20.夏の薫り
窓から覗く空には大きな入道雲が立ち上っている。だんだん夏めいてきた青い空を見上げ、私は太陽がまぶしくて少しだけ目を細めた。
波乱の闘技大会からあっという間に三週間が過ぎていた。私は相も変わらずシュワルツ王子の執務室で彼の仕事の補佐をしている。
「どうした、エディリーン」
不意に手を止めた私に、向かい合って座っていたシュワルツ王子が訝しげな視線をよこす。あれからオセルスの刺客である少年を捕まえるために騎士団、近衛師団それぞれが奔走しているが、なかなかどうして尻尾がつかめない。私や王子、そしてルシフェルさんもどうにかして手がかりを探そうとしているものの調査は前進していないのが現状だった。
「エディリーン様もお疲れなんですよ。連日、根を詰めていますから。──少し、休憩にしましょうか。お茶を淹れてきますね」
「ありがとうございます、ルシフェルさん」
立ち上がったルシフェルさんが三人分のカップを用意し、茶葉の入った缶を戸棚から取り出す。シュワルツ王子はまだ仕事を進めたかったのか、少しルシフェルさんをにらんでいたが、つゆほどもこちらを見ない彼に諦めたようにペンを置いた。
「そうだ。この間書いたオセルスの宰相の筆跡を真似た紙。あれはどうなったのかしら?」
「ああ、あれは昨日ルシフェルが情報屋に流してきてくれた。よほどおいしいブツだったのか、目を輝かせて受け取ってくれたらしいな」
「まったく、エディリーン様の技術には恐れ入りますよ。欠片も疑われることはありませんでしたから」
「……それはルシフェルさんが持ってきたから、ということもあると思いますよ」
ポットを傾けたルシフェルさんがくすくすと笑う。褒められているのかそうでないのか、私は曖昧な笑顔を浮かべることしかできなかった。
ふと、何を思い出したのかシュワルツ王子が声を上げた。
「あと、ルシィと母上がお前に会いたいと言っていたな。あとで足を運んでやるといい」
「おっ、王妃様が!? もう怪我は大丈夫なの? 命に別状はないとは聞いていたけれど」
オセルスの刺客の攻撃からルシィを守るために背中に大怪我を負った王妃様は、あれからずっと部屋にこもり、療養している。ルシィはそれにつきっきりで看病をしているらしかった。
「ああ。もう傷口もだいぶ塞がっていて、ベッドにいるぶんには大丈夫だそうだ。まだ立ち上がることはできないが、ルシィが車椅子に乗せて時々中庭に連れていっていると、ついさっきメイドが言っていたのを聞いた」
「──そう、よかった」
あの日から、ルシィに対する評価は百八十度変わった。疎まれていたはずの風の魔法は、彼女を女神ルチアの生まれ変わりだと称賛する理由へと姿を変えた。まるであの日見た大きな翼のように、彼女は自分のちからで、羽ばたく│術を手に入れたのだ。部屋に引きこもっていたルシィだが、王妃様の看病を通じて幾人かのメイドや近衛兵、あとは騎士団の皆と話すことも増えてきた、とエリスがこっそり教えてくれた。
「ふふ、ルシィのために考えた闘技大会だったのに、結局ルシィは自分の力で周りの見る目を変えちゃったわね。なんだか情けないわ」
ルシフェルさんが置いてくれた紅茶に角砂糖を入れ、くるくると混ぜる。湯気の立つカップを片手で持ち上げて一口すすった紅茶は、思ったより甘ったるくて、私は眉をひそめた。
「そうか? 俺は一概にそうとは言い切れないと思うがな。お前が言い出さなければ闘技大会すら行われなかったんだ。そうしたらこんな事件だって起こらなかった」
「それでも、ルシィならいつか自分の手できっかけをつくっていたわよ」
「──いつか? それは来年? 再来年? それとももっと先か? お前がいたことでルシィは初めて城内を自由に歩けるようになったんだ。どうしてそこまで自分を卑下する?」
「……それは、」
うつむいた私に、シュワルツ王子はふう、と大きく息を吐いた。口につけていたカップをかたんとソーサーに戻し、そのまま言葉を紡ぐ。
「あの場には俺や騎士団、それに近衛まで、城で戦える者全員が揃っていた。それがどうだ? 母上は大怪我を負い、刺客は未だ足跡すらつかめていない。失態を犯したのはお前ではなく、俺たちのほうだろう」
