幕間.だから夕暮れに君を呼ぶのだ
「お父さま、お話があるの」
部屋を訪れた娘の姿に、ステンター王は表情をやわらげた。若草色のドレスを着た娘は、年々母親である妻に似てきている。作業していた手を止め部屋へ招き入れると、ディフルジアはどことなく緊張した面持ちで椅子に腰かけた。
「どうしたんだい、ルシィ。そんなに改まって」
ティーカップに紅茶を注ぎ、娘に差し出す。シナモンスティックでかき混ぜた琥珀色の液体が、さざ波のように揺れる。ディフルジアが顔をあげた。微かに漂う草花の匂いは、彼女の手によって丁寧に世話のされた中庭のものだろうか。かつてはディフルジアとシュワルツしか入ることのできなかったそこは今では封印が解かれ、城内で働く人間たちの憩いの場となっている。この頃はツナギを着た娘の手を引くトゥルーズ家の令嬢が、リヒテンシュテルンの薬学者とその娘とを引き連れながら仲良さそうに会話している様子を見かけることが増えた。
「お兄さまたちがオセルスに行っている間に、調べたの」
私も何か力になりたいと思ったの。そう凛とした瞳で告げた娘に、続きを促すようにひとつ頷く。
「セデンタリアが滅んだとき、第十八皇帝グランゼウス……ディーお姉さまたちのお父さまは、捕虜の命と引き換えに降伏した、って言われてる。でもお父さま、私は、おかしいと思うの。皇帝グランゼウスは賢王だった、ってどの本にも書いてある。そんな王様が、簡単に国を手放すはずがないって」
「……ルシィ?」
口の中が、いやに乾いた気がした。
「例えば。もし、オセルスが提示したものが“捕虜の命”でなかったとしたら。国を差し出してまで、彼が守りたいものがあったのだとしたら、って、考えたの」
じい、と見つめてくる娘の視線から逃れるように、手元のティーカップを口元に運ぶ。適温に淹れたはずの紅茶は、温度どころか味さえも感じられない。……つい先日、翼を得た雛鳥だとばかり思っていたのだが。
うまい言葉が見つからない自分に、娘は固く結んだ唇を開く。
「逃げちゃだめだよ、キースお父さま。お父さまの言葉で、ちゃんと伝えて」
私、待ってるから。そう言い残して、扉が閉まる。キースは天を仰いだ。娘は、ディフルジアは、とっくの昔に翼を得ていたのだ。知識という名の、大きな大きな翼を。
***
国外に逃がし、かつセデンタリア王家の庇護下にあれば息子が殺されることはなくなると考えた。妻とオセルスの男との間にできた子供。複雑な心境はあれど、生まれた子どもには何の罪もない。それどころか、妻によく似た子に対する愛情さえ抱いていたのだ。だからせめて、それが伝わるようにと自分と同じ名前をつけ、時が来たら真実を話すつもりで二人に子供を託した。
それからしばらくして、グランゼウスとアナスタシアは息子を自分達の子として育てることに決めたと言った。寝耳に水の話に驚けば、第一子が流れたという。「きっと、この子を守るために神様のところへ帰ったのね」。少しやつれたアナスタシアは、幼い息子を抱きながらそう言って笑った。「十四歳になったら、全てを話すわ」。快活とした今の彼女からは想像もつかないが、まるで人形のようだった彼女が初めて心を知った歳。その時には君に共にいてほしい。君の口からこの子につたえてやってくれと、グランゼウスは真っすぐ此方を見つめたのだ。
あの日。セデンタリアの降伏と天秤にかけられたのは、娘の指摘通り捕虜の命ではない。フランセーズ家から送られた刺客によって出自を知ってしまった息子が扇動しているかのように見えた戦争はその実、「オセルスの面汚し」である男の血を継いだ彼を都合のいい駒として使ったかの国と、どこからか息子の生存をかぎつけた自国の狐狸妖怪どもによるものだった。自分の手を汚さずして、汚点を排除する。“キース・セデンタリアが裏切者として皇帝グランゼウスの手で殺される”、セデンタリアへの侵攻はそんなシナリオのための舞台装置に過ぎなかったのだ。
降伏するのであればこれ以上民を殺すことはない。キース・セデンタリアを殺すのであれば手を引こう。そんな提案に、グランゼウスは降伏を即決した。そんな馬鹿なことがあるかと説得しようとした自分に、彼は「きみは斬れるかい」と、一言だけこぼして。
(……ああ、無理だったさ)
結局、守ろうとした息子の手によってグランゼウスとアナスタシアは命を落とした。馬鹿みたいだ。君が死んでしまったら、誰があの子の家族でいてあげられるのだ。
生き残った彼らの子供たちはフランセーズの娘ごと、ルーズヴェルトとべラリアに根回しをして引き取らせた。せめてもの償いとして、三人が何不自由ない生活を送れるようにと陰ながら手をまわした。アナスタシアのように快活な娘と、グランゼウスに似て心優しい息子。健やかに育っていく様子を陰ながら見守っていた。
フランセーズ家を使った公爵家の者によってルシィの命が狙われたあとは、当主でありロゼという名を得た少女の実の父であるナハトや当時の騎士団長であるモルゲンたちと協力し、“フランセーズ家”の解体にも尽力した。
しかし、それでも償いきれない。自分が彼女たちから奪ってしまったものはあまりにも多すぎた。
「まさか、娘に諭される日が来るとはなあ……」
うまくことが運んだのなら、きっと息子はステンターに来るだろう。十四歳、約束の歳はもう過ぎてしまったけれど。
――自分の口で伝えなくては。今度こそ、後悔しないように。





