな、
「期待してもいいんだよ、きぃくん」
そう告げたミーナは自分よりひとつ歳下だというのに、母の顔をしていた。
「記憶、なくなってないんだよね」
呆然として、否定し損ねた自分に、ミーナはいたずらっぽく笑った。学問を齧っているものとして、それから母としてのカン、ってやつだねえ。そう言って、ジュリの頬を撫ぜる。
「駄目だ、駄目なんだ。だって僕、ぼくは、」
「あのね。きっと、私が考えてることは正解に近いんだと思うの。こうして貴方たちを迎えることになって、ルシフェルから、ディーちゃんから、きぃくん、貴方から。色んな人から、話を聞いたから」
「ルシィちゃんが──貴方の妹さんが、話していたの。……ふふ、やっぱり当たってたかな?」
何故、賢王と謳われたセデンタリアの王様が、あんなにもすぐオセルスに降伏したのか。
何故、ディーちゃんとアルくんはすんなりヴィスケリ家に引き取られたのか。
何故、陛下はきぃくんに、自分と同じ名前をつけたのか。
最後まで聞き終わらないうちに、部屋を飛び出していた。