「で、でも……! 私も戦えたわ。──それなのに、私は誰も守れなかった」
そうなのだ。ルシィが変わるきっかけをつくったというのなら、少しくらい私も手伝ったと言えるだろう。だがしかし、私は他に何ができた? 倒れた王妃様、刺客相手に苦戦する王子やエリス、団長や騎士団の皆を、黙って見ていることしかできなかったじゃないか。
「──悔しいのよ」
唇を噛み締めると乾いた笑いが聞こえた。思わずキッと視線を上げるとシュワルツ王子が微笑んでいた。その珍しい光景に、私はぽかんと口を開けてしまう。
「お前が強いのは誰もが知っているさ。アルフレッドも、エリスも、ここにいるルシフェルも、もちろん俺だって。──剣を振れることだけが強さだと思うなよ、エディリーン。剣だけじゃ、人は守れない」
諭すように、一言一言を噛み締めるように。シュワルツ王子は私の目を真っすぐ見据えている。まばたきすら忘れて呆然とした私の斜め前に腰掛けたルシフェルさんは、人差し指を立てると口元をふっと緩めた。
「貴女の強さは他にもあるということですよ、エディリーン様。私たちにはない強さを貴女は持っているのです。シュワルツは単にそれが羨ましいだけですから」
「──別に、俺は羨ましいなんて一言も言っていないだろう……!」
「おや、そうでしたか? それはそれは、失礼しました」
「ルシフェル!」
一気に緩んだ空気に、私は笑いをこぼす。
「強さ、ね……」
目の前で言い争う王子とルシフェルさんを視界の端でとらえながら、私はまた窓の外へ目を向けた。
「それで、王妃様は部屋にいらっしゃるのかしら?」
おおかた、ルシフェルさんにやりこめられたらしいシュワルツ王子を振り返り、問いかけた。普段は見慣れないようなげっそりとした表情を浮かべていた彼は、私の視線を受けて取り繕うように咳払いする。
「んんっ。……ああ、母上の部屋は分かるか?」
「もちろん。誰かさんのおかげで城の構造はほとんど頭に入っているもの」
つん、と澄ましてそう言うと、シュワルツ王子はただ、そうか、と一言呟き、口をつぐんだ。私はその姿に少し疑問を覚えつつも、残っていた紅茶を飲み干すと勢いよく立ち上がる。
「それじゃあ、行ってくるわね」
「はい、お気を付けて」
ひらひらと手を振るルシフェルさんに見送られ、私は執務室を後にした。
***
パタン、と音を立てて閉まった扉の向こう、シュワルツとルシフェルはしばし無言で立ち去ったエディリーンを見つめていた。
「……悔しいのは彼女より貴方のほうでしょう、シュワルツ?」
目を瞑ってカップをあおるルシフェルはくすりと小さく微笑んだ。シュワルツは少々荒々しく紅茶を口に流し込むと、置いていたペンを再び手に取り、書類に走らせる。
「私を含め皆、感謝してるんですよ。貴方のそれはただの嫉妬」
「……分かっている!」
畳みかけるルシフェルに、シュワルツは観念したように宙を仰ぎ、目元を押さえた。
「分かっているさ。……あいつのおかげでルシィは母上や父上と本当の意味で家族になれた。俺が守ってやらねば何もできなかったルシィはもういないなんて、百も承知している」
「彼女が来るまでは貴方もディフルジア様も、互いしか必要としていなかった。──しかしそれを最初に壊したのはシュワルツ、自分だという自覚はありますか?」
問い詰めるような口調だが、ルシフェルの眼差しはどこか優しい。うるさい!とそっぽを向いたシュワルツに聞こえない声で彼はそっと呟く。
「……貴女に任せて本当に良かった。シュワルツ自身は気付いていないでしょうが、貴女と出会ってから彼は微塵も自分を偽らなくなったのですよ」
口をへの字に曲げて書類と向き合うシュワルツの顔には、露骨なほどルシフェルに対する苛つきが表れている。仮面を外したその姿をルシフェルがどれほど切望していたか、彼以外に知る者はいないのだ。
いつも王女様は嘘がお好きをお読み頂きありがとうございます。これにて、書籍一巻に相当します第一章は終了となります。
年明け1/4より第二章の更新を開始しますので、しばらくお待ち頂ければ幸いです。
それでは皆様、よいお年をお迎えくださいませ!





