2.夜軍となり、暗さは暗し
「信っじられない! 何なのあの男は!」
中庭から客室へと戻ってきた私は、その勢いのままクッションを力一杯叩く。目を閉じずともよみがえる完璧な笑顔に、イライラした気持ちが収まらない。
しばらくぼすぼすと八つ当たりを続けていると、先ほどよりは冷静さが戻ってきた。癇に障るシュワルツ王子だが、セデンタリアに関する話だけは妙に耳に残っていた。
「セデンタリアを取り戻したくはないか、って……できることならとっくの昔にやっているわよ」
おおかた、私の気を引くために言った戯れ言だろう。しかしそれ以上に、もし実現するのならば、それが喉から手が出るほど欲しい情報であることは確かなのだ。
七歳の頃に火災で全てを失ってから母国、セデンタリアを取り戻したいと強く願ってきた。亡くなった両親やキースお兄様のためにも、セデンタリアを再興できればどれだけ嬉しいことだろう。幼い頃から、それこそが家族や国民への弔いになると信じてきたのだ。
そうは言っても、私にできることに限りがあることくらい分かっていた。一国を敵に回して、小娘一人に勝算があるとは思えない。
──しかし、もし一国の王であれば?
正直なところ、はるかに実現性は増すだろう。
シュワルツ王子は第二王子だが、兄である第一王子が死産だったためステンター国王位継承権第一位。つまり、このままであれば将来王位に就くことは確定している。そんな人物からの魅力的な誘いだった。
「……話を聞きに行くだけよ。期待に添わないのなら、なかったことにして家に帰ればいいもの」
その夜、私はロゼが扉から出ていくと急いでドレスを取り出し、着替え始めた。紺色の生地に刺繍の施されたそれに護身用の短剣を隠す。何かのために、とロゼが持ってきてくれていたが、まさか身に着けることになるとは思わなかった。
支度を終え、鏡の前に立つ。にっこりと微笑み、隠した短剣に手を添えた。
「さあ、出番よエディリーン。戦場へ向かう準備はいい?」
巡回している近衛兵の目を避けるように長い回廊を渡り、シュワルツ王子の部屋の前に辿り着いた。ご丁寧にも去り際、部屋への地図を手渡して行った彼は、私が来ると信じて疑っていないらしい。ノックをすると中から声がして扉が開かれる。部屋には彼の姿のみ。人払いも済んでいるようだ。昼間とは異なる漆黒の服をまとったシュワルツ王子は、訪れた私を見て笑みを浮かべた。
「ようこそ、ヴィスケリ侯爵令嬢。そのドレスもよくお似合いですね、まるで夜空を写したようだ」
歯の浮くような気障な台詞を口にしても、まったく違和感を抱かせない整った顔立ち。ただ、その瞳だけは悪戯を思い付いた子供のような輝きを放っている。
「貴女がここにいると知れたら城の者は大騒ぎするでしょうね。父上の驚く顔も見ものでしょう」
「……お戯れを」
涼しい顔をするシュワルツ王子を前にして頭に血がのぼってくる。それをおくびにも出さず、私は必死に笑顔を貼り付ける。
そんな私にシュワルツ王子は近付いてきて顔を寄せた。距離を取ろうと後じさりするも、私の背中は扉に当たる。
「……しかし、これはいただけませんね。美しい薔薇の花に、棘は必要ない」
ドレスに隠していた短剣に手を添え、音も立てずに取り出す。キッとにらみつけると、シュワルツ王子は目を細め私を眺めた。その口元は楽しげに歪んでいる。
短剣を床に落とした彼に気を取られた一瞬のうちに、あっという間に両手を左右の扉に着かれ、動きを封じられる。目の前の端正な顔は新しい玩具を与えられた子供のように楽しげだ。
「……何をするつもり? 手を出したら叫ぶわよ」
「それがお前の素か? そのほうがずっといい、そそられる」
唖然とした。なんだ、そそられる、とは。
昼間の貴公子然とした男と同一人物とは到底思えないほど強引な態度に驚きを隠しきれない。私は外仕様の仮面が外れていることにも気が付かないほど、強い衝撃を受けた。開いた口が塞がらない私に、シュワルツ王子は喉を鳴らして笑うと右手で私の顎をつかんだ。軽く持ち上げられたそれに思わず息を飲めば、彼の唇がゆっくりと開かれた。
「アホ面」
「~~っ!?」
なんだなんだなんなんだこいつは! アホ面って……!
