4.宣戦布告
「やっと帰ってきた! 姉さん、一体どこで油売ってたの!?」
家に帰るなり、アルに大声で叱られた。遅くまで外出していた私を心配する、というより咎めているようなアルに申し訳なさを感じた私だが、とっさにつく嘘も思い付かなかったので正直に告げることにする。
「……け、稽古場に?」
目をそらしてそう呟くと、アルはため息をつきつつ私の腕を取った。その仕草にどことなく焦りを感じ、私は首を傾げる。そんな私の様子にアルは再度息を吐くとぐいぐいと客間へと進んでいった。
「姉さんにお客様が来てるんだよ。……お昼頃からずっと待ってる。必死で探したのに全然見つからないってどういうこと?」
「そうなの!? なんで早く言わないのよ!!」
「だから! 家にいなかった姉さんが悪いんだって!」
アルに腕を引かれるまま客間に急いだ。扉の向こうからは談笑する声が聞こえてくる。私の代わりにおばさまがお客様のお相手をしてくれていたらしい。
ピン、と背筋を伸ばし、控えめに扉をノックした。自分の中でスイッチが入る。
「ただいま戻りました。長らくお待たせしてしまい申し訳ございません」
精一杯の誠意を見せよう、と深々と礼をする。お客様は何も言わないが、向こうから突き刺さるおばさまの視線が痛い。頭を下げる私の頭上で声がした。凛とした響きを持った、優しげな声。
「いえ、大丈夫ですよ。侯爵夫人とのお話はとても有意義な時間でした。ですからどうか、そう畏まらずに頭を上げてください」
聞き覚えのあるその声に不信感を募らせた私。そして、おばさまがとどめの一撃を放つ。
「エディリーン、シュワルツ王子が貴女にお話があるそうよ」
「お久しぶりです、エディリーン嬢」
思いきり顔を上げて驚く私に、シュワルツ王子は憎らしいほど貴公子然とし、薄く微笑んだ。
私がいたら話しにくいでしょう、と言うおばさまに、部屋にいてもらうよう嘆願する視線を送るも無視されてしまう。おばさまに連れ出されるようにしていなくなったアルは、最後まで心配そうに私とシュワルツ王子を交互に見ていた。
おばさまもアルもいなくなって、この客間には私とシュワルツ王子の二人きり。扉が閉まり、足音が遠退くとシュワルツ王子はソファに勢いよく腰掛けた。足を組み、襟を緩める。まるで自宅にいるかのようなくつろぎぶりだ。
「わたくしに何のご用ですか」
ふつふつと煮えたぎる内心を必死に押しとどめ、笑顔を向ける。シュワルツ王子はそれをつまらなそうに横目で見ると手をいじり始めた。
「エディリーンに用があってきた」
「……わたくしに、何のご用ですか」
人の話を聞いていたのか、と思わず青筋が立ちそうになるが、王子はそれに構わず、こちらを見ることすらしない。
「俺が用があるのはヴィスケリ侯爵令嬢ではなく、エディリーン個人だ。『紅薔薇』には何の用もない」
つまり、外仕様の仮面を外せと言っているのだ。エリスと同じようなことを言われているはずなのに、彼に見破られたときとは比べものにならないくらい腹が立つのは全て、この王子の態度に原因がある気がしてならない。
「……何の用なのよ。突然押し掛けてくるなんて」
「お前、俺の求婚を断った、とは本当か?」
予想の斜め上をいく質問に開いた口が塞がらない。人にアホ面なんて言っておいて、喜んで受け入れられるなんて思っていたのだろうか。
「丁重にお断りさせていただくわ。貴方とは死んでも結婚なんてしない、もちろん本気よ」
私の答えに、シュワルツ王子の目が面白そうに光る。
「死んでも?」
「ええ」
即答した私に、一呼吸おいてから彼はこう続けた。
「〝セデンタリアを取り戻せて〟も?」
「……あいにく、根拠のないことは信じない主義なの。それともその言葉の確実性を、今ここで示してくれるとでも言うの?」
それは無理だろうと思った。
どうしてこの王子が私に執着するのか分からないが、セデンタリアを取り戻すなんてこと、そうそうできる話ではない。ましてや、それをこの場で示すことなんてできやしないはず。
「……オセルスへの内通者を知っている、とでも言えばいいか?」
「……な」
──嘘だろう。私がどれだけ調べても見つからなかった内通者の存在を、この王子は知っている……?
