13.捩れた忠誠
「…………」
ガタガタと鳴る馬車に揺られながら、私は心ここにあらずといった調子で、膝に置いた手を眺めていた。
『契約はもう無効だ。家に帰りたいなら好きにすればいい』
あの夜。呆然と立ち尽くす私を尻目に、シュワルツ王子はそう言い捨てて寝室へ戻ってしまった。
内通者の情報を教えてもらうという契約で、シュワルツ王子の小姓として働いていた。お父様やお母様、キースお兄様を死に至らしめたその人物を知りたい、と。その一心で頑張っていたのに。
「……ロゼ」
ぽつりと呟いた名前は馬車の音に掻き消される。私はどんな顔をして彼女に会えばいいのだろう。
「ディーっ! 元気だったかい!?」
「!?」
馬車から降りた瞬間、門で待っていたおじさまに抱き締められた。その首根っこをつかんだベラリアおばさまが、私からおじさまを引き剥がす。あまりにも手慣れたおばさまの行動に、驚きを通り越して言葉すら出てこない。
「お帰りなさい、エディリーン」
「ただいま、戻りました」
門をくぐって家へと向かう。あれこれ騒ぐおじさまとそれを抑え込むおばさま。懐かしい二人の姿を目にしても心から笑うことができない。
部屋へ荷物を運び入れてもらい、ベッドに腰掛けていると扉が控えめにノックされた。
「姉さん、入っていい?」
いいわよ、と声をかけると開かれた扉からアルが部屋の中へと入ってくる。いつもと寸分変わらない笑顔で、アルは私に微笑みかけた。
「お帰り姉さん、城仕えはどうだった?」
「どうだったも何も! アル成分不足で死にそうだったわ」
扉の近くに立つアルに駆け寄り、腕を回して抱き締める。いつの間にか私より随分と高くなった身長のせいで、私の目元はちょうどアルの肩辺りに当たっていた。
王子から聞かされた真実を今だけは忘れられるように、私はアルを抱き締める腕に思いっきり力を込める。
「もう、なんなのよシュワルツ王子は! 人使いは荒いし性格はひねくれているし……。そう! あとエリスにも会っちゃってごまかすのが大変で」
「……姉さん?」
ぺちゃくちゃと話し続ける私の肩をつかんで体を離したアルは、少しだけ背を屈めて私の目を覗き込んだ。その視線が妙に真剣で、気圧された私は思わず口をつぐむ。
「何かあったでしょ」
「……なんにもないわよ」
「嘘。顔に書いてある」
アルの碧色の瞳が全てを見透かしているようで、私はいたたまれなくなって視線をそらす。苦し紛れに吐いた言葉に、アルは切なそうに眉を下げた。
「ため込むのは姉さんの悪い癖。姉弟なんだからさ、辛いときは頼ってよ。それとも、……僕じゃあ頼りない?」
「……っ、なわけ、なぃ……」
言葉を詰まらせた私に覆い被さるようにして、アルが私を抱き締める。締め付けられた腕が苦しいけれど、それがなんだか心地よくて安心する。とくとくと、心音が聞こえた。
「泣いていいよ、姉さん。こうしていれば僕にも見えないから」
アルの言葉に甘えるように、彼の肩に顔を押し付けて私はむせび泣いた。溢れだす嗚咽を必死に堪えながら、アルにしがみついた。
ロゼ、なんで、どうして。
声を圧し殺して泣く私が落ち着くまで、アルはずっと背をさすっていてくれた。アルに抱き締められた体勢のまま、私は小さく口を開く。
「アルは、知ってた?」
「なんのこと?」
「……ロゼのこと」
瞬間、アルの体が強張った。背を撫でる手つきも急に固くなる。
ねえどうして。
どうしてそんな反応をするの……?
