16.緋色のリボンと初恋の君
王妃様と別れ、私はルシィの手を引き、シュワルツ王子の執務室へと向かうことにした。人目に触れることを極端に恐れるルシィのためにバスケットに敷いていた赤いハンカチを広げ、彼女の顔が見えないように被せてみる。顎の下で端と端を結ぶと、両手の塞がった私の代わりにバスケットを持っているルシィはまるで童話のヒロインのようだ。
「ルシィ、早くしないとシュワルツ王子がオオカミに食べられちゃうかもしれないわよ?」
「大丈夫、お兄さまならオオカミなんてやっつけちゃうよ」
おどけた私の言葉にバスケットを握る力を強め、真剣に返してくるルシィ。オオカミなんて城にいるわけないわ、と笑うと彼女はほっと息を吐いた。
ルシィと共に回廊を渡っていると不意に彼女は私の耳元に手をやった。何事かと視線を向ければルシィは不思議そうに私の髪留めを触っている。
「ねえ、ディーお姉さま。この髪留め……着ているお洋服は新しいのに、これは古いものなの?」
「そうねえ、もうだいぶ昔の物よ。ルシィだから言うけど──このリボン、私の初恋の人にもらったの」
人差し指を口に当てて微笑むと、ルシィは目を丸くして髪留めを凝視した。
幼い頃、ヴィスケリ領の稽古場で出会った少年の話。ネロと名乗った彼と、人生でたった一度だけ負けた剣の勝負のこと。夢にまで見る、私の綺麗で大切な思い出。
「思い出は美化されるものって分かってはいるのよ? ネロだって私のことなんて覚えてないだろうし、もし偶然会えたとしてもお互い気付くわけないもの」
「でも、とっても素敵なお話。そうだ! ……あのね、ディーお姉さま。私のこれも、初恋の人からもらったの」
遠い目をした私に、ルシィは周りに人がいないことを確認してからハンカチを外し、髪を結っていたリボンを指差した。蜂蜜色の髪によく栄える、深い深い緋色のリボン。
「え、ルシィの初恋の人!?」
「わっ、驚かないで? 実はこれ、お兄さまからの贈り物なの。恥ずかしいけど、私の初恋はお兄さまなの。……だって私の世界には、お兄さましかいなかったから」
恥ずかしそうに頬を染めるルシィは私なんかより、よほど女の子らしくて。
もし、本当にもしかしての話だけれど、私もネロと再会できたのならこんな表情ができるのだろうかと思ってしまう。正直、少しだけ羨ましい。
「でもね? 今もお兄さまのことは好きだけど、それはお兄さまとしてだ、ってことに気付けたの。これは、ディーお姉さまのおかげ」
「私の?」
「そう。だってエドは私の世界に踏み込んでくれた。世界はお兄さまだけじゃないって気付かせてくれたの」
ぎゅっと私の手を握り返し笑ったルシィ。彼女の世界がもっと広がるように、そのために私ができることをしようじゃないか。
「おいエディリーン、どこへ行っていた? 部屋の扉を叩いても返事がないから中へ入ったらもぬけの殻。……挙げ句の果てに、どうしてルシィが……」
「お兄さま! あのね、ディーお姉さまが、私を婚約披露の場でお隣にいさせてくれるって……! か、勝手に出歩いたのはごめんなさい。でも私嬉しくて……」
「いや、別にルシィには怒っていないよ。エディリーンなんかに言われなくても、ルシィに俺のそばにいてもらうための手はずは整えていたしね」
「ちょっと、何よその言い方。まるで私は用済みみたいじゃない。人が変わりすぎなのよ、面の皮の厚さは相変わらずね、この腹黒魔王」
「おい、ルシィの前でそんな汚い言葉を使うなよ、猫被り令嬢が」
執務室へ一歩踏み入れた途端、この状況である。ルシィに向ける優しそうな笑顔は一体全体どこから来ているのか、その優しさの欠片くらい私に向けてほしいものだ。まあ、いきなり王子様然とした態度をとられても気持ち悪くて吐き気がするけれど。
「ちょっと姉さん、いい加減にしてよね。急ぎの書簡が来たから早馬で来たら痴話喧嘩? 僕、侯爵が呪詛の文献を読み漁ってるのを止めるのでもうヘトヘトなんだから、これ以上疲れさせないでよ」
