14.連れ去りに来ました
ロゼが出ていってからしばらくの間、泣き腫らした目をした私は、そのまま部屋に閉じこもっていた。扉越しにベラリアおばさまに聞いた話では、ロゼは「しばらく暇をもらいたい」といって荷物をまとめて姿を消したらしい。
「……エディリーン、何があったのかは知らないけれど一度出てきてみたらどうかしら? 食事にもろくに口をつけてないなんて……体を壊してしまうわ」
「平気よ。気になさらないで、おばさま。食欲が湧かないだけなの……本当よ」
ロゼが出ていってから今日で三日が経つ。扉の向こうからおばさまのため息が聞こえた。冷めきったであろう食事の載ったトレーを召し使いに運ばせている。遠ざかっていくおばさまの足音に耳を傾けていた私は、今日もまた床に座ったまま、窓に映る空を眺めている。
起きて、空を眺めて、寝て、また起きて。
何度繰り返したか分からないくらい昼夜を過ごしたある日、窓ガラスがダンダンと乱暴に叩かれた。近付いて開ける気力もなくてそのままにしていると、数秒の後、鍵をかけていなかった窓が開かれる。
「……おー、生きてるか?」
開いた窓の隙間からひょこっと頭を出したアルフレッド団長は私の姿を認めるとずかずかと部屋に侵入してきた。壁にもたれかかり座っていた私の目の前に腰を下ろすと心配そうに眉を下げる。
「しばらく見ないうちに痩せたなぁ。なんか萎れてるみたいだぞ。ええと、エド、でいいか?」
そう言った彼にこくんと頷けば、彼はいつものように笑いながら私の頭をがしがしと撫でる。陰鬱な空気が漂っていた部屋の中、団長の存在は明らかに異質で……でもだからこそ、彼の言葉は真っすぐ私に届いた。
「だんちょ、わたし」
「おーおー、泣くな泣くな! わーってるよ。エドんとこのメイドさんだろ?」
なおも頭を撫でられながら私はこくんと頷く。下を向いた私に、彼は黙ったまま言葉を紡ぐのを待っていてくれた。アルフレッド団長がどこまでロゼのことを知っているのかなんて分からない。そもそもなぜここに来たのかすら分からないけれど、彼は私の味方だと、なぜか、そう信じられるような気がする。
「辛かったなぁ、エド」
「……うん」
「泣くなっつったけど、ほんとに泣きたかったら泣いてもいいからな」
「もう泣きすぎて、涙なんて残ってない」
「んー、そうかぁ」
ぼそぼそ呟いていた私の肩に不意に団長が手を置いた。不思議に思って顔を上げると、彼は真剣な顔で私を見つめ返す。
「シュワルツ王子から伝言を預かってる。答え合わせの時間、だってよ。お前さんの弟クンも来てんだ。……わりぃ、事情は全部聞いた」
「エドを連れてくるように頼まれたが、お前が行きたくないなら王子の命令なんぞ無視することもできる。お前の返事次第で、どこかへ連れて逃げてやったっていい。どうする? エド」
エドが壊れちまったらどうしようもねぇからよ、と団長はおどけてみせる。
また傷付くかもしれない。心の中で弱い自分が震えているのはとっくに分かっていた。ロゼのことも、知らなければずっと幸せでいられた。
──でもそれは、本当に幸せだったと言える……?
小さく頷いて、私は決意を込めて団長を見返した。
「……行きます、ステンター城に。あんなことを聞かされたけど、私はロゼのことが嫌いになれない。もう一回、彼女と話をしたい」
私がきっぱりと言い切ると団長は肩をポンと叩いた。そうしてそのまま私の腕を肩にかけ、膝の裏に左手を回すと軽々と抱え上げる。
「エドぉぉぉ……軽い! 折れる! 引きこもるのは勝手だけど飯は食え!」
俗に言うお姫様抱っこなる形で私を抱え上げた団長は、すっくと立ち上がると窓枠に足をかけた。ちょっと待って、すごく自然な流れだけど、ここ二階よ!? 普通に考えてこのまま出たら落ちる──!
