幕間.あの日追いかけた背に
「……で。こんな真っ昼間からサボりだなんて騎士団長の名が泣きますね。任せておけだなんて部下を送り出したというのにこの体たらくですか?」
昼過ぎ。氷の溶けだしたグラスが、高くのぼった太陽からさんさんと降り注ぐ日差しを反射してキラキラと輝いている。まとめかけていた書類に目を通したルシフェルは、部屋入り口で棒のように突っ立ったままのアルフレッドに冷ややかな視線を投げる。
信頼のおける部下二人(うち一人はナンパ癖有り)をオセルスへ向かわせた騎士団長様は、一行が出ていってからずっとこの調子だ。
始めこそ体調が優れないのかと心配し妻特製の万能薬──ただし口にするとあまりの不味さに気絶し三日は寝込む──までもを持ち出したルシフェルだが、似つかわしくない薄い笑みを浮かべたアルフレッドがそれを断り、毎日のように執務室へ通い詰めているこの頃になっては心配よりも不信感が勝ってくる。
「よもや変な茸でも口にしたわけではありませんよね?」
普段ならば「食べてねぇよ!?」と即座に響くはずの返事が聞こえない。流石にどうしたものかと首を捻ると、俯いていたアルフレッドは頬を両手でパンと叩き、その赤い瞳で真っ直ぐルシフェルを見据えた。
「ルシフェル見てくれ。どうやら俺はとんでもねえもんを見つけちまったみたいだ」
手渡された紙切れに目をやる。何かの書類を破ってきたのか乱雑に千切られたそれの端には何か、文字が走り書きされている。
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どうかご無事で、私の姫様。貴女から頂いた名前は、貴女と過ごした日々は、私には勿体ないくらいに愛おしかった。願わくば最後までお側にいたいと、そう願ってしまうくらいに。
ですからどうか……籠の鳥には、ゆめゆめ気を許しませんことを。
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まるで機械のように整った文字だ。謎かけのような内容に眉を潜めたルシフェルが顔をあげると、アルフレッドはきゅっと口を結んだ。
「それ、その文字を書いたの、たぶん──エドんとこのメイドさんじゃないかと思うんだ」
彼女、ステンター城に来てたんだ。それもまるで旅立つエドたちとすれ違いになるくらいのときに。エドたちがもう居ないと分かったから、必ずエドの耳に入るよう俺たちの目につく報告書の端に書き込んで帰ったんだよ。
ルシフェルは黙って、苦虫を噛み潰したような顔をしたアルフレッドに視線を向けた。
アルフレッド=ランバート。一族の期待を一身に背負う、代々文官を輩出してきた名門の長兄。英才教育による知性や立ち振舞いは言わずもがな、瞳に凛とした光を宿した一回り年上の少年は、幼いルシフェルの目には余りにも大人に見えた。
──この人の元で働きたい。この人の役に立ちたい。
そう周囲に思わせるだけの魅力が、人徳が、生来アルフレッドには備わっていた。人の上に立つために生まれてきたようだと幼いながらルシフェルは悟っていたし、勿論周囲も彼をそうした目で見ていた。
その両肩に重荷を背負った従弟を支えたいと決意した当時のルシフェルにとって、アルフレッドは目標であり越えなければならない壁だった。彼は絶対に将来シュワルツの側に立つ男だ。自分がその立場に立つために、はやく彼に追い付かなくては。はやく、もっとはやく。その一心で勉学に励んだ。
そうして現にルシフェルは優秀だった。何でも人並み以上に器用にこなせてしまう自分に、彼を越す日もそう遠くないと信じきっていた。
だからこそ、彼が約束された将来をかなぐり捨て、家を出て武官になったと人伝に聞いたときは怒りと羞恥で頭がどうにかなりそうだった。結局自分にはアルフレッドという男を越えることは出来ないのだと、彼は自分には到底出来ないことを軽々とやってのけてしまうのだということを見せ付けられたような気がしたから。
要するに彼は、ルシフェルにとってコンプレックスを具現化したような存在だったのだ。
「ルシフェル、俺をオセルスに行かせてくれ。メイドさんのこれが本当なら、エドたちが危なすぎる」
十数年たった今も、彼の瞳は変わらず前だけを見つめている。その真っ直ぐな気質が、偏屈だと自覚するルシフェルには心底羨ましく思う。
「貴方が不在のこの国を誰が守ると言うんです、何のために二人を送り出したんですか。それにこれ自体罠ではないと断言できる証拠はおありで?」
「俺の部下を舐めてもらっちゃあ困るな。俺なんぞいなくとも彼奴等は立派に務めを果たしてくれるさ。それになルシフェル。エドたちは"鳥籠"は安全だと思い込んでるんだ、警戒するに越したことはねえよ」
息を荒くするアルフレッドに、ルシフェルはついに折れた。
彼がどれほどの決意をして家を捨てたのか、それを知って初めて、ルシフェルは彼が思い描いていたような理想ではなく自分と同じ人間なのだと理解できた。
ことあるごとに人の頭を撫でたがる彼がその行動の向こうに誰を重ねて見ているのか、察することが出来ないほど自分は阿呆ではない。そしてその昔彼の頭を愛おしそうに撫でていた当主である祖父が、寂しそうな顔を浮かべて孫を見ていることに気付かないほど鈍感でもなかった。
二人とも、真っ直ぐで、馬鹿正直で、不器用なのだ。
「いいでしょう、荷物をまとめてくださいアルフレッド」
「……いいのか!?」
「──ただし、」
「私も連れていくことですね。私とて、世話の焼ける王子様方が心配ですから」
あの脆く気高い未来の王を支える右腕になりたかった。だからルシフェルはアルフレッドの瞳が苦手だった。何でも見通してしまうような、透き通った赤い、瞳。
「……よし! いこうぜルシフェル!」
彼のそれが王の剣に輝く石だとするのなら、自分はさながらペンであり、インクであろうかとルシフェルは思う。
あれほど疎ましかった背中が今ではこんなにも頼もしく見える。ちょっぴり背伸びした小さな自分が、どこかでくしゃりと笑ったような気がした。
「ええ、勿論ですとも」
ルシフェルは気恥ずかしさを誤魔化すように、力一杯アルフレッドの背を叩くのだった。