一変して沈黙が訪れた部屋の中、アルは絞り出すように囁いた。
「シュワルツ王子に、聞いたの?」
「アル、知っていたのね……? それならどうして私に黙っていたの?」
「だって、姉さん絶対に悲しむじゃないか! 秘密にしておきたかったのに、どうしてあの王子は余計なことを……っ」
悔しげに顔を歪め、舌打ちをしたアルを突き飛ばす。よろめいたアルは絨毯の上に尻餅をついた。
私はその姿を見下ろすと、生まれて初めてアルの頬を力一杯叩いた。
「馬鹿にしないでよ! 私のためだなんて嘘! どうして隠してたのよ、ねぇ!」
大声でわめき散らす私を、真っ赤になった頬を押さえたアルがにらみつける。叩いた拍子に切れた唇を意に介すこともなく、アルは声を荒らげた。
「分からず屋なのは姉さんだよ! この十年、ロゼがどんな思いで姉さんに仕えてたか知らないくせにっ! 誰のおかげで生きてこられたと思ってるんだ! 調子にのるのもいい加減にしろ!!」
そう叫んで、アルは乱暴に扉を閉めると出ていってしまう。私は熱を持った手のひらを押さえ、へなへなとその場に崩れ落ちた。
アルの言葉が脳内で繰り返し再生される。まるで私が悪いかのような口振りに、込み上げる怒りが収まらない。
(アルはどうして平気でいられるのよ! だって、だってロゼは……!)
力任せに絨毯を拳で叩く。ひりひりと痛む手のひらをごまかすように何度も何度も拳を握りしめ、叩いてを繰り返した。
何十回目かも分からなくなったそのとき、閉じられた扉が少しだけ開いた。音を立てないその歩き方にはひどく見覚えがある。
……私が今一番、会いたくない相手。
「エディリーン様、どうされたんです?」
「……ろぜ」
部屋に入ってきたロゼは、床に座り込む私に視線を向けた。ぎゅっと握りしめた手のひらに爪が突き刺さる。
「アルアレン様が走って出てきたと思ったら、貴女までどうしたんですか? 帰ってきて早々姉弟喧嘩なんて、らしくないのでは?」
「…………」
黙りこくる私に違和感を覚えたのか、棚の整理を始めていたロゼは私の目の前に屈んで視線を合わせた。体の前で握りしめていた両手を取ると目を丸くする。
「何をやってるんですか!? どうしてこんな怪我なんか……待っていてください、確か、包帯が戸棚にあったので持ってきますから」
「……いい、いらないわ」
「……よくありません。何があったのかは存じませんが、見過ごすわけにはいきませんので」
私の手を放し、立ち上がろうとしたロゼのスカートの裾をつかむ。気付いたロゼは振り返り、訝しげな目付きで私を見下ろした。
「どうされたんですか。包帯なんか巻きたくないなんて言っても聞きませんよ」
「……ロゼ、正直に答えてちょうだい」
「なんですか、急に改まって」
「ロゼは、私の味方よね?」
つかんだ手に力を込める。すがるようにして言った私に、ロゼは柔らかく微笑み、頭を撫でた。
「当然です。まったく、泣きそうな顔をしているから何を言い出すのかと思えば」
「本当に? 神に誓ってそう言える?」
「もちろん。ああ、でも姉弟喧嘩でしたら味方しませんよ? 私はあくまで中立です」
ロゼはそう口にすると立ち上がって戸棚を漁り始めた。ぶつぶつと呟きながら包帯を探すロゼの後ろ姿は、小さな頃からずっと見慣れてきたものだ。
正直なところ、セデンタリアを裏切った内通者がロゼだと聞いて、どこかで信じたくないと叫んでいる私がいる。アルに当たってしまったのも、きっと彼に否定してもらえると期待していた部分があったから。
あんなにもったいぶってシュワルツ王子から告げられたけれど、間違いだということもある。それなのに、アルはこのことを知っていて……彼が黙っていたことが分かり、逆に確証が持ててしまった。
「ねえロゼ」
このままうやむやにして、いつも通り過ごせればどんなにいいだろう。今まで通り笑い合えたなら、何も知らない頃に戻れたら。
私の仮面を被ってでも選びたい、そんな未来だけれど、きっとロゼは嘘つきな私をすぐに見透かしてしまうだろうから。……昔からずっとそう、ロゼだけには隠し事ができないのだ。
「なんですか」
だからごめんね、ロゼ。
私だって、知らないままでいたかったわ。
「どうしてセデンタリアを裏切ったの?」
***
「……ねえ、ちょっと」
外の光さえ射し込まず、食事もまともにもらえない暗闇の中。非日常は突然訪れた。
音を立てて開いた牢の扉から、橙色の髪をした少年が私に手招きしている。彼の手には牢の鍵束が握られていた。
「なんなの急に。ここはあんたみたいなガキが来る場所じゃないわ、遊びたいなら他を当たりなさいな。脱獄の幇助は立派な犯罪、捕まっても知らないわよ」
