7.世界のためにきみを失いたくはない
一番昔の記憶は、目を焼くような、しろいひかりだった。駄々をこねる妹の髪をすいているとき、怖い夢を見た弟をあやしているとき、そんな日々を切り取った何でもない時間にふと思い出す、ひかり。
母はそんな僕に、「お腹のなかの記憶かもしれないね」と笑った。それを聞いた自分はぼんやりと、きっと産まれてくるときに見えた、外の光なのだろうと思っていた。
***
全ての始まりは彼女との出会いだった。厨房見習いとしてセデンタリアの城に潜り込み、あまつさえ僕の皿に毒を盛った同い年の少女。野鹿のような体躯をした彼女をとりあえず牢屋に放り込み、気紛れにその様子を見に訪れた。
大国セデンタリアの第一王子。自分の立場は理解していた。あからさまに命を狙われることは初めてだったものの、それなりに危険と隣り合わせだということもわかっていた。しかし何故、こんな少女が暗殺になんか手を染めているのだろう?
フランセーズ。ウィオラ──今はロゼと名乗る、彼女の家名。表向きにはステンターの男爵家らしいが、帝王学を学び始め同盟国であるステンターについてもかじっていた僕は、その家名以外の情報が恐ろしいほど薄いことに気が付いてしまった。
基本的に、両親の友人であるヴィスケリ侯爵家や名門ランバート侯爵家、また王弟の血筋であるリヒテンシュテルン公爵家などステンターで名高い家を始めとし、基本的に貴族の位が他国より尊ばれるステンターでは軽く調べただけでその家のだいたいの情報は手に入る。例えば大きな商会を傘下においているだとか、誰それの後ろ楯についただとか。情報そのものが「どれだけ名を轟かせているか」という尺度となるステンターにおいて、家のブランドを保つためにもそういった情報は不可欠だ。
しかし、情報が多いということは、それだけ醜聞も大衆の耳に届くということ。どの家にも後ろ暗いことのひとつやふたつ存在する。あからさまにそれらを隠したような証拠だって、少し調べれば簡単に手に入る。まあそれはどこも同じだから、貴族同士は見て見ぬふりをしているようなのだけれど。
それを含めてもこの「フランセーズ男爵家」の情報はどこかおかしかった。どれだけ調べても悪い話が出てこないのだ。家督を継いだ男の名、妻帯者で娘がふたりいること。あとは郊外に小さいながらも領地を構えていることと、孤児院の経営など慈善事業に力を入れていること。絵に描いたように、生活感がない。……加え、僕のもとにはその「フランセーズ」を名乗る少女が命を狙いに来ている。胡散臭いにも程がある。
『ウィオラ・フランセーズ。僕が君に新しい名前をあげよう』
ほんのひとかけらの興味と、非日常への憧れが、僕の背を押した。表舞台に出ない物語を、隠されたフランセーズ家の秘密を、知りたかった。暴いて、みたかったのだ。……それが己の身を滅ぼすなんてこと、僕にはこれっぽっちも分かっていなかった。
結論から言えば、ウィオラ──ロゼとて全てを知っていた訳ではなかった。「セデンタリアの第一王子の暗殺」、彼女に課せられたのはそれだけだったのだから。僕は彼女を伝い、フランセーズ家を探った。
そうして、かの男爵家の運営する孤児院には、職員を含め魔力持ちしかいないという事実を早々に知ることになる。ステンターで魔力持ちが排斥されているのは周知の事実、ならばそういった人間を集めた孤児院があっても不思議ではない。
だがしかし、一介の男爵家がそのようなことをする理由が見付からない。興味に駈られ足のつかないように真相を探れば、出てきたのは腐りに腐ったステンターの政界の実情だった。フランセーズ家は、ただの男爵家ではない。互いに汚点のある貴族たちが、政敵を討つために利用する、魔力持ちを集めた暗殺集団。ステンターの貴族たちは表では魔術排斥をうたっておきながら、裏ではその力を使っていたのだ。
そうして時を同じくして僕は、自分の生まれの真相を知ってしまった。
「……はは、あはは。嘘だよロゼ。そうだ、嘘に決まってる」
「キース、これは、」
「──あはははははははは! こんな三流芝居の台本みたいなこと、あるわけないじゃないか! 僕はとうさまとかあさまの息子で、ディーとアルの兄なんだ。髪色も瞳も、両親とは確かに違う、でもそれはディーとアルだって同じだよ。ディーの容姿は先祖還りだし、アルの碧眼だってじいさまからの遺伝でしょう? とうさまとかあさまの瞳の色、混ぜたら僕の橙色に近くなる。そうだよ、僕はちゃんとふたりの息子。ふたりに望まれて産まれて、愛されて育ったんだ。大丈夫、不安なんて欠片もないよ。だって僕は、僕は、──代わりなんかじゃない」