優位が一瞬にして覆り、明らかに狼狽した私に、シュワルツ王子は自身の勝ちを悟ったのか余裕の笑みを浮かべた。
「……その者の、名は?」
「タダで教えるわけがないだろう。まあしかし、そうだな。俺の言うことを一つ聞くというのなら、答えてやらないこともない」
「結婚はしないわよ」
「それ以外で、だ。──どうだ、乗るか?」
試すような視線を向けられていることに腹が立つ。しかし内通者の名前を知ることができれば、両親やキースお兄様の死の原因に少しでも近付けるはずだ。結婚以外と本人も言っていることだし、ここは折れるべきではないだろうか。
「……乗るわ」
しばしの逡巡の後、私は決意し、そう言い放った。シュワルツ王子は満足げに笑い、私を指差す。
その瞬間、嫌な予感に背筋が凍った。この男は、とんでもないことを考えているのではなかろうか。
「一ヶ月間、俺のもとで小姓として暮らせ」
その予感は、高笑いとともに一瞬にして現実のものとなったのだった。
***
小姓
王族や貴族の城や屋敷に仕える七、八歳から十代半ばくらいまでの少年のこと。
大部分は貴族や荘園主の子弟で、生家より家柄が上の貴族に奉公して、使い走りを務めたり、雑用を受け持ったりしながら、騎士になるための知識や体術などを身に付ける。
「……私、曲がりなりにも女よね?」
自分の頭の中の辞書を必死に探ったが、どう考えても小姓は少年の仕事だ。メイドならともかく、どうして小姓なのだろう。
「それは見れば分かる」
「じゃあどうしてよ。身の回りの手伝いならメイドでもいいじゃない」
要するに手足となって働け、ということだろう。彼の言う通りにするつもりはないけれど、内通者の情報を得られるのなら、それくらいどうってことはない。一ヶ月シュワルツ王子のもとで働けばいいだけだとすれば、結婚と比べ、かなりましに思える。
ただ私には、王子がどうして小姓という役割にこだわるのか、まったく理解できなかった。
「どうして、って。そのほうが面白いからに決まっているだろう?」
面白い。間髪入れずにそう言い放ったシュワルツ王子に、呆れを通り越し、疑問を抱いていたことがもはや馬鹿らしくなってくる。
──そうだった、この王子はこういう奴だったのだ。
「ああ、それと。小姓になるからにはお前がヴィスケリ侯爵令嬢だということは隠してもらう」
「……当然よ」
「あと、男装が必須だ」
小姓として王宮で働くとするならもっともなのだが、十七にもなって性別をごまかせる気がしない。
「……さすがにバレると思うんだけど」
抗議の意を込めるも王子は聞く耳を持たない。それどころか余計に楽しんでいるようだ。
「気にするな、そのまな板具合なら誰にもバレないだろう。絶壁だ、絶壁」
「せめて『控えめ』とか他の言葉はないの!?」
ケラケラ笑うシュワルツ王子を一発殴り付けてやりたい衝動に襲われた。胸がないのは自分でも気にしているのに。デリカシーの欠片すらないのかこの王子は!
