4.絡んだいとが示すのは
私の問いに息を止めた彼女はその言葉を聞いて、諦めたようにひとつ小さく笑う。抱き締めた体は少しだけ強張っていた。「いつからお分かりになっていたんです?」と呟いたロゼに、私は再び腕にぎゅっと力を込めてから数歩後ろに下がる。
「確信が持てたのはついさっきよ」
オセルスの宰相、シュイノグ・エスコルテとして私たちの前に姿を現したときロゼは指輪を嵌めていなかった。キースお兄様の遺品であり、ロゼが常日頃から肌身離さず持っていた指輪。
「わざと嵌めてきたんでしょ?」
「そうですね。……ええ」
ロゼは軽く上げた左手を見て寂しそうに微笑む。中指の指輪を右手の人差し指でなぞり、そうしてそのまま勢いよく白銀の髪を引っ張った。外れた鬘からふわりと垂れたのは焦茶の髪。彼女はそのままべっこうの眼鏡も外し、鬘ごと丸めて腕に抱え込んだ。多少髪が伸びてはいるが、そこにいるのは私のよく見知ったロゼの姿だった。
思えば最初から気になることはいくつもあった。革靴を履いているのに足音をたてないコルテさんに感じた既視感。素の彼女と同じ、深い樹の幹の色の瞳。私たちを引き入れようとしているはずなのにわざと私を怒らせたり、挙げ句シュワルツには血清を手渡したりだなんてちぐはぐな言動をする。
もし──私たちを勧誘しシュワルツを毒殺しようとしたのが彼女とは異なる誰かだとするのなら、アルやルシィを溺愛する私の怒りを的確に突くことで私がそちらに傾かないよう画策し、シュワルツの全身に毒が回りきるギリギリで話を切り上げ解毒まで担ったのはロゼの独断だったのではないかとまで思えてしまう。
「ロゼ・アドレロヴァ。只今戻りました、エディリーン様」
白衣の裾を片手で持ち上げロゼは優雅に腰を折る。随分と似つかわしくない格好だが、その姿は何故だかとても彼女らしく見えた。
「何も告げずに姿を眩ましたこと、貴女を危険に晒したこと。許されないことをしたのは重々理解しています。相応の罰も受けましょう。……都合のいいことを言っている自覚はあります。しかしもし、貴女がもう一度だけ、私を信じてくださると言うのなら」
顔を上げたロゼの表情は泣き出しそうな、笑い出しそうな、全部の感情をいっしょくたに混ぜたちぐはぐなものだった。彼女は真っ直ぐ私の目を見据えて、喉奥から絞り出すようにして小さく嗚咽を漏らす。
「……キースを、彼を、たすけてください」
***
その頃別室では、ディアメントの元にハイルが転がるようにして飛び込んでいた。大きな音をたてて開かれた扉から息を切らして入ってきたパニック状態の彼女を見て、事務処理をしていたディアメントは驚いて目を瞬かせる。立っているのさえやっとなくらい動転したハイルは唇をわななかせ、音にならない声をもらしながらひゅうひゅうと息を吐いた。
「ハイルくん? どうしたの、何かあった?」
ディアメントと会話していたらしいセイアッドが震えるハイルに近付き、しゃくりあげる彼女を落ち着かせようと試みる。しかし彼女は体を震わせ、涙を溢れさせるばかりだ。このままでは埒があかないとセイアッドが服の袖で涙を拭うも、滝のように流れる涙で濡れたそれはすぐに使い物にならなくなってしまう。
すがるようにセイアッドの肩を両手で掴み、ハイルはわんわんと泣き叫んだ。
「ディーちゃんが! ディーちゃんが、宰相に拐われた……ッ!」
時を同じくしてエリスは、姿を消したエディリーンの残した護石をシュワルツの首にかけてから部屋を後にしていた。まるで心臓のように波打ちながら煌めく護石はここオセルスに旅立つ前にアルミラからエディリーンへと渡されたものだ。「冷たいグラスを選んじゃダメ」と、彼女に忠告したアルミラならばきっとこの護石の成す未来だって視ていたに違いない。かの男からフリューゲル王妃を護ったのが護石ならば、シュワルツの身だって護ってくれるだろうから。
(だったらオレが今、すべきことは)
自然と気持ちの急く自分を抑えながらエリスはクローゼットの隠し扉をくぐった。向かう先はアルアレンの客室だ。こん、と軽くノックをするが返答は聞こえない。仕方ないかと洋服を掻き分け顔を覗かせるがそこにはアルアレンの姿はなく、部屋はもぬけの殻だった。慌ててクローゼットから抜け出して自らの客室ともよく似たその部屋に視線を巡らせる。小綺麗に整頓された部屋には争った形跡はまるでない。一瞬、アルアレンは何処かへ出掛けているのだろうかと頭に浮かべたエリスだが、その考えは窓の下に置かれた椅子と、不自然に開かれた窓からの風をうけてなびくカーテンを見たことで瞬く間に吹き飛んでいった。
(まさか、抜け出した──?)
