2.薔薇と菫
それから慌ただしく時は過ぎ、今日は私とシュワルツ王子の婚約披露。起きたと同時にメイドたちに着飾られた私は姿見の前でぐったりと溜め息をついていた。その横で、部屋に訪れたシュワルツ王子は反対向きに座った椅子の背に腕をのせてこちらを見やる。あまりお行儀のよい態度とはいえないその姿に眉をひそめるも、何か言いたげな様子に人払いをしてメイドたちを下がらせる。足音が遠退くと、彼はおもむろに口を開いた。
「調子はどうだ、我が麗しの婚約者殿?」
「ええ、朝から最悪ね。なんのために事前にドレスを選んでいたのよ、アクセサリーだけでこんなに時間を食われるなんて知らないじゃない」
広げられた首飾りやら何やらはざっと数十種類。取っ替え引っ替え、着けては外しを繰り返し、ようやく先程服装が決まったのだ。
「お前は慣れていると思ったんだがな。ヴィスケリ家にも装飾品なんてものは有り余るほどあるだろう?」
「それとこれとは話が別よ。自分を一番美しく見せられるものを選ぶことは簡単だけど、気心の知れないメイドたちに囲まれていたら私、ずっと笑顔を貼り付けてなきゃいけないのよ? 」
肩を落とした私を前に、シュワルツ王子はわざとらしく笑った。壁にかけられた時計へ視線をずらせば成人の儀までもう二時間を切っている。
「それで、用件は何なの。こんな時間にわざわざ来たってことは、何か言いたいことがあるんでしょう」
「ああ、そうだったな」
シュワルツ王子が勢いよく椅子から立ち上がる。そうして彼はまるでダンスへの誘いのようにその手を此方に差し出してみせた。
「俺にとってもお前にとっても新たな舞台の幕開けだ。気を緩めるなよ、エディリーン」
「貴方こそ。存分に、演じきってみせましょう?」
その手を取る代わりにくるりと身を翻し、姿見越しににっこりと笑う。一瞬、きょとんとしたシュワルツ王子は数秒の間のあと、くつくつと笑って部屋を去っていった。
*
傾けたグラス越しに、シュワルツは集まった貴族たちを眺めていた。招待されているのはステンターの筆頭貴族であるランバート家やヴィスケリ家を始めとした古参から、首都から遠い領地に住む末席の貴族まで総勢三百人に及ぶ。既に成人の儀を終えたシュワルツは早々と堅苦しい礼服を脱ぎ去り、壁に寄りかかりながらエディリーンが来るのを待っていた。全くもって下らない儀式だが、「場」としてはこれ以上ないほど相応しい。
周囲のざわめきに気付き視線を移すと、深紅のドレスを身にまとったエディリーンが此方に近付いてくるのが見えた。艶やかに微笑みドレスの裾をつまむ彼女に合わせ、胸元に手を当てて腰を折る。距離を詰めた瞬間にその唇の端が面白そうに歪んだと思えば、彼女はからかうように口を開く。
「成人おめでとう、まさかもう着替えているだなんて思わなかったわ」
「生憎、形式ばった儀式は嫌いでな。我が麗しの婚約者殿に晴れ姿をお見せ出来なかったことは心底悔やまれるが」
「あら、いいのよ。私、貴方が着飾った姿なんて欠片ほどの興味もないもの」
「……手厳しいな」
仲睦まじそうに顔を寄せる二人の会話は到底、婚約披露を前にした男女のものとはいえないだろう。壁際で談笑しているように見える主役に周囲の貴族たちが視線を投げてくるものの、生憎、計算外の会話をうっかり彼らの耳に入れてしまうほど迂闊な二人ではない。
「それ、私にも一口頂けるかしら? 柄にもなく緊張しているのね、喉が乾いてしまって」
「それは杯を分ける意味を知ってのことと捉えても?」
目を細めたシュワルツの様子に構いもせずエディリーンは彼の杯を強引に奪いとる。目を見開いたシュワルツを前に、葡萄酒を口の中で転がし舌鼓を打ったエディリーンはにんまりと口角をあげてみせる。