拳を握りしめ、暴言に耐えていると何かを思い出したかのように王子が手を叩く。
「一ヶ月の間に、お前が女だと城内の者に露見したのなら契約は破棄だ。それだけは先に言っておこう」
そのあからさまに見下した態度に腹が立った。シュワルツ王子は、最初から私に情報を教える気なんてさらさらなかったらしい。
……それならこちらも全力でいかせてもらおう。幼い頃から剣を振るうために頻繁に男装はしていたし、この十年で磨き上げた演技力をなめてもらっては困る。
「いいわ、受けて立つ。一ヶ月、小姓を演じきれたら私の勝ちよ」
「ああ、約束しよう」
人差し指で王子を指差し、私は高らかに勝負を宣言したのだった。
「……啖呵を切ったのなら、もう負けられないわよね」
シュワルツ王子が帰り、月明かりが窓から射し込む中、私は姿見を前にして決意を固めていた。
「絶対に、あの王子の鼻を明かしてやるんだから!」
数日後。アルのクローゼットから無断で拝借した男性ものの服(たぶんアルが着ていたのは三年くらい前)に、庭師のおじいちゃん経由で手に入れた私の髪色と同じ色の鬘。そして、瞳の色を変えるための目薬。男装のための道具は全て調った。シュワルツ王子には笑われそうだが、胸を押さえるコルセットベルトも準備している。
変装の腕は落ちていないと信じたい。祈りを込めながら、伸ばした髪をまとめ、服を脱ぎ捨てた。
変装を始めてから三十分が過ぎたあたり。
「あー、予想外だわ……」
完全に想定外だった。まさか、まさかここまで、
「どこからどう見ても男の子にしか見えないなんて!」
悲しいかな、コルセットベルトを巻かずとも自己主張の激しくない私の胸は問題にならなかったし(一応つけてはいる)、妙にピッタリな鬘のせいか、アルの服のせいか……はたまた私の化粧の腕がいいのか分からないが、見事に可愛らしい少年が姿見に映っている。
「ここまで似合ってると自分の性別に疑いをかけたくなるわね……」
頭を抱えると、目の前の翠の瞳の少年もへなへなとその場に座り込んだ。これじゃあ一ヶ月どころか一年でも、女だとは知られないに違いない。それが目的ではあるのだが素直には喜べなかった。
「ま、まあ、これで内通者の情報は必ず手に入れられるってことよ……!」
活用できるものはどんどん利用しよう。開き直った私は両手を握りしめ、天を仰ぐ。
「覚悟しなさいシュワルツ王子! 絶対に負けないんだから!」
***
シュワルツ王子に「一ヶ月間小姓として暮らせ」と言われてから、はや三週間が経った。横暴極まりない王子も、さすがに契約を取り付けたその日から王宮に来いだなんてことは言わなかったのだ。
あの日から三週間後、つまり明日から私はステンター城に乗り込むことになる。
おじさまは半狂乱になっていたし、おばさまだって心配し何度も「本当に行くつもりなの?」と訊ねてきた。しかし、詳しくは話せないが王子の提案には自分にも利があること。そしてこの降ってわいたようなチャンスを逃すわけにはいかないことを述べ、頭を下げた。これまで目立ったわがままを言ったことのなかった私が懇願し、そんな私の態度を見たアルが後押ししてくれたこともあって、二人はしぶしぶながら首を縦に振ったのだった。
だが、私にはまだこのことを告げていない相手がいる。
(エリスに、何て言えばいいのかしら)
このところ私は毎日のように稽古場へと足を運んでいた。小姓として暮らすため剣の感覚を取り戻したい、というのがおじさまたちへ告げた目的だが、それ以上にエリスと会いたかったというのも大きい。
稽古のあとに時間を作っては、日が暮れるまでとりとめのないことを語り合った。それは例えばモルゲン師匠の話だったり、アルやおばさまたちの話だったりとなんてことのない日常の会話。しかし心を許せる同年代の友人が少ない私にとって、私をヴィスケリ侯爵令嬢だと知らないエリスとの交流は心が温まるものだった。
何の気負いもなく笑ったり、冗談を言い合えたりする時間は何にも変えがたい。なにせ、貴族のお嬢様方は扇で隠したその厚い面の皮を剥がせば、皆同じように虎視眈々と相手の弱みを探り、玉の輿を狙っているのだ。社交の場では頑張って笑みを貼り付けてはいるものの、内心ではそんな人たちとの交流に辟易している。腹の内を明かせない相手と親しくなるなんて、到底無理な話だ。
だがしかし、ここになってエリスが私を貴族だと知らないことが問題になるだなんて思いもしなかった。
普通、平民は一ヶ月もの間家を空けるなんてことはめったにない。長期間家を空ければ、農業など生活を支える仕事に影響が出るためだ。
「しばらく家の都合で会えなくなるの」なんて言えば、貴族だと自ら暴露するようなもの。
もしエリスの、私に対する態度が変わってしまったら?