今にも沸騰しそうな頭のまま力任せに突き飛ばし、床の短剣をむんずとつかんで部屋の外へと飛び出した。
「ああ、面白かった。また来いよ、エディリーン」
「誰が二度と来るもんですか!!」
怒り心頭に発した私は、シュワルツ王子から何一つ情報を聞き出していないことをこの数十分後に思い出し、深く深くため息をついたのだった。
***
「……さん……姉さんってば!」
「──っ! ……なあに、どうしたのアル?」
目を瞬かせた私にアルは呆れたように肩をすくめた。
「朝からずっと心ここにあらずって感じなんだ、心配しないほうがおかしいよ。何か嫌なことでもあったの?」
「大ありよ!」と叫びたいのを必死で堪える。いくら話を聞くためとはいえ、真夜中にシュワルツ王子のもとに忍び込んだなんて口が裂けても言えない。否、死んでもあんな奴のところに赴いたなんて言いたくない。
「……何でもないのよ」
諦めたような視線に何かを感じたのか、アルはそれ以上踏み込んではこなかった。
ステンター城の近衛兵に見送られ、私たちは宮殿を後にしていた。
なんだかぐっと疲れが増した気がする。帰ったらおいしいお菓子でも食べてゆっくりしたい。ストレス発散に、やりたかった遠乗りでもしようか。
ガタガタと揺れる馬車の中、一転して頬を緩ませた私にアルは訝しげな視線を向けた。ロゼに至ってはもはや興味も湧かないのか、私に見向きもしない。
「ねえアル! 家に帰ったら」
「遠乗りは禁止ですよ、エディリーン様」
「……だそうだよ、姉さん」
冷たい声で切り捨てたロゼを恨みがましく見つめるも、効果はまったくないようだった。
「お帰りなさい二人とも。ロゼもお疲れさまね」
「ただいま戻りました、おばさま」
馬車を降りるとベラリアおばさまが出迎えてくれた。おばさまに抱きつき、家の中へと進もうと足を踏み出したそのとき、遠くのほうから大きな足音が近付いてきた。
「ディー! お帰り! 大丈夫だったかい? 王子に何もされなかったかい!?」
「おじさま! お仕事はもうお済みですか?」
「ディーが帰ってくると聞いたから早く抜けてきたんだ!」
「……ソウデスカ」
ルーズヴェルトおじさまは、もともと女の子を欲していたこともあり、私のことを目に入れても痛くないくらいに可愛がってくれていた。
それにしたって「娘」が帰ってくるからと仕事を抜けてくるだなんて、一国の宰相としても父親としてもどうかと思う行動だった。以前それに関して指摘した際にも優先順位は「私〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉仕事」などと言っていたので、もはやどうしようもない。
そんなおじさまは現在、目の前でおばさまにこっぴどく叱られていた。だがしかし、本人が言うには、仕事は一通り終わらせてきたようなので、家に入るお許しは出たようだ。
家に入ると、すでに夕食の用意ができていた。四人で椅子に座り、会話を交わしながら夕食をとる。
「舞踏会はどうだったの?」
「かなり退屈でしたが粗相はしていないと思います」
「外仕様の姉さんは完璧だからね。見事に騙されてた周りの男性たちには同情するよ」
きっぱりと言い切った私と、苦笑いするアル。おばさまはその様子を見て微笑んだ。礼儀作法には厳しいおばさまだけれど、それ以外に関しては寛容だ。ありがたいことに私の男勝りな性格も熟知しており、ある程度放任してくれている。
舞踏会について話をしていると突然おじさまが口を開いた。
「ディー、それで王子とは会ったのかい?」
恐る恐る、といった調子でおじさまが問いかけてくる。顔は青ざめ、フォークを持つ手は震えていた。
「おじさま、私──やはりシュワルツ様との結婚はお断りしますわ」
にこやかに言い放つと、その場の空気が凍りつく。驚くアルとおばさまの横で、あからさまに笑顔になるおじさまは首を大きく縦に振った。
