6.きみのために例え世界を失うことがあろうとも
「……僕は、ディーの容姿が羨ましかった」
ぽつりと、キースが呟いた。
「アルの魔法が羨ましかった。自分もセデンタリアの人間だって、あの二人の子供だって、言える何かが欲しかった」
「何、を」
無表情のままこぼす彼に、アルアレンは表情を固くする。エリスによって首筋に剣先をあてられた姿勢のまま、キースは乾いた笑いを浮かべる。先程の怯えはすでにその瞳にはなく、あるのは諦めと後悔をまぜたような灰暗い色だけだ。
「こんな僕でも誰かの楔になることが出来たなら、ここにいていい意味を貰えると思った。……僕、頑張ったんだよ」
ぶわりと熱風が舞った。あの日、オセルスの刺客と対峙したディフルジアと同じような、巨大な翼がキースの背後に浮かび上がる。煌々と光を放ち燃え上がるそれは、翼というより二本の大きな腕のようにも見える。
キースの背に生えた──否、彼の背後に現れたのは、彼の身長の二倍ほどある不死鳥だった。爛々とした黄金の瞳が、真っ直ぐにエリスとアルアレンとを見下ろしている。体を揺らめかせ立ち上がったキースに応えるかのごとく、悲鳴のような鳴き声をあげた不死鳥は翼をはためかせ荒れ狂う。途端、襲いかかる熱風からアルアレンを庇うように退いたエリスは焼き付けるような熱さに思わず口元を押さえた。不死鳥の足元で俯くキースの表情はこちらからは窺えない。
その巨大なからだにはこの広間は狭すぎるのか、飛び立とうとした不死鳥が壁にぶつかる度、石造りの壁が崩れ家具に火が燃え移る。まるで石窯のように熱せられた広間はとても立っていられないほどの熱さだ。割れ残っていた背後のステンドグラスに空いた穴をちらと見て、エリスは呆然と立ち竦むアルアレンの腕をつかんで叫んだ。
「……逃げるよ、アルくん!」
***
遠くで響く破壊音に、私は背後を振り返った。眉をひそめロゼを窺えば、彼女の目には驚愕の色が広がっている。無意識のうちに左手にはめられた指輪を握りしめるロゼに、私はふむ、と一度頷き彼女に問いかけた。
「これが、キースお兄様の仕業って訳ね?」
「恐らく……いえ、かなりの確率でそうかと。しかしエディリーン様、あの、」
ロゼの表情には戸惑いの色が濃い。ロゼが謝罪したことに私はなんの返答もせず、突然響いた爆発音についての話題を振ったのだから、当然と言えば当然だ。……ロゼは私が信じてくれるなら、と言った。もしももう一度機会をくれるなら、キースお兄様を助けてほしいと。でもそれは、私だって同じことだ。
「改めて、謝るわ、ロゼ。私は貴女が追い詰められていたことに気付けなかった。一番貴女の側にいたのに、貴女がどれほど苦しんでいたのかこれっぽっちも分からなかった。これじゃあ主人失格ね」
「そんなこと、」
「ねえロゼ。全部終わったら私、貴女に話したいことが沢山あるの。そのためにはまず、家出したまま帰ってこない家族を迎えに行かなきゃいけないんだけれど……もう一度、私の手を取る気はある?」
「……貴女の進む道なら、どこへだってお供しましょう」
差し出した右手に、ロゼの左手が控え目に重ねられた。私はぎゅっとその手を握りしめ、彼女を見上げて挑戦的に笑う。
「もう絶対、離してあげないんだから」
「……私だって二度と、離しません。離してなんか、やりませんとも」
ロゼの声は震えていた。それを誤魔化すように彼女は私の手を力強く引っ張ると、バランスを崩し倒れ込んだ私を抱えあげる。……団長にされたとき以来のお姫様抱っこだ。
ロゼの細い腕に私を抱えられるだけの力があることに目を見開くが、これを聞くのは全部片がついてからでいいかと口をつぐむ。首に手を回した私を確認して、ロゼはひらりと闇のなかに体を踊らせた。浮遊感のあと、着地したのはシュワルツの客室ではなく鳥籠の中のどこかの廊下。
「……あの場所、一体どこに位置していたの? てっきり、私の客室から隠し扉を通って来たものだと思っていたのだけど」
「企業秘密というものですエディリーン様。私ではなくキースの、ですが」
ロゼはそれ以上話す気はないのか、抱えた私を下ろすと廊下の先を見やる。暗闇の中で聞いたときよりも大きく響く破壊音。何かの崩れる音がして、建物が揺れる。恐らく、鳥籠の一部だろう。
「音、あっちから聞こえたわよね」
「あちらの方向は……ああ、広間でしょうね。さて、向かいましょうか、エディリーン様」
「ええ、勿論!」
けたたましい音に反応し廊下に飛び出してきた鳥籠の人たちの間をかいくぐり、ロゼと並んで駆ける。白衣をはためかせ走る彼女を横目に脚に纏わりつくドレスの裾をたくし上げた。見た目がみっともないのは理解しているが、どうにも鬱陶しくていけない。パンツ姿で軽々と駆けることのできるロゼが心底羨ましい。
全速力で駆ければ、そこまで時間はかからずに通路まで辿り着く。ここを抜ければ広間へ繋がる扉だ。そう考え、このまま通り抜けようとした私の視線の先で──扉が大きく膨らんだ。
内側から加わった力で吹き飛ぶ扉から身を守ろうと構えれば、木屑よりも先にぶわりと熱風が押し寄せた。破壊された扉の向こうを腕の隙間から覗けば、見えるのは真っ赤に燃え盛る炎のみ。
「エディリーン様ッ!!」