そう思うと、告げようとした決意はいつも揺らいでしまう。
「でも会えるのは今日が最後よ。……ちゃんと言わなきゃ」
私は頬を叩き、自分を叱咤しながら、素振りをしてエリスが訪れるのを待った。
だがしかし、空が夕陽に赤く染まる頃になっても、エリスはやってこない。春の初めだがいまだ冷たい風は、一人待つ私をからかうように吹き抜けていく。
「エリスが約束を破るはず、ないわよね……?」
打ち消しても、生まれた疑念は消えてくれない。夜風に吹かれ両腕をさすりながら私はため息をつく。
このまま帰ってしまおうか、そう思った矢先だった。
「ディーッ!」
息を切らしながらエリスが走ってくるのが見えた。相当急いで来たのか、肩で息をしている。
「で、ディ、遅くな、て、ごめ……も、帰っちゃった、かと」
「エリスっ落ち着いて! 大丈夫、そんなに待ってないってば!」
膝に手をつき息切れしながら謝るエリスに、逆に申し訳ない気持ちが湧いてくる。私は、彼が息を整えるのを黙って横で待っていることにした。
数分後、エリスはひとつ咳をしてから私に向き直った。
今日こそ腹を括らないと。
口を開こうとしたが、私の声はエリスに遮られる。
「あのね、ディー、聞いてほしいことがあるんだ」
やけに真剣な表情のエリスに、私は喉元まで出かかっていた言葉をのみ込む。頷いて促せば、エリスは神妙な顔付きで続けた。
「オレ、明日から騎士団に入るんだ。だから……しばらくディーとは会えなくなる」
「騎士、団……?」
「そう。ゲン爺さんが将来のために騎士の身分はあったほうがいい、って。本当はもう少し早く言うはずだったんだけど、なかなか言い出せなくて」
確かに、モルゲン師匠の言う通りだった。騎士の身分があれば国の中で格段に有利になる。何らかの役職に就くにも、他の国に行くにも、身分がないのとでは大違いだ。
普通、騎士団には家督を継ぐことのない貴族の次男以下が入ることが多い。しかし、かなり厳しい試験を伴うものの、実力のある者のため平民にも門扉は開かれている。倍率は恐ろしいほど高く、毎年一人二人しか合格者は出ないのだが、なんとエリスはこの超難関試験を突破したそうなのだ。
「す、すごいじゃない! 私、ずっとエリスは騎士団に入ればいいと思ってたのよ!」
盛り上がる私と裏腹に、当人のエリスはそこまで嬉しそうな顔をしない。不審に思って顔を覗き込むとエリスは慌てて目をそらした。
「……大丈夫? 騎士団、本当は入りたくないの?」
「そういうわけじゃなくて、ただ……いや、何でもないや」
明らかに何でもなくはないけれど、それにはあえて触れないことにする。黙って待っているとエリスがまた口を開いた。
「あのさ、ディー」
「どうしたの?」
「オレ、絶対に立派な騎士になるよ。だから、そした──っ!?」
その言葉を遮ったのは、他でもない、私だった。
固く握られていたエリスの拳ごと両手でぎゅっと握りしめる。エリスは突然のことに驚いたのか、体を固まらせている。
「頑張ってね、エリス。ついででいいから、いざというときは私のことも守ってくれたら嬉しいわ」
冗談交じりにそう言うと、戸惑いながらもエリスは力強く頷いた。
「ふふっ、そうだね。じゃあディーを守れるような騎士になるって約束するよ」
視線を交わし、どちらからともなく笑いだした。まるで幼い頃に読んだ童話のような約束。同じことを考えたのか、エリスは跪くと私の右手を掲げ、手の甲に口づけを落とす。
「姫、この命に代えても必ず貴女を守ってみせます」
「約束よ。破ったら絶対に許さないわ」
つんと澄まして言うと、エリスは形式ばった姿勢を崩して、お腹を抱え大笑いし始めた。
「ダメだ、ディーは姫っぽくない! なんかディーは姫っていうより、黙って守られてくれそうにないし……ははっ!」
「ちょっと! なに大笑いしてるのよ! そういうことならエリスだって、ぜんっぜん騎士になんか見えないんだからね!」
「ちょ、オレは明日から正真正銘の騎士だから! 失礼なこと言わないでよ!」
あれだけ肌寒く感じていた夜風が、今はとても温かく感じられた。
その後、エリスと別れた私は家に帰り、荷物をまとめることになる。家を離れるのは一ヶ月だけだし、エリスとの約束もこれで守れるはずだ。
大丈夫、彼ならきっと素晴らしい騎士になれる。
そう願いを込め、星空を仰いだ。