「ちょ、待って、そこ窓……っ!?」
「んなの朝飯前ってもんだ! 口閉じろよぉエド。舌噛むぞ?」
「──っ!?」
「さあて、引きこもりのお姫様を連れ去るとしますかね!」
私の制止も聞かず、団長は勢いよく外へ体を投げ出した。風圧に目を瞑り、歯を食い縛るとすぐ横で楽しそうな笑い声が響く。
団長は大笑いしながら意外にもすんなりと地面に着地した。そして私を抱えたまま、ものすごいスピードで走りだす。馬車は使わないのかと声をかけたら、こっちのほうが近道できていい、と返されてしまった。
「団長って、猫みたいな人ですね。突然予想もしないときに現れて、窓から飛び降りても平気だなんて」
「この間ルシフェルには『貴方は熊かグリズリーのようですね』って言われたぞ? ……はっ、いや待て、熊もグリズリーもつまりは熊だよな!?」
梢を駆け抜ける団長の体が上下する。歩幅に合わせて揺れるリズムは、退屈な馬車よりも何万倍も面白くて、私は久しぶりに声を上げて笑った。
それからしばらく揺られたのち、団長に抱えられた私はステンター城に辿り着いた。当然ながら正門から入るのだと思っていた私に、団長は笑顔で首を振ると城の裏側に回る。
「正門から入ったら団員とか他の奴らとかに見つかるだろ? ほら、こっちにルシフェルの奥さんの研究施設があるんだよ。そっちから入ろうと思ってな!」
どうやら、城壁の近くに秘密裏に城内に入れるような場所があるらしかった。もう大丈夫だと下ろしてもらおうとしたが、抱えているほうがはぐれないしいいだろぉと言われ、放してもらえない。
「あっ、団長さん、こっちですよ~!」
団長と押し問答していると簡素な建物の窓から栗色の髪をした女の人が顔を出した。白衣をまとった優しそうな顔立ちの女性は大きく手を振りながら窓から体を乗り出す。
「おお! すまんな、ちょっと世話になるぞ」
「ふふ、これくらいお安いご用ですって! ええと、この子が噂のディーちゃんね? 私はミーナ、一応ルシフェルの奥さんをやってるんだけど……あんまり気を遣わないでお友だちになってくれたら嬉しいな?」
勝手知ったる様子でずかずかと足を踏み入れる団長に、人の良さそうなほわっとした笑みを浮かべるミーナさん。小姓として働いているときによく訪れたが、秘密裏に入れる場所、とは研究所のことらしかった。ルシフェルさんの独断と偏見によって建てられたことは知っていたが、彼の奥さんが勤めているからだったとは、と目を丸くする。
そうこうしているうちに、ミーナさんが私を抱えた団長を城の裏口へと手引きしてくれた。そんなこんなで、私はあれよあれよという間にステンター城の中へと入ることができたのだった。
団長に抱え上げられた格好のまま執務室のベランダから中へと入る。見慣れた部屋の中にはシュワルツ王子とアルが向かい合わせでソファに腰掛けていた。
音を立てて開いた窓に振り向いたシュワルツ王子と目が合う。彼は私と団長へ交互に目を向けると、なぜか苛立った様子で立ち上がった。それを見た団長は慌てて私を床に下ろすと、ぶんぶんと両手を振る。
「…………」
「あー! すまんすまん! 放した! ほら放したから怒るなって!」
むすっとしたシュワルツ王子に、それをとりなそうとするアルフレッド団長。いつかも見たような光景に思わずジト目になっていると、視界の端にいたアルがソファを離れ、おずおずと私のほうに向かってきた。口を固く結んだアルは、私の目の前に立つと大きく頭を下げる。
「ごめんなさい、姉さんっ……。……姉さんを傷付けたくなかっただけなんだ。でも、きっと僕が余計に姉さんを」
「アルのせいじゃない、私が悪いのよ。現実と向き合うのが怖かっただけなの。私が不甲斐なかった。でも、もう泣かないわ。私、ロゼにちゃんと会って話をするって決めたもの」
アルの顔を上げさせて、その肩にそっと手を添えた。唇を噛んだ彼は晴れやかな顔をした私を一瞬見つめ、ふっと視線を落とす。
「でも、これじゃあ姉さんはまた……」
「……アル? 何か言った?」
「ううん、何でもない。やっぱり、今はまだ知らなくていいよ、……ねえさん」
含みを持たせたアルの言葉に眉を寄せるけれど、彼はそれ以上話す気がないらしく、肩に置かれた私の手を外す。
視線を横にずらすと、いつものように自信ありげな表情をしたシュワルツ王子が私を見下ろしていた。
「久しいな、エディリーン」
「ええ、まったく。できることならもう会いたくなかったわ」