視界がぐらりと揺れた。ロゼが私を抱えあげ窓から身を投げたことに気付いたのは、彼女が転がりながら着地した後だった。爆風は私たちがいた通路を飲み込み、建物全てを炎で覆い尽くしている。ロゼに抱きすくめられたまま呆然とそれを見上げていると、背後で「姉さん!」と声がした。首だけ回して後ろを向けば、転がるようにしてアルが駆けてくる。
ごう、と煽られた熱風が焼き付くように吹きすさぶ。言葉を失い、竦む私をロゼごと引っ張りあげようとアルが腕を掴んだ。
視界が、赤く染まっていた。
鳥籠が燃えている。立ち上る炎が建物を呑み込んでいく。飛び散った火花が頬を掠める。
恐ろしいと感じる心すら追い付かないまま、私は呆然と石造りの建物を見上げている。
「ハイルくん、ハイルくん、どこだい? 返事をしてくれないかな。……見当たらない? そんなわけないじゃないか。だって、さっきまで、瓦礫が倒れてくるまで、彼女はすぐ近くにいたんだ。だから、だからきっと、逃げて、いるはずで、」
迷子のような声。雛鳥が親を探す鳴き声のような、悲鳴じみた叫び。視界の端、ディアメントさんは手当たり次第目についた職員にハイルちゃんの居場所を尋ねている。
狂ったようにハイルちゃんの名を繰り返し呼ぶ彼に応える底抜けに明るいソプラノは、いつまでたっても聞こえてこない。ふらふらと炎へと立ち入ろうとしたディアメントさんを、セイアッドさんが抱きすくめるようにして留めていた。
肩を掴み前後に揺らし何事かを叫んだ彼に、ディアメントさんは泣きそうな表情を浮かべる。ぼくのせいだ。唇がそんな言葉のかたちに動く。僕が、彼女の手を取ったから。
「離してくださいアルフレッド! 離せと、私は、言っている!!」
崩れ落ちたディアメントさんの代わりに響いた怒鳴り声は、久しく耳にしていない懐かしい音で。ぐるりと首を向けた先では、団長に羽交い絞めにされたルシフェルさんが噛み付くように叫んでいる。
「馬鹿言え! 離したらお前、この中飛び込んでくだろうが!?」
「うるさい黙れ!! シュワルツが、シュワルツが!!」
ルシフェルさんの言葉に、団長に加勢しようとしていたグレースさんが動きを止める。
彼の言葉を反芻する。シュワルツが、シュワルツが、
……シュワルツが、いない。
当然だ、逃げ出すなんて無理に決まっている。だってシュワルツは昏睡状態のまま、未だ目覚めていないのだ。
万一、瓦礫の間に逃げ込めたとしても、四方を炎の海に囲まれたなかで毒を盛られたシュワルツ逃げおおせられる確立なんて、限りなくゼロに等しいのだ。
「……この子は、要らないや」
不意に、炎の中から声がした。この状況に似つかわしくないほど穏やかな声音に全員が動きを止めた。視線の先に立つ男が、背負っていた少女をその場に下ろす。気を失っているハイルちゃんの元へ飛び付いたディアメントさんとセイアッドさんが慌てて彼女を抱えあげ、飛び退いた。
燃え盛る鳥籠を背後に炎に照らされ煌めくその姿に、私は身を乗り出しその名を呟く。男は──キースお兄様は、私と、私を抱えたロゼを見てうすい笑いを唇に浮かべた。
「僕ね、頑張ったんだ。もう一度、あの炎に還せば全て、やり直せるんだって思ってた。あの子の代わりじゃなくて僕が、僕こそが! ……愛してもらえるはずだって、信じてた」
ハイルちゃんをおろしたキースお兄様の腕はひどく焼け爛れていた。傍らのアルが目を見開く。キースお兄様は私たちから隠すように、溶けだした右手を後ろに回した。
「そう、思ってたんだけどさ。……やっぱり、僕じゃあ駄目だったんだ」
──何もなかった。皆で囲む食卓も、暖かな団欒も、はしゃぐ幼い声も、何もかも。
あの白い光に包まれたなら、自分は今度こそ本物になれるのだ。そう、信じていたのに。
すべてを焼き尽くした炎はめも眩むようなきんいろで。ああ、じぶんはとんでもないことをしてしまったのだ。そう気づいたときにはもう、この手でつかみたかったものは、なにも、なかった。
ふっ、と風を切る音がして、私は寄り添っていたはずの体温が離れるのを感じた。刃物の競り合う甲高い音に、短剣を構えたロゼの背中が私を庇うように前に出たのがわかる。焼け爛れた手を物ともせずにダガーを振るうキースお兄様の表情が歪んだ。
「……っ、ぅ、」
「!?」
血を吐いたキースお兄様に一瞬ロゼが怯みバランスを崩した途端、距離を詰めたお兄様は仰向けに倒れ込んだロゼに勢いよくダガーを振り下ろした。……しかし、その切っ先は彼女に当たることなくロゼの顔のすぐ脇の地面に突き刺さる。
「……違うんだ」
地面に刺さった剣の柄を両手で握りしめたキースお兄様が溢した。
「違うんだよ。僕は望まれて生まれて、祝福されるはずだった。他の誰でもない、とうさまとかあさまの子供として、」
炎が渦になって舞い踊るすぐ側で、彼は絞り出すように慟哭する。
「僕を産んだ人が傷付くこともなかったし、僕を産むはずだった人が苦しむことだってなくて、……全部、全部、少しずつ違う。だから、」
「もう一度、焼き払って。元に、綺麗なかたちに戻るように」
「やり直さなきゃ、って」
か細く、震えた声だった。その言葉は告白であり贖罪であり、それでいて祈りのようでもあった。





