10.名前のない手紙
「あ、団長! やっと……あれ、エドワード?」
「エリスさん! えへへ、ここに来る途中で団長にお会いしたんです。僕も交ぜてもらってもいいですか?」
片手で団長の手をしっかり捕まえつつ彼を訓練場へと連行してきた。現れた私に、騎士団の皆が大きく手を振って近付いてきてくれる。
「おー、ついにエドと手合わせできんのな!」
「手加減しないぞ、本気で来いよー」
「当然ですよ! やるからには全力で勝ちにいきますからね!」
拳を握りしめると、団長が後ろから私の頭に手を置いた。そのままぽすぽすと軽く叩いてくる。
「でもなぁ~、エド、ちっちゃいから剣に振られるんじゃねぇか?」
「ばっ、馬鹿にしないでください! ちっちゃくなんかないですし!!」
そりゃあいつも鍛えている騎士団の皆には敵わないかもしれないけれど、私だってここで働くと決まってから感覚を取り戻すために必死で剣を振っていたのだ。
それに私に勝っていいのはネロだけだって決めているもの。いつの日か彼を倒すまで、私は誰にも負けたくない。
手合わせをお願いすると、騎士団の皆は全員一致でエリスを指名してきた。新入りだしエドとも年が近いから、らしい。「エリスは強いぞ~」なんて冷やかしてくる人もいたけれど、それはたぶん私が一番分かっているはずだ。
両手で剣を握りしめる私に対し、エリスは真剣な顔で剣を構えている。今回は私の実力も分からないので、「エリスの体に私の剣を含むどこかが触れれば私の勝ち」というルールだ。
つまり、普通の稽古とは違い、圧倒的に私が有利なシチュエーション。
「エリスさん、随分と余裕ですね」
「エドワードに負けてたんじゃ、ディーを守るだなんて格好つけられないからね。ハンデはつけるけど手加減はしないよ?」
「──っ、ハンデなんてつけたこと、後悔させてやりますよっ!」
審判役の合図とともに私は剣を下段に構え、エリスに駆け寄る。そのまま下方向から振り上げた太刀筋をエリスは難なく受け流した。剣と剣の触れ合う金属音が鋭く響く。私は彼の攻撃に備え、バックステップで距離を取った。
それから何度も攻撃を繰り返すも、どれもエリスに触れるどころか弾かれてしまうのがオチだった。彼の周りを回り続け、息を切らしている私と違い、エリスは試合が始まってからほとんどその場を動いていない。素人目に見ても実力の差は明らかだ。
試合開始から四分くらい過ぎたあたりだろうか、エリスは急に剣の握り方を変えた。
「このままじゃ、いつまで経っても終わらないからね。エドワードもその年にしては十分強いと思うけど、騎士に勝とうだなんて百年早いよ」
柔和な笑みを浮かべているものの、エリスのまとう空気が変わったのが分かる。ヴィスケリ領の稽古場で何度か見た、彼のスイッチの入った瞬間だ。
流れるような体の使い方に、舞い踊る剣先。初めて見たときには思わず見とれてしまったそれが、立ち尽くす私に向かって繰り出される。
見ていた誰もが、エリスの勝ちを確信した。
「ごめんね、エドワード。オレの勝ちだ」
空気を斬る音とともにエリスの剣が私の首筋に向かって飛んでくる。瞬間、剣を振り上げた彼の腕と私の間に小さな空間ができた。
(い、ま……っ!)