「面白いからと思い、止めずにいましたけど、かれこれ半刻はその不毛な口論を続けていますね。ほら見てください、窓際の脳筋なんて船をこいで……って、ちょっと何寝てるんです。一秒以内に起きないと貴方が遠征している間に猫の世話するのやめますよ。はい、いーち」
「んあ!?」
ルシフェルさんの言葉にガタン、と音を立てて団長が椅子から立ち上がる。
「……ルシフェルさん、あの猫の世話をしてたんですね」
「……どこかで野垂れ死なれたらこの三十路は仕事が手につきませんから。あくまで仕事の一環ですよ」
「ほう? 妻と娘が喜びますとか何とか言って、家まで連れて帰ってたのはどこの誰だ?」
「シュワルツ、貴方今、それを口走ったらどうなるか想像はついています? ディフルジア王女の目の前で『シュワルツの恥ずかしい話ベストテン』を暴露されたくなければその口を塞ぐことですね。ああ、針と糸をお望みならこちらで準備しますよ」
誰かが口を開くごとにおかしくなっていく空気の中、頭を抱えたアルの背をおろおろとしたルシィがさすっているのが視界の端に見えた。私と言い争っていたはずのシュワルツ王子はルシフェルさんに噛み付いており、
「……ぐぅ」
団長に至っては、もはや意識が体からおさらばしてしまっている。
「ちょっと!!」
パンパンっ、と大きく手を叩くと一斉にその場は静まり返り、全員が私のほうに顔を向けた。実家に帰っていたアルをわざわざ呼び戻し、忙しいはずのルシフェルさんや団長にも来てもらったのだ。当初の目的を忘れてはいけない。
「シュワルツ王子と私の婚約披露の前に、闘技大会を開きたいと思うの」
ぽかんとした五人に、私はそのまま言葉を紡ぐ。
これはただの闘技大会じゃない。ステンターの風潮なんか全部吹っ飛ばして、ルシィが皆に囲まれて笑える世界をつくるための第一歩。彼女への、私からの贈り物。
だからこそ、この起爆剤はできるだけ派手で、国内全てに影響がなければいけない。魔法使いが疎まれる時代は終わり。
「もちろん、ただの闘技大会じゃないわ。──魔剣を用いた闘技大会を行うのよ。民衆全てを巻き込んで、魔法への偏見なんか木っ端微塵にしてみせるんだから!」
シュワルツ王子と婚約するのなら、せっかくなんだからその立場は有効活用させてもらわないと。
『わたくしの愛するセデンタリアを、そしてたった一人の家族である弟を、皆さんに受け入れてほしいのです。約束いたしましょう、魔法は皆さんを傷付けません。セデンタリアの民がそうやって生きてきたように、私たちは魔法と共に生きてゆけるのです』
──面の皮は厚くて上等、最高の褒め言葉だわ!
「魔剣、って。姉さん正気? どれだけ時間かかると思ってるの。全力を出しても僕だけじゃさすがに手が回らないよ。それに騎士団だけの参加だとしても軽く何十人単位だよね? とても維持できる人数じゃない」
事態が飲み込めていないステンターの面々を前に、アルは抱え込んでいた頭を上げ、私に問いかける。
通常の剣を媒体として魔力を込めることで、簡易的な魔剣ならすぐに造り出せる。だがしかし、この方法には欠点があるのだ。普通、魔剣を造るには初めから素材となる鉱石に術式を組み込むことになっている。事実、セデンタリアの伝統的な産業としての魔剣造りではそのように行っていた。術式を組み込む方法ならば剣を造るそのときに魔力を込めるだけでよく、剣の魔力が切れるまでその剣は魔剣としての効力を保っていられる。しかし、既存の剣に魔力を込めるとすると魔力持ち本人がそれを維持し続けなければならず、大きな負担を負うことになるのだ。
「姉さんのことだから遊び程度の考えじゃないんでしょ? 僕だって協力したいのはやまやまだけど、僕一人で全ての魔剣を維持するとなると、現実問題たぶん平気じゃいられないよ。魔法に慣れていない人ばかりのステンターで、もし僕が魔力暴走でもしでかしたら……姉さんだって分かるでしょ?」
