15.妙案と企み
静まり返る執務室の中、私が万年筆を走らせる音だけが微かに響く。先ほど感じた懐かしさはなんだったのだろうかと首を傾げながら作業を続ける私の耳元で、使い古した髪留めと赤いリボンが小さく揺れた。
「ねえ姉さん。姉さんたちが来る前に王子とも話していたんだけどさ。オセルスに乗り込むっていっても、姉さんには公的に乗り込める立場はないよね?」
「……あ」
シュワルツ王子はステンターの代表として、アルフレッド団長も騎士団長なのだから王子の護衛として当然付いていけるはずだ。
だがしかし、私はどうだろう。どう考えても、たかが一侯爵令嬢である私が王子らと共にオセルスへと乗り込める肝心の理由が見つからない。
「それに、姉さんはすっかり忘れているかもだけど、僕たちは一応セデンタリアの元王族だからね? のこのこオセルスなんかに入ったら捕虜にされるのがオチだよ。いくら王子のそばにいたとしてもオセルスがセデンタリアを手に入れた事実は変わらないんだ。最悪、強制連行されるかも」
「……それじゃあ敵陣に攻め込むどころか、未来永劫お先真っ暗じゃないの」
「いいや、諦めるなエド! 俺にいい考えがある!」
重たい空気をまとった私たち姉弟のすぐ横で、団長は満面の笑みを浮かべ腕を組み、頷いた。訝しげに見上げると彼は自信満々に口を開く。
「エドが正式に王子の婚約者になればいい!」
「……え?」
その場にいた全員──いや、団長を除く三人がぽかんと口を開けたまま動きを止める。
「え、姉さんが王子と婚約?」
「そうそう! 婚約者なら別に王子に付いていっても問題ないだろうし、俺たちも職務としてエドを守れるだろ? それにセデンタリアの元王女様だからっつって、次期ステンター王妃となればオセルスだって簡単には手出しできねぇよな?」
「あと、婚約の話が養父の宰相サンに反対されてたからエドは男装してまでここに潜り込んでた──んだろ? エドと弟クンの故郷を取り戻すためだったら、さすがのヴィスケリ宰相でもたぶん折れるだろうよ。エドたちの両親とも親交が深かったって言うじゃねぇか」
「た、確かにお父様もお母様も、侯爵夫妻とは仲が良かったですけど……!?」
いつになく饒舌に語るアルフレッド団長を直視できず、私は頭を抱える。視線をずらすとシュワルツ王子がすぐ横で笑いを噛み殺しているのが見えた。
(ちょっと! 何を笑っているのよ)
(はっ、まさかアルフレッドがこんなことを言い出すなんて思わなかったからな)
(さっきの殺伐とした空気を見ているのに、今さら私たちが相思相愛だなんて設定を持ち出してこないでほしいわ……)
(まったくだな。それともあれか、お前の態度は好意の裏返しだと捉えてもいいということか?)
団長に聞こえないよう顔を寄せ合って毒を吐く私たち。私を横目で見ながら悪戯気ににやりと口角を上げた彼の脛を思いっきり蹴飛ばしてから、私は急いでアルの横へと体を寄せた。
「ま、待ってください団長! ちょっと急すぎて頭がついていかなくて」
いくらなんでもその設定はないだろう! 一人盛り上がる団長をどうにか止めようと声をかけるものの一向に届いていないようだ。私の言葉にも耳を貸す素振りさえ見せない。
ひとしきり騒いだあと団長は、
「まあ、エドからヴィスケリ宰相には言いづらいだろうから、俺が代わりに伝えておいてやるよ!」
と言い残し、嵐のように去っていった。彼の首根っこをつかもうと伸ばした手は無情にも空をつかみ、ぱたりと落ちる。
「……これは違う意味で未来永劫お先真っ暗だわ……」
階下から響くおじさまの叫び声と、団長の高笑いとを遠くに聞きながら、私は諦めの境地で窓の外に目をやった。
目に痛いほどの青空が視界に映る。心と裏腹に煌めく陽光はさんさんと降り注ぎ、私の頬に影をつくる。
そういえば昔どこかで聞いたことがあるような気がする。
……絶望は、美しい。
ああ、やっぱりその通りだな、と私は諦めの境地で目を伏せたのだった。
それからは怒濤の日々だった。ヴィスケリ侯爵令嬢エディリーンが第二王子シュワルツと婚約したというニュースはおじさまの絶叫を引き金に瞬く間に広がり、王宮の回廊を歩くだけで祝福されるようになった。
外面をつくっている私はそれをむげにすることもできず、にこやかな微笑みを貼り付けるものだから、ここ数日で表情筋は笑顔のまま固まってしまったのかとすら思えてくる。
