幕間.嘘吐き王女の初恋
「ししょーう! 行ってきまーす!」
「おう、気を付けろよエディ」
部屋の奥にいるモルゲン師匠に声をかけてから、私は全速力で外へ飛び出した。腰に差した剣が上下する体に合わせ、音を立てて揺れている。足を広げ、大きな歩幅で稽古場へと急ぐ。ドレスと違い、解放感の感じられるズボン姿はとても気に入っていた。
二十分ほど進んだ先、開けた丘の麓から剣の打ち合う音が聞こえてくる。私は待ちきれなくて飛び込むようにそこへと滑り込んだ。
「ディー! 今日ははやいんだね!」
「おはようジューク! えへへ、待ちきれなくて走ってきちゃった」
ディーはいつでも走ってるじゃん! とジュークはケラケラ笑う。
今年九歳になったばかりのジュークは私の弟のような存在だ。アルとは違ってわんぱくだけど、私の後を追いかけてくる姿はどこか似ているところもある気がする。
「おー、ディー。懲りずにまた来たのか」
「ほんっと、お前そんな面してるけど中身ぜってー男だろ」
「失礼なこと言わないでよね! これでも中身は立派な乙女だもん!」
この稽古場の仲間たちには私が女だってことはもう知られている。男装はバッチリだったつもりなんだけど、体つきでバレてしまうらしい。
でも、女の子だからって剣で負けるつもりなんてない。なんたって私はあのモルゲン師匠の弟子なんだから! 押し売りよろしく粘ったけど、結果オーライってこういうときに使うんだと思うの。
師匠の稽古のおかげか、私はこの稽古場では負け知らずだ。最初は女だからって侮られてたけど、私の実力を認めてからは差別しないで扱ってくれている。
「ねえ、今日は俺としょーぶしよ! 今日こそディーに勝つんだっ」
ジュークが私の服を引っ張る。ジュークは私に初めて負けた日から、毎日こうやって勝負を挑んでくる。私が稽古場にいられる時間は限られているから毎日戦えるわけではないけど、ジュークとは頻繁に勝負していた。
「いいよ! まだまだジュークなんかに負けないんだから!」
大きく笑って剣に腕を添えた。
「つーかーれーたぁぁ!」
ジュークを皮切りに五人と連続で戦ったのだ、これくらい叫んでもいいはず。──ちなみに全勝。どんなもんだ!
芝生に大の字になってごろんと寝転んでいると、私の視界に人影が入った。頭を後ろに反らすと、整った顔立ちの少年がこちらをじっと見つめている。
(あの子も交ざりたいのかな?)
私はぴょんと跳ね起きると置いていた剣をつかんでその少年のところへと駆け寄る。全速力で走る私に驚いたのか、少年は木の陰に隠れ、半分だけ体を覗かせていた。
「ねえ! 君も一緒に稽古をしたいんでしょ?」
「……俺も、交ざっていいの?」
「もちろん! 剣は──うん、持ってるね。早く行こう、歓迎するよ!」
空いていた右手で少年の手をつかみ、稽古場へと駆ける。少年は少しだけ驚いていたけど、すぐ満面の笑みを浮かべた。
「ねえ君、名前は?」
「な、名前……? ね……ネロ。ネロって呼んでほしい!」
「ふーん、ネロかぁ。いい名前だね! あ、私はディーよ」
「ディー、かあ。ねえディー、君、女の子なのに剣なんて振れるの?」
ネロはたぶん何気ない気持ちで言ったんだろう。そう思っても「女なのに」という言葉を聞いて、プライドに火がついた。女だからって弱いわけじゃないもの!
「そんなこと言うなら私と勝負しましょ! 負けたら今の言葉、絶対に謝ってもらうんだから!」
「言っておくけど、俺も剣にはかなり自信があるよ」
「いくらネロが強くても負けないわよ! 私、ここの稽古場じゃ負けなしなんだからね!」
憤慨した私は持っていた剣をネロに突きつけた。話を聞きつけた仲間たちが、私とネロの周りを取り囲む。騒がしいギャラリーの中、私は腕まくりして剣を両手に構えた。一方、向かい合うネロはひょうひょうとしている。
審判役の仲間の掛け声とともに、私はネロの懐へと突っ込んでいった。
勝負は一瞬だった。
「まさか私が負けるなんて……認めない、認めないわ」
「ぶつぶつ言わないでよ。勝負は勝負でしょ」
「だってぇ……」
ぐずる私にネロは苦笑いを浮かべる。機嫌を取ろうとしているようだけど、絶対にのらないって決めたもん。
立てた膝に顔を埋めていると、突然ネロに肩を叩かれた。何事かと顔を上げると、ごそごそとポケットを探っている。ネロは何やら赤い布のようなものを取り出すと、満面の笑みを浮かべ私にそれを差し出した。
「これ、ディーにあげる! ほんとはお土産にしようと思ってたけど、またおんなじもの、買いに行けばいいし。女の子だからなんて言って、ごめん」
そう言うのと同時に、ネロはまとめていた私の髪にそれを結びつけた。
「リボン……?」
「そう! 手合わせしてくれた、お礼」
ニコニコ笑うネロに、断ることもできず、私は無言で彼を見つめていた。
やがてネロはすっくと立ち上がると、剣を拾い、私に背を向ける。
「またね、ディー。それ、すっごく似合ってる、可愛いよ」
少しだけ顔を赤くしながら、ネロは笑って去っていった。
私はと言えば赤いリボンと触れられた髪を触りながら、ネジの切れた人形のように時間も忘れ、そこに座っていたのだった。
「アル、懐かしい夢を見たの」
小鳥のさえずりを無視し、さんさんと輝く朝日をも華麗に無視し、ユーナ・ココットの小説を読んでいた姉をベッドから引っ張り出しに来たアルに、私はそう呟いた。
「へえ、どんな夢だったの?」
「ネロが出てくる夢よ」
私がそう言うと、アルはおかしそうに笑う。
「姉さんの王子様だもんね。まったく、弟の僕でも妬けるくらい一途だなぁ」
「……思い出は美化されるものなの。もちろんアルのことは大好きよ、疑わないで!」
「まさか、疑ってるわけじゃないよ。でもまあ、あのときのリボンを手直ししてまだ髪につけてるなんてね。そのネロって人が知ったら驚きそう」
口に手を当てるアルを前にして、私は髪飾りを愛しげに両手で包み込む。
「驚く、でしょうね」
もう会うこともないだろう、ネロに思いを馳せる。
私に、剣で唯一勝ったネロ。勝ち逃げなんてさせないわ。
いつか、いつかまた会えますように。
待ってなさい、私の王子様。