つんと澄ました私にくっくっと笑った彼は、仕切り直しとばかりに背を向けると、机に置かれたチェス盤から黒のクイーンを取り上げ、私に向かって放り投げる。
「さて、話は変わるが、そろそろファウスティアのチェス盤は理解できたか?」
ファウスティアのチェス盤。いつか彼が見せた、セデンタリア、ステンター、オセルスの三国があるファウスティア地方の上に置かれたチェスの駒のことだ。あのときはその駒が何を指しているのかまでは分からなかったけれど、今になってみればその意図がよく分かる。
「ええ、もちろんよ。ステンターに置かれた黒のクイーンは私。そして黒のキングは貴方のことね? オセルスに二組、白の駒が置かれていたのは二つの勢力が対立しているということでいいのかしら。王家の血筋と……考えられるのはレジスタンス、もしくは民営の何らかの組織ね。同じオセルスという国ではあるけれど一国の勢力としてまとまってはいない。……こんなところかしら?」
「上出来だ」
私の答えに満足そうに笑ったシュワルツ王子は、机に無造作に置かれていたペーパーナイフを白のクイーンの首に押し当てる。そして首を切るような動きをしたあとパッと床に駒を落とした。
「もちろん、チェス盤のように展開できるほど簡単な話ではないさ。エディリーン、やり遂げる自信はあるか?」
「聞くまでもないわ。ロゼに会うためなら、なんだってしてやるもの」
「ほんとうに? 何があっても?」
ここまで私を気にするだなんて、唯我独尊な王子にしては珍しい。まるで私に首を横に振ってほしいとでも言っているようだ。
「誓うわ。何があっても、私はもう逃げないし目も背けない」
きっぱりとそう言い切った私に、王子は小さく息を吐くとまぶしそうに目を細める。その後ろ、アルは私が話している間中、ずっと床を見つめていた。長い前髪が顔にかかって、アルの表情を窺い知ることはできない。
シュワルツ王子は床に転がった白のクイーンを踏みつけ、にやりと口角を上げると高らかに言い放つ。
「オセルスに宣戦布告する。切り込むのは俺とお前だ、エディリーン」
「オ、オセルスに宣戦布告ぅ!?」
声高に言い放ったシュワルツ王子の言葉に、アルフレッド団長はすっとんきょうな声を上げた。
「え、まじで? 本気で言ってんのか?」
「もちろん。聞こえなかったか? ……ついに耳まで遠くなったとはな。ご愁傷様としか言いようがない」
「いや、耳は遠くなってねぇよ! それより王子、なんか悪いもんでも食ったか? 普段のお前さんなら、んな馬鹿げたこと、いくらふざけたとしても言わないだろ」
「……悪いものなんか食べてないと思うわ。この人の言うことは大抵馬鹿げているもの。八割が嘘偽り」
「パレートの法則は知っているか? 俺の言っていることの二割は真実だなんて、随分な過大評価をしてもらっているようで何よりだ」
「あら、自己評価が高いのね? 残りの二割は詭弁と脚色……ふふ、口が滑ってしまったわ」
お互い視線をそらさないまま微笑みをたたえ、見つめ合う私と王子は、会話の内容がこれほどまでに殺伐としたものでないのなら、さぞ仲良さそうに見えるだろう。
「……姉さん、話がずれてる。オセルスについて話すために集まったんじゃなかったの?」
まったく見当違いの方向へ脱線していく私と王子に、肩をすくめたアルがため息混じりに声をかけた。ぱっと顔を覗き見るけれど、その表情に先ほど見えたような憂いはまったく感じさせない。
少々訝しげにアルに視線を向けるものの彼は気付いていないのか、そういったフリをしているのか、目を合わせてはくれなかった。
「そもそも、昔から争っていたとはいえ、今、ステンターとオセルスは冷戦状態。こっちからむやみに動いて得策なわけないだろうよ」
団長の言う通り、ステンターとオセルスは昔から敵同士。歴史上、事あるごとに争ってきたが、今のステンター王が王位を継承してからは冷戦状態のにらみ合いが続いているのだ。その均衡を簡単に崩していいはずがない。
「そこはちゃんと考慮している。そのためにコイツを呼んだんだからな」
眉を寄せて唸る団長に、王子は似つかわしくない晴れやかな笑みを浮かべながら、仰々しい動きで人差し指を別の方向へと向ける。
「……え、わたし?」
「……これ、どう考えても立派な犯罪よね」
シュワルツ王子の用意した羊皮紙に万年筆を走らせる。出来上がっていくのは〝ステンター攻略のための作戦が書かれた地図〟だ。
「これでオセルスに攻め入る口実ができるだろう?『オセルスはステンターとの休戦条約を破り、ステンター転覆を狙っている』とね」