先に家に帰ったアルから、おじさまが、私が帰宅したときに部屋から出さないための南京錠まで用意しているという報告を受け、私は不本意ながら王宮にとどまることとなった。いくらおじさまが私のことが大事でも、それは監禁罪に問われると思う。
今は私がエドだった頃の客室を借りて王宮に身を寄せているものの、取っ替え引っ替え来客があるものだから常に誰かに監視されているようで気が休まらない。
「あ~……もういっそのことエドになって抜け出しちゃうのもいいかもしれないわね」
ヴィスケリ侯爵令嬢としての仮面を脱ぎ捨て、大の字になって一人ベッドに倒れ込む。ほとんど無意識に呟いた独り言に、なにかピンときた気がした。
「そうだ、中庭!」
あそこにはシュワルツ王子が許可した者しか入れない。中庭でなら部屋にいるよりストレスが発散できるかもしれないし、何より来客の相手をしなくて済む。それに茂みに隠れてしまえば王宮の中から私の姿は見えないのだ。
薔薇の季節はもう終わってしまっているかもしれないけれど、あの雰囲気はとても好みだ。久しぶりに心から楽しめそうで胸が躍る。私は戸棚に立てていたユーナ・ココットの小説とお菓子の入ったバスケットを片手に人目を忍びながら中庭へと急いだのだった。
以前に見つけ出した人通りの少ない回廊を小走りで進む。エドの部屋からさほど遠くない場所にある中庭には、思いの外すぐに辿り着いた。
ガラス張りの扉を開け、足を踏み出すと、薔薇の季節とはまた違った艶やかな香りが私を包み込む。見渡してみると、目と鼻の先にグラジオラスの花が咲き誇っているのが見えた。薔薇の茂みに負けないくらい凛と立つそれは、レンガ造りの小さな花壇の真ん中で胸を張っている。
「確かユーナの小説にも出てきたわよね、グラジオラス。花言葉は密会と思い出、だったかしら?」
私の一押しであるユーナの処女作。それを原作とした歌劇でも使われていたグラジオラスの花は、主人公らが人目を忍んで密会するときの描写としてよく使われていた。その描写が美しく、調べたときにはただただ感心しただけだったけれど、実際にこの中庭でルシィが世話をしていることを知って、口元がほころぶのが分かった。
グラジオラスが植えてある花壇の近くに腰を下ろし、バスケットを横に置いた。頬を撫でるそよ風が気持ちよくて私は思わず目を細める。そんな私の背後で茂みがガサガサと音を立てたかと思うと、いきなり何かが背中に飛び付いてきた。
「エドっ! 久しぶ……へ?」
私の髪に勢いよく顔を埋めたルシィは跳ね起きると、怯えた小動物のように体を縮め、私から距離を取る。目を白黒させた彼女はいつものドレス姿ではなく、土いじりがしやすいようにか作業服を着ており、どう見ても庭師のそれにしか見えなかった。
「ひ、ひぃ……ッ! あのっ、ごめ、なさ……ひっ、人違いなんです……! わ、忘れて、ください……すすみませ……っ」
挙動不審っぷりに拍車がかかっているルシィを落ち着かせようと私は最大限の笑みを浮かべる。だがしかし、震えの収まらない彼女に、私は小さく息をついて口を開いた。
「久しぶり、ルシィ。約束通り遊びに来たよ?」
「ま、まさかエドが女の子だったなんて……」
「うん、隠しててごめんね?」
「事実は小説より奇なり、ってこと、かぁ」
事のあらましをルシィに説明すると、思ったよりもすんなり理解してくれた。騙すようなことをしていたのに私のことをまだ友達だと思ってくれるルシィの心根に、ささくれだっていた気持ちが休まるような気がする。
「これからはエドじゃなくてディーって呼んでくれると嬉しいわ」と言えば、ルシィはこくこくと頷いた。
「それにしても、ルシィが王子の妹だって聞いたときには驚いたのよ。あの腹黒の妹だなんて……気絶しそうだったんだから」
「腹黒? シュワルツお兄さまが? お兄さまはとっても優しくてかっこいいよ?」
「え? 優しい? ……彼、私に対しては優しさなんてもの、微塵も持ち合わせていないと思うんだけど」
「……お兄さまは、小さい頃からずっと私のそばにいてくれるの。皆、私のことは嫌いなはずなのに、お兄さまだけは、嫌な顔なんて一回もしないから」
だから大好きなの、と花のように微笑む彼女に目まいがする。
──あの王子のどこが優しいと!?