「なんだ、つれないな。公的に外に出してあげると言ってるのに」
「……は?」
薄汚れた牢に足を踏み入れた少年は、何か策略めいた顔でにいっと笑うと私に手を差し出す。
「ウィオラ・フランセーズ。僕が君に新しい名前をあげよう」
「なにこれ……キモチワルイ」
「文句をいわないでくれないかな。僕の妹弟に会うのに汚い格好のままというわけにはいかないよね?」
ぴらぴらと風になびくメイド服の裾をつかみながら姿見を前にした私の横で、少年は足を組んでふんぞり返っていた。
「……あんたも大概だわ。何が〝妹弟思いな優秀な第一王子〟よ。ただの偉そうなガキじゃない」
「妹弟が大事なのは認めるさ。それにまあ、超がつくほど僕は優秀だから? 偉そうなガキって言ったって、事実偉いんだからしょうがないじゃないか。あと数年経てばガキって歳でもなくなるしね。ほーら、敬え敬え」
「そういうところがガキだって言ってんの! こんの馬鹿王子! あんたに背負われる国が可哀想だわ」
***
「ディー、これが今日から側付きのメイドになる……そういえば名前、決めてなかったな」
「おねえちゃん、おなまえないの? じゃあねぇ、でぃーがつけてあげる!」
着慣れないメイド服を身にまとい、引きつった笑みを浮かべる私を前にして琥珀色の髪の小さな女の子は弾けるように笑った。
「おねえちゃんのおなまえ、〝ろぜ〟ってどうかなぁ? でぃーがすきな、おはなのなまえ!」
「ロゼ、か。いいんじゃないか、呼びやすいし」
「……まあ、いいんじゃ、ないでしょうかね」
しぶしぶながら頷いた私に、小さな主人は紅葉ほどの両手を叩いて跳び跳ねた。
「ロゼ、君に頼みたいことがある」
「なんなの、珍しく真剣な顔して」
「これから、もしも僕に何があっても、ディーとアルを守ってほしい」
「言われなくてもそうするわよ。あんたはほっといてもしぶとく生き延びそうだしね。二人は私が守るわ、約束する」
「……恩に着るよ」
***
「馬鹿じゃないの!? どうして、そんな……ッ」
「ほら、行くんだロゼ。ディーとアルが待ってる」
炎に飲まれる城の中、彼の橙色の髪は炎に照らされてまるで燃えているようだった。
崩れ落ちる天井から逃げるように私は彼に背を向け、子供部屋へ駆け出す。目の前がぼやけてよく見えない。熱いものが頬を伝う。
「エディリーン様、アルアレン様! 早く逃げましょう!」
寄り添って震えていた子供たちに駆け寄り、抱き上げて窓から飛び降りる。燃え盛る城から離れるにつれて、瞼に焼き付いた橙色の光がちらついた。
ほんとう、ただのガキのくせに。
……ばかやろう。
振り向いたロゼは、それはそれは綺麗に微笑んだ。
「裏切ったも何も、私は最初からこちら側の人間ですよ?」
「こちら側、って」
「いわゆる、貴女と同じということです、エディリーン様」
「だって、ロゼはセデンタリアを裏切ったんでしょう……!? それが私と同じって、いったいどういうことよ!」
きょとん、と首を軽く傾げ、とぼけたことを口にするロゼに、床に座り込んだままの私が声を荒くすると、彼女はわざとらしくため息をついた。私を見下ろし乾いた笑顔を浮かべるロゼはまるで別人のようで、思わず背筋が凍る。
「今さら、説明が必要ですか? 私も貴女と同じで、『守りたいもののためなら平気で嘘だってつける』んですよ」
呆然とする私に、ロゼはやれやれといった調子で肩をすくめる。
「貴女ほどの人なら勘づくかな、と思っていたんですけどね。所詮、子供でしかなかった、ということなんでしょう。……残念ですよ。貴女が完璧でいらっしゃらないのは、ご自分が一番よくお分かりでしょうに。ねえ、ディー様?」
私の素の部分である〝ディー〟を抉るように、ロゼは嘲り笑う。それは私がよく知るロゼではなく、まったく違う人間が彼女の体を借りて話しているように思えるほど衝撃的な光景だった。
「な、ロゼは、そんなこと、言わな」
「貴女のよく知る〝ロゼ〟ならそうでしょうね。まあ、よくここまで騙されていたと感心しますよ。あの業火の中、まだ十四歳でしかなかった少女が子供二人抱えて逃げられると本気で考えていたんですか? 同い年だったキース第一王子は巻き込まれて亡くなったのに? たかが一介のメイドに、そんな大それたことができると? ふふっ、馬鹿にもほどがありますよね」
つらつらとあげつらうロゼに私は声をかけることもできず、壊れた人形のようにただただ彼女の話を聞いていた。
彼女の言っていることは理解できる。けれど、どうしても理解したくないと心が叫んでいるのだ。
やめてよ、ロゼ。
私を驚かせるためなんでしょう?