「忘れたの? 地獄までも共にと、約束したでしょう、シュワルツ?」
名を呼ばれ広間の中央に立ったエディリーンは大勢の貴族たちの視線を物ともせずに微笑んだ。万人をも魅了するその姿は、どんな言葉を当てはめても足りないほど艶やかだ。
沸き上がる歓声に、涼しい顔をしたシュワルツは半分になったグラスを軽く掲げてみせた。杯を分けるその意味は「どこまでも貴方と共に歩みましょう」。本来は婚礼の場で用いられるその行為。広間の中央からどうだとばかりにこちらを見やるエディリーンに、お返しだ、とシュワルツは残りの葡萄酒を一気にあおってみせるのだった。
*
「なによ、また来たわけ?」
痩せこけ落ち窪んだ目をしたあたしの姿が、窓越しににこにことこちらを眺める少年の橙色の瞳に映る。いくら帰れと伝えても動かない少年に、あたしは呆れ半分といった調子で窓の鍵を開けた。
「あんたも暇ね。王子ってそれなりにやることとかあるんじゃないの?」
「そりゃあ、あるに決まってるよ。まあ僕は天才だからそんなことで悩んだことは一度もないけどね」
「ああそう。いいの? 愛しの妹さんやら弟さんやらの相手をしなくても」
「今は君の相手をしたい気分なんだ。どうだい?牢から出た感想は」
のらりくらりとした態度で言葉を交わす少年に、あたしは不信感を拭えなかった。
「──ねえ、どうしてあんたはあたしを外に出したのよ」
「君に興味があった。何度も言っているだろう?」
いそいそと窓枠に手をかけ中に入って来ようと足をあげた彼は、私の問いなんて構いもせず部屋に押し入ろうとしてくる。
「おかしいでしょう。あたし、あんたのことを殺そうとして捕まったのよ。それをどうして、側になんか」
ウィオラ・フランセーズ、それがあたしの名前だった。ステンターを支える血塗られた血筋。宗教国家を語り神話を尊ぶ国の、影の部分を代々担ってきた家系。
「セデンタリア第一王子の暗殺」なんていう妙な命を受けたあたしの父親は、キース王子と同い年のあたしをセデンタリア家に送り込んだ。元々フランセーズ家の存在はステンター王家に近しい限られた者しか知らない。厨房見習いとして髪色や瞳の色、所作までも変えて忍び込んだあたしを怪しむ者なんて一人もいなくて、数か月後、あたしはキース王子の食事に毒を紛れ込ませることに成功したのだ。
今夜中に毒は回るはず。その混乱に紛れて逃げ出そう。そう考えながら荷物をまとめていたあたしの部屋に、毒を盛ったはずのキース王子が平然とあらわれたときには驚きに言葉を失った。
『君、確か厨房見習いの子だよね。よかったら、今日のスープに入れた隠し味を教えてくれないかな?』
呆然とするあたしを、彼の後ろに控えていた騎士たちは取り押さえると地下牢に放り込んだ。初めての失敗。このまま殺されるかここで一生を終えるかと思っていたのに、数日後彼は鍵束をもってあたしの前に現れたのだ。
「どうして? ──そうだな。君はきっと裏切らない、って思ったから」
「……は、」
「ねえウィオラ。君は何があっても僕の側にいてくれる?」
普段は勝ち気な少年が不意にみせた、すがるような表情。彼はわざとあたしをウィオラと呼んだ。ロゼではなく、フランセーズ家としてのあたしの名を。
誓おう。──例え、その言葉の真意は汲めなくとも。
「あたし、まだ依頼を成し遂げてないの。誓うわ、あんたを手にかけるのはあたしよ」
フランセーズ家の者として、ウィオラとして、そして何よりもロゼとして。
私はこの孤独な雇い主の、味方でいようと決めたのだ。