「そうかそうか! それは良かった! いくら王子とはいえ、僕のディーが簡単に嫁ぐわけないじゃないか!」
「エディリーン、貴女正気なの? この人が言うことは気にしなくていいのよ?」
小躍りするおじさまを尻目に、おばさまは心配そうに眉を寄せた。私は朗らかに笑ってみせ、あくまで自分の意志で決めたのだと両手を振る。
「私はまだこの家で暮らしていたい」。そう言うと、おばさまは気遣わしげな視線はよこしたものの、それ以上は何も言わなかった。
その夜、部屋でくつろいでいた私のもとにアルがやってきた。不満げな顔の理由は、聞かなくたってよく分かる。
「姉さん、せっかくシュワルツ王子が求婚してきたっていうのに断るわけ?」
「そうよ」
わけが分からない、という風なアルは大袈裟な手振りとともに私に言い聞かせるように話し始めた。普段声を荒らげないアルが心底怒っていることなんて、手に取るように分かる。
「こんなこと、めったにあるわけじゃないんだ。僕たちがまだセデンタリアっていう後ろ盾を持っていたら断ってもいいかもしれない。でも今、僕らは侯爵家だ。恵まれた環境とはいえ、侯爵家とステンター王家とは比べものにならないよ。それなのにシュワルツ王子からの求婚を断るなんて──王妃になれば姉さんは何不自由なく暮らせるはずなのに」
分かっている。アルが私のことを思って怒っていることは、よく理解していた。
でも、これだけは譲れない。
「アル、それを私が望むと思う? ……確かに、ステンター国王妃になれば恵まれた生活を送れると思うわ。大勢の召し使いにかしずかれて、何もしなくても身の回りの世話だってやってもらえるでしょうね」
「…………」
「そんな生活を私が望むなんて、アルだって思ってないでしょう?」
私にとっての幸せは、そんなことじゃない。おじさまやおばさまや、アルと一緒に暮らせている──それだけで私は十分幸せだった。
豪華な食事もドレスも宝石も、地位も名声も何も欲しくない。家族皆で一緒の食卓を囲めるようなささやかな時間があることが私にとっての幸せだ。あの日、一度は失ってしまった家族の団欒を、今度は自分から手放せだなんて、到底できない相談だった。
いつになく真剣な面持ちの私に、とうとうアルは折れた。
「──そんなの、知ってたよ。でも、姉さんはシュワルツ王子と話さえしてないんでしょ? 会ったら姉さんだって気に入るかもしれないのに」
と……盛大な爆弾発言を残して。
「だっれがあんな腹黒王子に惚れるもんですかっ!」
八つ当たりを食らったベッドからは無数の羽が舞いたち、唖然としたアルと私の間をスローモーションのようにゆっくりと落ちていく。
数秒の沈黙の後、アルが口を開いた。
「……会ったの? シュワルツ王子に」
もうごまかせない。洗いざらい話してしまおう。そう決心した私は、中庭の事件から夜這いもどきまで、全てをアルに告げることにする。しどろもどろになりながらも順を追って説明すると、賢い私の弟は、姉の拙い説明でもしっかり理解してくれたらしく頭を抱えていた。
「姉さん、それ完全に遊ばれてるから……」
「そうよね。まかり間違っても求婚した相手への態度とは思えないわ」
顎に手を当てて考え続けるアルに、私は手を打って話の終わりを示した。もう夜は更けている。いつまでもとどめて大事な弟の睡眠時間を削るわけにはいかない。あんな王子に振り回されるなんて、真っ平ごめんだ。
「もう求婚は断るって決めたのよ、悩むことなんてないわ。あんな男のことを考えるのに時間を使って眠れないなんて悔しいもの」
「でも、姉さん」
「私は大丈夫よ。ほら、早く寝ないと!」
追い出すように背中を押して、アルを部屋の外へと押し出す。アルは終始何か言いたげな顔をしていたが、私が扉を閉めると諦めたのか部屋から離れていった。