4.熱
「──冷たいグラスは選んじゃダメ。シュワルツ王子やエリスくんの屍の上でキスしたくなかったら、絶対よ」
手のひらに乗った護石は、まるで血が通っているかのようにドクンドクンと光を放つ。広間の喧騒の向こうへと消えたアルミラさんの声が、未だ耳に残っていた。
「それって護石?」
「そうよ。……前にも一度、私を守ってくれたの。まさかアルミラさんが炎の魔力持ちだなんて信じられない」
懐かしいなあ、とエリスが護石に手を伸ばす。一瞬何か起こりやしないかと身構えたが特に護石が反応することもなく、エリスが指でつまんでしげしげと眺めても魔力が溢れることはなかった。
「私、ずっとアルミラさんって意地悪な人だと思ってた。あのとき……エドとしてエリスに会ったときね、私にスープかけたの、アルミラさんの取り巻きだったのよ」
「え、あの時の? 懐かしいな、もう結構前だよね」
「もう! 私傷付いてたんだから! 何もしてないのにシュワルツの近くにいるってだけで嫌がらせをされるし。何のためにここに来たんだっけ、って」
「……」
「エリスと会ったときは焦ったけど、正直嬉しかったわ。食堂では皆、見ないふりをしていたから。心配してくれて、嬉しかった」
「そんなこと。あんなところで一人でしゃがみこんでたら、俺じゃなくても誰だって心配するよ」
「ねえエリス。──エリスは死なない、わよね?」
私が呟いた言葉に、へらりと笑っていたエリスは護石を弄んでいた手を止める。
「どうしたの、いきなり。さっきアルミラさんが変なこと言ってたから? ──大丈夫、そんな簡単には、」
「それだけじゃない! 団長から聞いたわ。強くなきゃいけない、そのために団長に勝つつもりだった、って。エリスは十分強いじゃない。どうしてわざわざ強さの証明なんてしようと思ったの? どうしてあんなに……勝ち急ぐような、戦い方」
捲し立てる私に対し、エリスは黙ったままだ。わずかに差す月明かりに反射して、エリスの手の中の護石がキラキラと光る。
「ねえ、ディー。騎士団で一番強いのは誰だと思う?」
口をつぐんだと思っていたエリスが唐突にそう呟いた。不可解な問いに、私は眉を潜めながら答える。
「それは団長、でしょう? 強くなかったら団長になんてなってないじゃない」
「そう。それで、王子であるシュワルツが敵国に赴くとしたら、それを守るのは当然一番強い騎士ってことになる。未来の王に何かあったら大変だからね」
「──何が言いたいの、エリス?」
「オセルスに、行きたかったんだ。ただの新米騎士じゃあ、敵国になんて連れていって貰えない。でも、闘技大会っていう皆が見ている場所で団長と互角かそれ以上の成績が残せたら、オレにもチャンスはまわってくると思ったから」
少し俯いたエリスは小さな声でそう続ける。握り締めた拳が彼の決意を表しているようで私は息を飲む。──でも。
「だめ、エリスは連れていけないわ」
毅然とそう言い放った私にエリスは勢いよく顔をあげた。どうして、と唇が動く。
「わかってる? オセルスはセデンタリアを侵略してきたのよ?」
「わかってるよ、それでもオレは」
「エリス。私はシュワルツの婚約者である以前にセデンタリアの王女なの」
お父様もお母様もお兄様も死んだ今、セデンタリア王家の血を引いているのは私とアルだけ。今はオセルスの統治下にあるけれど、セデンタリアを取り戻すことが出来たら王位を継ぐのは順当に考えれば私だ。
「私には自国の民を守らなきゃいけない責任がある。だからエリスをオセルスに連れていくことは出来ないわ」
「エリスのことが大事だから。大切だからこそ、わざわざ危険な場所になんて行かせられない」
真っ直ぐにエリスを見据えて、私は一息にそう言いきった。しばらく動きを止めたエリスは不意に一歩私の方に近付くと私の手を両手でぎゅっと掴む。
「──オレも、ディーが大事だよ。でもそれは、ディーが王女様だからでもシュワルツの婚約者だからでもない」
「王女様としてのエディリーンがオレを守るっていうのなら、オレに騎士として、ただのディーを守らせてよ」
絞り出すような声だった。思い返せば初めて会ったときから、エリスは私をただの女の子のディーとして見てくれていたことがふっと頭に浮かぶ。ずっと正体を騙していたときだって、エリスは笑って許してくれた。
「……オレは、ディーの騎士だよ。ディーが何者だって、オレにとってのディーが努力家で、強がりで、それでちょっと泣き虫な女の子ってことは変わらないから」
繋がれた手が熱い。それが一緒に握り締めた護石のせいなのか、それともエリスの体温なのか、私にはわからなかった。
真剣な顔で見つめ返してくる熱のこもった視線に、目を反らすことが出来ない。かあっと頬が熱くなって、痛いくらい心臓が跳ねる。──こんなの。これじゃあ、まるで。
「……ディー、オレ、」
「姉さん?」
聞き慣れた声に、私は慌てて振り返った。視線の先ではバルコニーに出たばかりといった様子のアルがひらひらと手を振っている。
「ルシィが姉さんのこと探してたよ。奥のテーブルで待ってるって」
「そ、そう! ……あっ、あの、エリス。私、ルシィのところに行ってくるわね! マントと、あと、助けてくれてありがとう……!」
繋がれていた手を払い、マントを押し付けて、私は逃げるようにバルコニーを後にする。瞼の裏に焼き付いた姿を振り払うかのように、ぎゅっと目を瞑ったまま一目散に広間を駆け抜けた。
*
「──月は人を惑わす、ってよく言ったものですよね」
走り去ったエディリーンと残されたエリスを見て、アルアレンは固い声で呟いた。
「ほんとは、あんなことを言うつもりなんてなかったんでしょ? エリスさんだって」
腕を組んだアルアレンに、エリスは自嘲気味に笑ってみせた。押し付けられたマントをふわりと羽織りなおすと、バルコニーの手すりに寄りかかって空を見上げる。
「よかった、アルくんが来てくれて。──まだ言わないでおこうって、ずっと決めてたんだけどね」
「姉さん、自分のことには鈍感だから。まあ、今ので多少意識はしたと思いますけど」
「──それが嫌だったんだよ。だってそうしたら、オレはきっとディーの側に居られなくなる」
大きく息を吐いたエリスに、アルアレンはつかつかと歩み寄るとその顔を睨み上げた。
「今の姉さんは『シュワルツ王子の婚約者』。いくらエリスさんでも、僕の姉さんの邪魔をするなら容赦しません。──勿論、姉さんが望むなら僕は何でも協力するし、誰がどうなっても構わないですけど。姉さんがエリスさんと一緒にいたいと思うならこんな婚約なんて破棄させるし、最悪、シュワルツ王子に手をかけることだって僕は厭わない」
いつもより饒舌なアルアレンの姿にエリスは少しだけ恐怖を覚えた。彼ならやりかねない、とそう思ってしまうほどに。
「アルくん、もしかして酔ってる?」
「──そうかもしれませんね」
だから今のことは秘密ですよ?そう言って人差し指を立てたアルアレンは、妖艶に微笑んでみせた。





