3.稽古場と黒髪の彼
次の日も、その次の日も、何事もなく時間は過ぎた。多少憤りを感じてはいるが、王宮での出来事は私にとってすでに過去のこととなり、いつも通りの生活を送っている。何の音沙汰もないところから察するに、あちら側も結婚については諦めたのだろう。
窓から射し込む日の光に誘われて、普段使いのドレスより落ち着いた、町娘のような格好に急いで着替えた私は、ふらりと外へ出た。剣の打ち合う音が聞こえて足を速める。少し歩いた先では、騎士志望の少年たちが稽古に励んでいた。
「あ、ディー!」
栗色の髪をした小柄な少年が私に気付き、駆け寄ってくる。
「ジューク! 久しぶりね、元気だった?」
確か今年で十四になるはずのジュークは人懐っこい笑顔を浮かべる。
いくらなんでも剣を振ることは許さない、と目を吊り上げたおばさまの目を欺いて、私は幼い頃、時々男装してここに稽古しに来ていたのだ。この子とも長い付き合いになる。ジュークをはじめとして稽古場の昔馴染みたちは当然、私が侯爵令嬢だということを知っているけれど、幼い頃のわんぱくな印象が先行するとか何とか言って、私を一個人として見てくれている。こうして時折稽古場に訪れても騒ぎにならないのは、ひとえに彼らが私の正体を口外せずにいてくれるおかげだった。
「俺はいつでも元気だよ! あれ、ディー、今日は女の子の服装なんだね」
「さすがに十七にもなって男装してもバレるわよ。残念だけどこれじゃあ剣は振れないわね」
「ちぇーっ、俺強くなったから、今度こそディーを負かせると思ったのに!」
唇を尖らせるジュークの頭を撫で、稽古を見学するために芝の上に腰を下ろした。目の前で繰り広げられる攻防に思わず胸が熱くなる。もう長いこと剣は握っていないが、相手を前にしたときの高揚は今でも鮮明によみがえる。
少年たちを眺めているうちに、その中に一際剣の筋がいい人物がいることに気が付いた。遠目に見たところ、私と同い年くらいの青年だ。
背の高い黒髪のその人は、細身な体をうまく使いながら相手の攻撃を避けている。まるで相手の太刀筋が読めているかのような動きには少しの無駄もなく、的確に繰り出される攻撃の間さえ隙も与えない。王国直属の騎士に匹敵する──いや、それ以上の逸材ではないだろうか。
興味の湧いた私はジュークを手招きし、彼について尋ねてみる。
「ジューク、あそこにいる黒髪の彼は誰?」
私がそう言うと、ジュークは忌々しげにため息をついた。
「ディーもアイツに一目惚れ? このごろ多いんだよ。皆こぞってアイツの名前を聞きにくるんだ」
「馬鹿ね、違うわよ。ただ、あの剣の技量は騎士団で生かさないともったいないと思ったの。私からおじさまに言って、騎士団に推薦してもらったらどうかと思って」
ジュークの話によると、黒髪の人物はエリスという名前だそうだ。エリスは数週間前にこの稽古場にひょっこり現れ、稽古に参加したいと言ってきたという。普段通り、新参の実力を見るつもりで相手をした一番の年長者がものの数秒で負けてしまい、あまりの出来事に皆目を丸くした、らしい。
人間離れした剣の使い手であるエリスだが、その気さくな性格からか敵をつくることもなく、この稽古場になじんでいるという。だが、噂を聞きつけた少女たちのギャラリーができるようになってからは、ジュークのようにヤキモチを焼く少年もちらほらいるとか。
打ち合いを止めたエリスを見ると、遠目からでも整った顔立ちをしていることが分かる。切れ長の目は涼しげな印象を与えるが、まとう雰囲気から気立ての良さが感じ取れる。ギャラリーが騒ぐのも無理はない。
膨れっ面のジュークをなだめていると、こちらに顔を向けたエリスと偶然目が合った。微笑んで会釈すると、エリスは目を瞬かせ、まじまじとこちらを見やる。周囲の少年らに肘でつつかれているエリスは、彼らの腕を払うと小さく何かを叫んだようだった。そうして彼は少年らに押されるようにして、こちらに進み出ると、頭を掻きながら私に向かって近付いてきた。
ぎこちない動きで近付いてきたエリスは、私の目の前で立ち止まった。頬を掻く彼をにらみつけるジュークをたしなめ、追いやってから、私は笑顔を浮かべ立ち上がる。
「先ほどの剣さばき、素晴らしかったですわ。どなたかについていらっしゃるの?」
「あ、ええと。剣は、ガキの頃からゲン爺さんに習ってます」
「ゲン爺さんって……もしかしてモルゲン師匠のことでしょうか?」
私がそう聞くと、エリスは首を縦に振った。モルゲン師匠は私が幼い頃に剣を習っていた相手だ。かつてステンター国の騎士団長だった彼だが、その立場ゆえに貴族の煩わしい足の引っ張り合いに巻き込まれ、嫌気がさし、陛下にいわゆる辞表を突きつけたという伝説を持っている。
めったに弟子をとらないという彼の家の前に三日三晩座り込み、ようやく剣を教えてもらえることになったのはいい思い出だ。
「私も幼い頃、師匠に剣を習っていたんです。まあ、半ば無理やりだったのですが」
苦笑いするとエリスはびっくりしたように目を見開いた。
「……もしかして貴女、エディさん、ですか?」
「!」