そんな新手な悪戯なんてしなくていいから。
いいこにするわ、お転婆だって大概にするわ。
ねえロゼ、
……お願いだから、嘘だと笑って?
もう聞きたくない、と必死で耳を押さえた私を一瞥すると、ロゼはぽつりと溢した。
「……貴女と過ごした時間は、案外退屈ではありませんでしたよ」
うつむいた私に背を向け、扉から廊下へ出ていくロゼ。見慣れたその背がもう戻ってこないような気がして、さよなら、と言う彼女の声が聞こえた気がして、私はすがるように手を伸ばす。
そんな私の目の前で、扉は無情にも音を立ててぱたりと閉じたのだった。
***
「……盗み聞きですか」
後ろ手に扉を閉めたロゼは、壁にもたれて立っていたアルアレンにそう声をかけた。扉の向こうからはエディリーンの嗚咽が小さく聞こえてくる。
「ロゼ、一体何がしたいの? つまらない演技なんかやめてよ。こんなこと、姉さんは望んでないよ。姉さんにはロゼが必要なんだ」
絞り出すように口に出したアルアレンに背を向け、ロゼはうつむいたまま黙って立ち尽くしている。
「なんでまた、ロゼが背負わなくちゃいけないんだよ。どうして自分だけ悪者になろうとするの? 僕は姉さんと同じくらい、ロゼのことも大事だよ。僕らはもう子供じゃない。ロゼに守ってもらわなきゃ何もできないわけじゃないんだから」
ロゼの手をつかもうとアルアレンが伸ばした手は、パシン、と振り払われる。半身だけ振り返ったロゼは唇を噛み締めながらアルアレンをにらみつけた。
「じゃあどうしろっていうの!? 私が悪だとしたら、あの子は私を恨めるでしょう! 親や兄を殺した仇として!!」
「父さんたちが死んだのはロゼのせいじゃない」
「私が殺したも同然よ! だって、だって……ッ」
両手で顔を覆い、子供のように悲痛な声を上げるロゼは、その場に崩れ落ちた。手のひらの隙間からこぼれ落ちた涙が廊下に次々と跡をつける。
「……ロゼは悪くない。あの人さえ、あの人さえいなければ、姉さんもロゼも傷付かずにすんだんだ」
ロゼの背を撫でながら、感情の抜け落ちた瞳でアルアレンは宙を見つめる。その表情とは対照的に、握りしめられた拳にはうっすらと血が滲んでいた。
***
あの人は僕たちを愛してなんかいなかった。自分に都合のいい愛玩動物、くらいの扱いだったんじゃないかな。彼が欲しかったのは王家の血筋であることを表すのに最も相応しかった先祖還りの姉さんの瞳と、魔術国家セデンタリアの王家におあつらえ向きに生まれた僕の魔力だけ。最初から、彼は僕たちのことなんか見てなかったんだよ。それこそ自分が姉さんと同色の瞳を持っていて、魔力持ちだったら、僕たちのことだって切り捨てていたはずだ。
ロゼは姉さんを守ろうとした。今までの全てを壊してでも、姉さんの綺麗な思い出を守ろうとした。
でも僕は、姉さんを思うからこそ、本当のことを伝えなきゃいけないと思うんだ。
あの日。炎の中で狂ったように笑っていた姿が、今でも目に焼き付いて離れない。ロゼに命じた〝約束〟だって、全て仕組まれたことだった。
のうのうと、全部自分の台本通りに進むと思わないでよ。僕の大好きな人をたくさん悲しませたんだ。死んだなんて嘘をついて姿をくらまして。それで消えていたのならまだ許せたけど。……貴方はまだ姉さんを、ロゼを、これでもかというほど傷付ける。
だから、さ、
僕は貴方を許さないよ、キース兄さん。