疑いなんて持ったことはなかった。僕たち兄弟は皆、容姿があまり似ていなかったから。だから「セデンタリアの第一王子は流れた」だなんてそんなこと、僕は信じられなかった。
僕は、キース・セデンタリアという人間は、両親の血を継いでいなかった。僕は流れてしまったふたりの本当の子供の、代わりだったのだ。たしかにふたりは僕を愛してくれている。でももしかすると、ふたりにとって僕は生まれるはずだった本当の子供の代用品なんじゃないか、なんて。そう考えてしまえば、僕はその愛情を素直に受け入れることができなくなってしまった。
それから数ヵ月して、遊びに行くのだと嘘をつきロゼを伴いステンターとオセルスに赴いた。この体を産んだのは信じられないことにステンターの王妃であり、血縁上の父親にあたるのはオセルスの男らしいというのだ。
……もしも、もしかしたら、このふたりは愛し合っていたのかもしれない。僕の存在を公にはできなかったから、旧友である僕の両親の元に預けたのかもしれない、と。それならば両親が僕を代わりだと思っていても我慢できる。いつか大きくなって、僕を産んだふたりに「セデンタリアの家に預けてもらえて幸せだった」と胸を張って言える。僕は浅ましくも、そんな期待をしてしまったのだ。
しかし実際は、そんなことは夢のまた夢だった。僕は、ステンターの王妃が男に強姦されて孕んだ子だった。ロゼが僕を弑そうとしたのは、僕がステンター王家にとって汚点だったから。
寄る辺を探しても、ステンターでは当然ロゼを雇い僕を殺そうとしたほど疎む者たちが存在し、オセルスに至っては皇太后は男を愛していないばかりか子供が流れたことを酷く安堵していて、周囲も面汚しである男を憎んでいた。
僕ははじめから、出生さえ望まれていなかったのだ。
***
……一番昔の記憶は、目を焼くような、しろいひかりだった。駄々をこねる妹の髪をすいているとき、怖い夢を見た弟をあやしているとき、そんな日々を切り取った何でもない時間にふと思い出す、ひかり。
母はそんな僕に、「お腹のなかの記憶かもしれないね」と笑った。
それは僕の"父"にあたる男を焼いた、"母"にあたる彼女を護った、護石の白い、しろい──
「知ってたよ」
オセルスに赴いたときに偶然、僕は不死鳥を手に入れた。炎に焼かれ、生まれ変わることのできるその鳥は、僕にとって希望そのものだった。しろいひかり、産まれる前の記憶。あのひかりで、ほのおで、もう一度包まれたなら全て生まれ変われるのではないか。胎にいた自分が両親の子となったように、今度は本当に、とうさまとかあさまの子になれるのではないか。……有り得ない。馬鹿なことだと、少し考えれば理解できた。
「全部燃やして焼き払ったって、何にも戻ってこないって、本当は僕、知ってたんだ」
それでも僕はすがりたかった。もし、もしかしたら、ほんとうに! ……城はしろではなくてきんいろの、炎に煽られた僕の髪や瞳と同じ色で包まれた。僕に向かって手を伸ばす両親が一寸先で業火に呑まれる。僕のからだは髪の毛ひとつ燃えなかった。とうさまとかあさまは、必死で何かを訴えていた。それが恨み辛みでないことなんて、僕に分からない訳がなかった。ふたりは最期まで、僕を案じていた。燃え上がる屋敷で僕は嗤った。嗤うしか、なかった。
面影すら残らなかった両親の姿に慟哭し、並んだ土塊に膝を折った。いっそのこと自分も燃えてしまえていたら、どんなにしあわせだっただろうなんて、そんなことを、考えて。
現実から目を逸らそうと瞳を閉じても、瞼に焼き付いたあたたかな思い出は、ひとつだって消えてくれなかった。
「……ごめんね、ろぜ」
つい、と指先で彼女の頬を撫でた。僕の涙で濡れただけなのに、ロゼの顔は泣いているみたいだった。アルの雷撃を防ごうと手袋をしていたお陰で、彼女に触れるこの指先だけは、最期まで汚れずにいられた。
「でも僕、今度はちゃんと燃えられるってわかったから」
「キース? 何を、」
「安心してね、シュワルツはちゃんと助けるよ。それにきっと、もしも生まれ変われるなら、」
しろい炎は僕ではなく、僕の"父"を焼いた。
きんいろの炎は、今度は僕を焼くのだろう。
僕たちはふたりとも、笑ってしまうくらいそっくりで、自分勝手で傲慢だった。
「──次の僕は、綺麗なところしか残ってないよ」