エディというのはモルゲン師匠のところに押し掛けたときに名乗った名前だった。男装していた私は自分のことを「エドワード」(我ながら安直な名前だ)と名乗り、モルゲン師匠は私を愛称のエディで呼んでいたのだ。
結局男装していたことは最初からバレていたようだし、師匠は私がヴィスケリ侯爵令嬢であることを知っていながら、それを秘めていてくれていたため、偽名を使う意味はなかったなんてことは、今では笑い話なのだけれど。
「爺さんが時々話してくれるんですよ。『昔、扉の前に座り込んで帰らなかった男装の女の子がいた』って。爺さんが教えた女の子はその子だけみたいだし、貴女がそうかなって思ったんです」
「ではエリスさんには、私の幼い頃のあれやこれやが全て伝わっているわけですね……」
正直、思い出すと目まいがする。毒を持つ野草を食べて倒れたり、木から下りられなくなって号泣したり。文字通り野生児だった頃の記憶が頭になだれ込んできて、それが全て目の前の初対面の相手に知られていると思うと無性に泣きたくなった。
私が呻きながら頭を抱え、座り込むと、エリスは笑って横に腰掛ける。
「でも爺さん、貴女の話をするときはすごく幸せそうですよ。娘か孫ができたみたいで楽しかったって今でも言ってますから」
エリスの優しさに救われる。これを知られたのがあの腹黒王子だったら、さんざん馬鹿にされていたことだろう。私が少し涙目になった顔を上げると、エリスは人の良さそうな笑みを浮かべた。
その後も師匠のことをはじめとして、話が尽きることはなかった。エリスはモルゲン師匠のもとで暮らしており、ずっと森の中で二人で生活していたのだが、師匠の薦めでこの稽古場に足を運んだらしい。たくさんの同年代の少年らに会えて新鮮だ、と嬉しそうに話していた。
「モルゲン師匠と暮らしている、とのことですがエリスさんのご家族は?」
「……あー、家族は、もういないんです。オレはセデンタリアに住んでたんですが、オセルスに攻め込まれたとき、必死に防ごうとして、そのまま」
エリスの笑みが陰ったのに気が付かないほど、私も馬鹿ではない。私以外にもあの戦争で家族を失った人は大勢いる、それを改めて思い知った。
「私の両親と兄も、そのとき火災に巻き込まれて亡くなったんです」
思わず、口からこぼれていた。言うつもりなんて、さらさらなかったのに。
急にうつむいた私に戸惑ったのか、エリスは少しの間挙動不審な動きをし、やがて不器用な手つきで私の頭に手をのせた。驚いて見上げると、エリスは優しげな顔で微笑んでいる。
「オレたちは、生かされてるんです。生き残ったことを恨んじゃいけない」
向けられたのはありきたりな言葉だった。いつもの私なら「ありがとうございます、お気になさらず」なんて、ありきたりな言葉を返していたはずだ。
「……っ、う……」
同じ境遇だから。のせられた手の温かさが、亡くなったお父様に似ている気がしたから。
そんな言い訳じみた理由だけで、驚くほど簡単にため込んでいた思いは堰を切る。
「だから今くらい──泣いても、いいんですよ」
言い訳を並べ立てて、自分の気持ちに蓋をして。本心をごまかす私を、エリスはその一言で許してくれた。
泣いてはいけないと必死で自分に言い聞かせていた。アルの前では、私はお姉ちゃんだから。ロゼやおじさまたちは、私が泣いたらきっと心配するから。
見ず知らずの相手の優しさに甘えてしまうくらい、私はきっと、寂しかったんだ。
嗚咽を漏らす私を、エリスは辛抱強く待ってくれた。一度決壊した堤防はなかなか塞がってはくれなくて、いつの間にか日は傾き始め、稽古をしていた少年たちでさえ姿を消している。
「……っ、ぐすっ……」
手の甲で涙を拭った私は思いきり息を吸い込み、意を決して顔を上げた。
「……ごめんなさい、いきなり、泣きだしたりして」
「いや、全然。吐き出すときは、思いっきり吐き出したほうがいいですから」
両手をぶんぶんと振り、笑うエリスにつられて、思わず口角が緩む。するとエリスは動きを止めて目を丸くした。
「そんな風に笑うんですね。そのほうがずっといいですよ」
「え、私……」
「作り笑顔は分かりますよ。そういうの、オレ鋭いんです。今のほうがずっと自然だ」
彼が言うように鋭いのか、剣技に夢中になって見ていた私の演技が甘かったのかは定かではない。けれどそう言われて悪い気はしなかった。私の幼い頃だって知られているのだ。今さら隠すこともないだろう。
「ありがとう。……嬉しい」
口調を崩した私に、エリスは再度微笑んだ。
「やっぱり、そのほうがずっといい」
館へ帰ろうと挨拶をし、背中を向けると少し離れたところから声が響いた。
「ねえ君! 名前は? エディじゃなくて、本当の名前!」
驚いた。エリスは私の正体に気が付かないまま話していたのだ。自然なほうがいい、そう言ってくれた彼に、侯爵令嬢仮面は必要ない。
「ディー、よ! ディーっ!」
彼とはディーとして、正直な自分として向き合いたい。声が届いたのかエリスは大きく手を振った。
「じゃあね、ディーっ! もう泣かないでよーっ?」
「泣かないわよ! またね、エリス! また遊びに来るわーっ!」
彼に負けないくらい声を張り上げて、私は走って館に帰ったのだった。