身を乗り出して外を見れば、窓の縁から続くようにして壁が少しだけ出っ張っているのがわかる。慎重にここを伝って屋根に渡れば抜け出すことは不可能ではないはずだと簡単に推測できた。
グレース副団長が鳥籠への警戒を強めた今、彼はシュワルツの世話以外の際は自室にこもっているようだった。アルアレンの性格上、食事を摂らない姉を心配したことを含め普段ならば甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いているはずだ。しかしシュワルツと話し込んでからというものの何か思うところがあるのか少しエディリーンと距離を置いているようにみえるアルアレンを見ていたから、エリスは取り立ててその行動に疑問を覚えることはなかった。……だがしかし、だ。
(ディーが拐われてアルくんは行方不明、シュワルツはまだ目覚めない……これって、かなりまずいんじゃ?)
エリスはアルアレンの辿った経路をなぞるように、慎重に窓枠に足をかけて半身を外に出した。夏めいた日差しがさんさんと降り注いでいる。まるで要塞のようなこの鳥籠の中にいると外の様子なんてものは気にならなくなるが、高くのぼった太陽にエリスは自分がシュワルツの客室を訪れてからだいぶ時間が経っていることを改めて認識した。
風に煽られながら摺り足で壁を伝う。装飾の突起を掴みながら一歩、二歩と歩みを進めればペースを掴んできたのか段々とうまく歩けるようになった。器用に壁を伝い屋根へと辿り着く。石造りのそれの上に立ち辺りを見渡せば、ドーム状になっている屋根を発見する。確か、ステンドグラスのあるあの広間の上部だろうと推測し足音をたてないようにして近寄った。ドームのすぐ脇に引き戸になっている出入り口があるのを発見する。ゆっくりとそれを開けば梯子がかかっているのがわかった。ギシ、と音をたてるそれをしっかりと掴みながら埃臭い天井裏へと足を下ろす。蜘蛛の巣の張ったそこには長らく人が入り込んだ様子はみられなかった。暗闇の中壁に手を沿わせながら、壁を伝った先にあった階段を下れば、どうやらステンドグラスの裏側についたようだった。微かに聞こえる話し声にエリスは息を潜め耳をすませる。
「……何が目的?」
アルアレンの声がした。幾分普段より硬い声音はステンドグラスのすぐ側から聞こえる。
「だから何度も言っているじゃないか。僕はただ、迎えにきただけだよ」
困惑を滲ませた声がアルアレンに答える。彼が対峙している相手なのか、此方とは反対側の入り口に近い場所に立っているらしい。
「どの面下げてただいまだなんて言える訳? 何もかも、僕たちから奪っておいて」
──ハイルが部屋に入ってくる前、エディリーンは何かを言いかけていた。そして彼女はその考えに確信が持てたからこそ、わざと自分から宰相に拐われに行った。
エリスは彼女を拐った宰相に、微かな違和感を抱いていた。それはかつてヴィスケリ領の稽古場で仮面を被ったエディリーンと出会ったとき、そして執務室で完璧な王子の姿をしたシュワルツと顔を合わせたときと同じ、言葉には表せないほど小さな綻び。自分がそうした人の感情を読み解くのに長けているなんてことは決して思わなかったけれど、それでもエリスはどうしてか、あの「宰相」にエディリーンを害する気があるとは思えなかった。
ならばむしろ、警戒すべきは誰か? そう考えたときエリスの頭に真っ先に思い浮かんだのはあの、シュワルツが毒を飲んだとき宰相の隣に控えていた給士の男だった。ハイルの言葉では、宰相の配下。
──しかしそれは本当に?
鞘ごと剣を振りかぶり、力任せに叩き付けた。派手な音をたててバラバラと砕け散るステンドグラスの向こう、目を丸くしたアルアレンが此方を振り返る。
彼と向き合っていた、給士の服を着た見覚えのない男はその顔に驚きの色を浮かべた。まるで「ここできみに会うとは思わなかった」だなんて言うかのような、旧友に向けるような朗らかな表情。しかしエリスはアルアレンを庇うように前へ進み出ると、剣を引き抜き鞘を投げ捨てた。切っ先を、男の心の臓に向けて構える。
「……大きくなったね」
男が笑う。邪気なんてまるでない、心から慈しむような視線。
反射する光を受けて万華鏡のように光る男の橙色をした髪が、傾けられた頭に合わせてさらりと揺れた。