アルの言い分ももっとももだ。騎士団の皆が使う全ての魔剣をアルが保つのであれば、完全にキャパオーバー、それこそステンター城全体がアルの魔力暴走によって雷に包まれるだなんてことが簡単に起こるかもしれない。
「でもアル、それは魔力持ちがアルだけだった場合でしょう?」
「場合って……ステンターに魔力持ちがいるわけないでしょ」
「あっ、あの……! 私でよければ、手伝う、よ? 私もディーお姉さまの力になりたい。ずっと嫌われものだった私の魔法を、ディーお姉さまは綺麗だって褒めてくれたから……!」
アルは目を丸くして隣にいたルシィを凝視した。一方、ルシィは決意を込めた目でアルを見上げている。
「…………」
私の視界の端、シュワルツ王子は黙ったままルシィを見つめていた。
「アル、ルシィの他に私に思い当たる節があるの」
「思い当たる節……それは一体?」
「炎の魔力持ちです。雷のアル、風のルシィ。炎の魔力持ちの方の力は分かりませんがアルとルシィを見る限り、三人なら魔剣の維持は余裕かと」
確信を持って頷いた私とは対照的に、窓際にいたアルフレッド団長が冷や汗をかいた。
「お、おいエド……それってまさか」
「そうです、そうです。団長が私を亡き者にしようとしたときに守ってくれたあれ、ですよ」
「……ねえ今の僕の聞き間違い? どういうことか説明してもらってもいいかな?」
ふらりと足を進めた立ち上がったアルは、今すぐにでも表へ出ろと言い始めそうな雰囲気のまま、団長へと歩みを進める。虚ろな表情の中、瞳だけが爛々と輝いていて暗闇の中で見たのなら獣と勘違いしそうだ。
「……串刺しか、みじん切りか、蜂の巣か、どれがお好みですか、団長さん?」
「おい待て弟クン、ここは穏便にだなっ……!?」
「口を割らないつもりならそれでもいいです。僕の大事な姉さんに何しようとしたのか……ルシフェルさん、さっき話していた針と糸、お借りしてもいいですか? 使わない口ならいらないですよね」
「うぉいエド‼! 弟クン止めて!? 俺、寝起きだってば! 割とマジだわこれ!!」
「大丈夫ですよ。僕、こう見えても結構裁縫得意なんです」
びゃあああああああ、と団長の叫び声が響く。針と糸で武装したアルは、執務室の中を逃げ回る団長を追いかけ始めた。
「……お前のブラコンも大概だが、弟もシスコンとはな。さすが姉弟といったところか?」
「くすくす。あら、貴方にだけは言われたくないわね」
目の前の光景に頭がフリーズしたらしいルシィの横、いかにも優雅なティータイムといった調子で紅茶を片手に毒を吐く私とシュワルツ王子に、ルシフェルさんは冷ややかな微笑みを向けていたのだった。
***
「あー、あれはヤバい。エドの弟クン、歩く凶器だわ」
静かに荒れ狂うアルアレンから無事逃げ切ったアルフレッドは、騎士団の稽古場に駆け込むとぐったりと腰を下ろす。ぜいぜいと息を荒くする団長に、たまたま自主練習をしようと稽古場を訪れていたエリスは微笑みかけた。
「お疲れさまです、団長! ……ん、エドワードの弟? ディーの下ってエドワードの他に弟くんがいたんですか?」
「ん? あれ、お前何言ってるんだ? エドは二人姉弟だろ?」
「え? だって今団長が言ったんじゃないですか。弟がもう一人いる、って。いくつなんですか? エドワードより年下ならまだ十二、三歳とかかなぁ」
あの二人もそっくりだから下の子も似てるんでしょうね、と笑うエリスにアルフレッドは目をぱちくりさせた。
「エリス、お前、エドと知り合いだったよな?」
「え、オレが知り合いなのはディーですよ。エドワードとは、あのとき初対面で」
「はぁ? 寝ぼけてんのかエリス。だって、エドはヴィスケリ侯爵令嬢だろ? エディリーン、の愛称でディーなんだから……っておいエリス!? どこ行くつもりだ!?」
手にしていた剣をその場に取り落とし、エリスは肩で風を切り、その場から立ち去った。彼の名を呼ぶアルフレッドの声がだんだんと遠くなっていく。
(ディー、ねえこれは……一体どういうこと?)