「しかも姉さんが真似ているのはオセルス国宰相のシュイノグの筆跡、か。正直なところ、これはかなり信憑性が高くなるね」
そう。私が男装して宮殿に潜り込んでいた際に身に付けさせられた、とある人物の筆跡の模倣。それはオセルス国歴代最年少の宰相であるシュイノグという人物のものだったのだ。
そしてシュワルツ王子は私に架空の戦の図面を描かせ、これを振りかざしてオセルスに乗り込もうという魂胆らしい。
「あとはこの図面の存在をちらつかせる噂を国内に流し、その後、人を使って情報屋に現物を届けさせる算段だ」
「なるほど……それなら嫌が応でも国内の反オセルス感情が高まるってこった」
素直に感心している団長に咎めるように目を向けても、乾いた笑顔で返される。ここにいる三人は悪事を働いているという自覚がないのだろうか。
私が書いているこの紙切れ一つで戦争を起こすことができる。シュワルツ王子の手にかかれば情報操作なんて思いのまま。この図面をオセルス国宰相が書いたものと疑わない国民は、オセルスに攻め込むことにひと欠片の疑いもなく賛同するのだろう。
「どうしたエディリーン、手が止まっているぞ」
私の異変に気が付いたシュワルツ王子がこつこつと机を指で叩く。きっと彼にとっては些細なことなのだ。それこそ、地図に置いた白のクイーンの首を跳ねたように造作もないこと。国民の感情だって物事を有利に進めるための駒、でしかなくて。
それがセデンタリアを取り戻すための最善策。そう思おうとしても、私はそんな考え方はできない。
戦争と聞いて真っ先に思い浮かべるのは炎に包まれた城だ。護石のおかげで身を守れた私が火の粉を避けながら進んでいった先に、膝を抱えて座り込むアルの姿が見えた。パチパチと光を放ちながら四方の炎から主人を守ろうとする雷は、アルを包んでいたそれとつながり、私たちを守ってくれた。必死の形相で駆けてきたロゼが、泣きじゃくる私たちを抱えて逃げてくれるまで、ずっと。
私たち以外の城の者が誰一人助からなかったあの日。同じ日に、何の罪もないエリスの家族も命を落とした。セデンタリアを我がものにしようとしたオセルスのせいで、何百人、何千人の人たちが当たり前の日常を奪われたのだ。
そんな戦争を引き起こすための片棒を、当事者の私が担いでいいわけがない。
「……書けない。いや、書かないわ。こんなこと、していいわけがない。オセルスに攻め込むなんて無謀よ。そんなことするくらいなら私が一人で乗り込むわ。こんな私情に国民を巻き込むなんて、はじめからおかしかったのよ」
「エド、これが一番いい手段だと思うぞ。確かに騙すことにはなるかもしれねぇけど、エドが単身乗り込んでってメイドさんと話つけられるか? ……正直言って、無理だろ?」
「でも……!」
団長の言うことは、もっともだ。護衛をつけて、図面の真実を見極めるための話し合いという名目でオセルスに乗り込めるのなら一番手っ取り早いし危険も回避できる。
「それでも、上に立つ者として、やっていいことと悪いことがあると思うの。国民は私たちの駒じゃない。高貴なる者の義務、貴方なら分かっているはずよね。国民が当たり前の幸せを感じられる生活が送れるように守るのが、私たちに課せられた役目ではなくて?」
「…………」
「だって……もう、誰にもいなくなってほしくない」
ぽつり、と言葉がこぼれた。つらつらと偉そうなことを並び立てたけれど、これが私の本心だった。戦争になれば騎士団であるアルフレッド団長やエリスら団員は真っ先に戦場に立つことになる。アルだってきっと黙って見ているわけがない。おじさまやおばさまだって、必ずしも無事とは言い切れない。
もう二度と大事な人を失いたくない。今の幸せを壊したくない。そんな子供じみた、わがまま。
万年筆を握りしめ、口を固く結んだ私の頭に、不意に誰かの手がのせられた。ぽんぽんと規則正しく撫でられるそれを不思議に思って視線を上げる。
「大丈夫。誰も殺させないし、殺しもしない。それが王族としての俺の義務ならばもちろん、お前だって庇護すべき者に決まっているだろう?」
見たこともない、それでいて記憶のどこかに引っ掛かるような笑顔と手の温もり。それがなんだか懐かしくて泣きそうになった。
私はこの温もりを、確かに覚えている。きっとこれは私にとって、とても大事な記憶だ。
「信じられないわよ、嘘つき王子のくせに」
「安心しろ、これは残りの二割のほうだからな」
「詭弁と脚色……やっぱり信用ならないわね」
いつものような憎まれ口を叩きながら、私は再度、万年筆を走らせ始めたのだった。