優しさという言葉とは半永久的に平行線を辿りそうなあの王子の!!
外見の麗しさや私同様の外面の良さに騙されているご婦人ご令嬢方は多いと思っていたけれど、まさか妹までとは思わなかった。まあ、ルシィの場合は彼が人生を懸けて守ろうとするほど大事な妹であるのと同時に、幼かった彼にとっての救世主なのだから、一概にそうとは言えないが。
「私といるときはまるで魔王よ。事あるごとに人を小馬鹿にして喜んでるわ、人使いは荒いわ、あとは……数えたら切りがない」
ため息混じりにうつむくと、ルシィはなぜか嬉しそうに笑った。
「二人は仲良しなのね。お兄さまが婚約するって聞いて、私とっても不安だったけど……。エド、ううん、ディーお姉さまみたいな人で、ほんとに、良かった」
純粋に私と王子の婚約を喜んでくれているルシィに、婚約に至るまでの真実を告げることはできなかった。どう足掻いても天使の微笑みには勝てそうにない。
私といるときのシュワルツ王子について、ルシィに聞かれるまま(ありのままの事実を伝えると彼女の中のお兄さま像が音を立てて崩れ落ちそうなため、少々脚色も加えつつ)答えていると、中庭の入り口に人影が見えた。誰だろうと思い背を伸ばすと、ルシィがそのまま大人になったような女性が立っているのが見えた。
「……おかあ、さま」
蜂蜜色の艶やかな髪を一房顔の横に垂らした王妃様の姿はこの可愛らしい中庭には不釣り合いなほどひどく儚げだ。舞踏会のあとに一度会ったきりだが、彼女は私の顔を覚えていたらしく、扇で口元を隠し、まぶしそうに目を細める。近付く素振りを見せない彼女に、王妃様までも中庭に立ち入ることはできないのかと踏んだ私は、目が合った以上そのままにすることもできず、彼女のほうへと向かっていく。
私の左手をつかんだまま体を固くしたルシィは、結局引きずられるように出口へと向かうことになった。ルシィの顔は実の母親を目の前にして明らかに青ざめており、ルシフェルさんの話で聞いた通り、この王宮に彼女の味方はシュワルツ王子しかいないのだと改めて思い知った気がした。
「ご機嫌麗しく、王妃様。再びお目にかかることができて光栄ですわ。未だにご挨拶に伺っていないこと、何卒ご容赦くださいませ」
「まあ、気にしていないわ。ヴィスケリ家のほうが大騒ぎだってベラリアから聞いているもの。きちんと話をつけてからのほうが、わたくしだって嬉しいわ」
鈴を転がすように笑った王妃様は、そのとき初めて私の後ろに隠れているルシィの存在に気が付いたようだった。浮かべた笑みを陰らせ、複雑そうな顔で彼女を見下ろしている。ルシィはその視線に怯えたのか、私の腕にしがみついてきた。何か言おうとして口を開きかけていた王妃様は、彼女の行動にそのまま口をつぐんでしまう。
「あの、王妃様」
二人の姿を見て私はあることを思い付いた。たとえ、その真実が何であっても、私とシュワルツ王子の婚約を喜んでくれたルシィに私ができる唯一の贈り物。
「シュワルツ様との婚約披露の場で、ディフルジア様にわたくしの横にいていただくことは可能ですか?」
「それは……。わたくしは構わないけれど……」
私の突然の提案に驚き、目を丸くした王妃様とルシィ。私は背後に隠れていたルシィを引き寄せると、王妃様を見上げながら誇らしげに微笑む。
「ルシィはわたくしの大事なお友達ですの。それにわたくし、彼女の魔法、とても綺麗だと思っていますのよ?」
「……ディーお姉さまっ!」
「…………」
抱きついてきたルシィの髪を軽く撫でてから顔を上げさせる。不思議そうな顔をしたルシィと視線を合わせ、私は指を立てた。
「ねえルシィ。私、とってもいいことを考えたの。手伝ってくれるかしら?」
「いいこと?」
「そうよ。うまくいけば婚約披露の場に胸を張って出られるし、お友達もできるかもしれないわ」
ルシィ、そしてアルにも手伝ってもらわなければ。あとは手紙を書かなくてはいけないかしらね。
さあて、アルフレッド団長には一働きしてもらわないと。なんてったって全ての元凶は彼だもの。覚悟なさい。
「ディーお姉さま? すごく怖い顔してるけど、大丈夫……?」
「ええ、ええ。なんでもないの、ほんとうよ?」
いけないいけない。天使にこんな顔を見せちゃだめよ、エディリーン。