彼女を、妹を、弟を、目に焼き付けて。僕は燃え盛る鳥籠に身を躍らせた。
"母"にそっくりな末妹に会えないこと、そして彼女に好きだと伝えられなかったことが、少し、ほんの少しだけ、心残りだった。
***
「キース……ッ!」
炎に消えたキースお兄様を、ロゼが悲鳴をあげて追いかけようとする。間一髪、私の近くにいたアルがロゼの腕を掴んで引き止めた。ロゼは抵抗することなく、すとん、とその場に崩れ落ちた。
「……ばか。本当に、大馬鹿者よ。綺麗じゃなくてよかった。私は、あたしは……あなたがよかったの」
お兄様の言っていることは、私には少しも分からなかった。二人が抱えていることなんて、これっぽっちも分からない。
「……キース」
ロゼが、お兄様の名を呼んだ。
「……いやだ。キースひとり、こんな。これじゃあまるで、」
あの日みたいじゃない。
その言葉が引き金となったかのように、鳥籠が音をたてて崩れ始める。誰かの悲鳴が轟く。否、叫んだのは他でもない、幼い頃の私自身だった。
塞がったとばかり思っていた記憶が頭に押し寄せる。今更になって有り得ないほどの恐怖が襲ってくる。
お父様はどこ? お母様は? ……ううん、大丈夫よアル。ぜったい大丈夫。だって、
きっと、きっとすぐ、お兄様が助けにきてくれるもの。
幼い自分の悲鳴が、叫びが、頭の中で反響する。どうしよう、どこにもにげられない。体を縮こませた。怖い、やめて、熱い、たすけて、おねがい、ねえ、いやだ、こわいよ。視界の端で指先が酷く震えている。体を抱き込むように回した腕は、こんなにも炎の近くにいるというのに、ぞっとするほど冷たい。此処は紛れもなく、地獄だ。あの日、私の家族を、日常を、しあわせを焼いた地獄だ。
はくはくと浅い呼吸を繰り返す口から、言葉にならない嗚咽が漏れる。喉元まで吐き気が込み上げてくる。自分の足で立てると思っていた。もう私はあの日、何も出来ず踞っていたままの少女ではないのだと。馬鹿みたいだ。笑ってしまう。どんなに仮面を被ったって、演技をしてみせたって、私はずっとあの頃の弱い私のまま、
『お前が強いことは誰もが知っているさ』
息をのんだ。彼は私が強いと言った。剣を振れることだけが強さではない。それが羨ましいのだと。いつかの日、たった一度だけ私の頭を撫でた彼にお兄様の姿を見たのは、果たして偶然だったか。
ゆらりと身を起こし、炎に包まれた鳥籠を見据える。怖くて、こわくて、でも、それでも、それ以上に、
「そんなの。……ッ、そんなの、許せるわけないじゃない!」
背後から聞こえる叫び声や怒声になんて構っていられなかった。
炎に向かって転がり込む。竦みかけた足を無理矢理動かし、私はお兄様の名を叫んだ。
貴方がこのままいなくなってしまうなんて、そんなこと、許せるわけがない。
(だって私、おかえりって、言ってない)
背を向けて逃げたかった。けれどその先にお兄様がいるはずはなくて。一度ならず二度も貴方が失って、それを抱えて生きていけだなんて。
そんなのって、ないわ。
だって、いたくて、たまらない。
震える声で繰り返し、お兄様の名を呼んだ。シュワルツを助けると言ったお兄様がいるとしたらきっと彼の客室の近くだろう。お願い、動け、私の身体。石造りの鳥籠の奥なら火の回りは遅いはずだ。大丈夫。きっと、まだ間に合う。
生きていてほしい。どうか、どうか。
ああ、神様!
ぐらりと瓦礫が崩れて、私は髪を振り乱した。視界が狭まり、苦しくなる呼吸に口元を押さえる。違和感を覚えて振り返った背後に、落ちたのは赤いリボンの髪飾り。
手を伸ばしかけた。私にとってそれは、紛れもなく宝物だった。──ああ、でも。
(……ごめんなさい、ネロ)
この手はきっと、ひとつしか掴めない。そんな予感がした。私が選ぶのは、選びたいのは、過去ではなかった。髪飾りをそのままに、伸ばした手の向きを変えて崩れ落ちた瓦礫を力任せに押し退ける。炎に直接突っ込んだ手が酷く痛い。それでも、この先にしか、道がないというのなら。瓦礫の先、開けた空間に体ごと突っ込む。
瞬間、何者かに抱きとめられた。視界に、見慣れてしまったきんいろが映る。
「どうして、」
少し掠れたその音は困惑と、私を咎める色を含んでいる。私の体を支えた彼の体越しに、背負われたお兄様の姿が見えた。
「貴方のせいよ。言ったでしょう、"地獄までも共に"って」
唇の端を吊り上げる。
「……敵わないな」
彼が微かに笑った気がした。身を焦がす灼熱の炎より、触れた三十六度のほうが遥かに熱かった。