私は剣を手放すと、その空間目掛けて思いきり体をよじらせた。前屈みの姿勢のままエリスの横方向に体を投げ出す。
突然剣を地面に落とした私に驚いたエリスの隙を狙い、懐に入れていた万年筆を握りしめ、彼の首元へ先を突きつけた。
「チェックメイトです、エリスさん」
私と万年筆を二度見して目を瞬かせたエリスは、降参だと両手を上げると、思いきり笑顔になった。
「参った、まさかペンを使うだなんて思わなかったよ」
「エリスさんに触れるのは剣じゃなくたって構わないんですもんね! えへへ、頭脳戦の勝利です」
彼の太刀筋は間近で見ていたから、よく分かっていた。試合が長引けば、きっとエリスは一撃で私を倒そうとしてくること、そして首筋を狙いに来るであろうことも。
試合で剣を手放すなんてことは普通ではありえないけれど、今回のルール、そして私と彼の実力差ならこれが最善の手だったのだ。
「これこそ、ペンは剣より強し、ってやつですね!」と胸を反らせれば「なんで物理に走っちゃうかなあ」とエリスが呆れて肩をすくめた。
駆け寄ってきた騎士団の皆は揃いも揃って驚いたようだった。しきりに私のことをつついてくる。賑やかな試合後の雰囲気の中で誰かが唐突に口を開いた。
「何かさー、エドの戦い方は一騎討ちっていうより不意討ちとか防衛用だよな。あれが戦場ならグサリと殺られてたぜ」
「それ俺も思った。なんか、騎士っていうより暗殺者っぽい?」
「え、ちょっと待ってください、それ褒めてます? けなしてます……?」
ガハハと笑う皆に囲まれ、なんだか馬鹿にされた気がして私は頬を膨らませた。それすら「栗鼠みたい」だなんて言われて潰されるんだから、皆には到底勝てそうにない。
「でも小姓は何かあったときに王子のことを守らなきゃいけないんでしょ? なら、そのほうがいいとオレは思うけどね」
「エリスさん優しい! 皆さんもほら、この優しさを見習ってください! 僕、泣いちゃいますよ!?」
騎士団の皆とふざけ合っていると、不意に刺すような視線を感じた。不思議に思って振り返るもそこには壁に背中をつけている団長しかいない。目を細めてみても、彼は剣の柄をいじりながらじゃれ合う私たちを微笑ましげな顔で見守っているだけだ。
(まさか、ね)
さっきの視線は団長のものではないだろう。視線だけで射殺せそうなほどの殺意を込める理由なんて、彼にはないはずなのだから。
胸の奥で鳴った警鐘を、私は聞かなかった振りをして無理やり閉じ込めたのだった。
エリスとの対戦のあと、騎士団の皆とも手合わせをしてもらった。稽古用だからエリスとのときとは違い、真剣ではなかったけれど、久しぶりに体を動かしたからか、とても楽しかった。
汗を拭いながら騎士団の皆に礼を言い、訓練場から立ち去る。まだここにいたいのはやまやまだが、これ以上剣を振っていたら明日筋肉痛になって仕事どころではなくなりそうだ。それに稽古を提案してくれたルシフェルさんのもとへも今日中に顔を出しておきたい。
彼はまだ執務室にいるだろう。その前に一度部屋に戻って着替えたかった。運動してきたのだから当然といえば当然だが、今の私はかなり汗臭い。いくら男装しているとはいえ、私も花の十七歳。時間があればシャワーも浴びたいと思うのが乙女心、なのだ。
(でもまあ、少し引っ掛かることはあったけれど……)
訓練場で感じた視線の正体は、あのあとも分からずじまいだ。一度は疑った団長も、そんな素振りはまったく見せなかった。
(あの殺気……かなりの手練れよね)
並の人物ではないことは確かだ。もし暗殺者か何かだとしたら騎士団の皆も気付いているはずだから、見逃すなんてことはありえないだろう。
そして何より。──あの視線は私に向けられていたのだ。騎士団の他の誰でもなく、あの中では一番弱そうに見える〝エドワード〟に。
「新種の嫌がらせ……にしては度が過ぎる、か」
スープ事件の縦巻きロールことアルミラさんたちの姿が一瞬頭を過ったが、その確率は限りなく低そうだ。どこぞのお嬢様にそんな殺気が出せたのなら、かなり複雑な出自をお持ちなはずだろうし。
うんうんと唸りながら歩いているうちにあてがわれた部屋の前に辿り着いていた。ドアノブに手をかけようとした私は、扉の隙間に何かが挟んであることに気が付く。それを片手で引っ張り出し、部屋の中に入った。
差出人の書かれていないその手紙は厳重に糊付けされており、さらには丁寧な字で「エドワードさんへ」と表書きされている。
どこからどう見ても私宛の手紙だ。
「先にシャワー浴びてこよう」
手紙を机に置きっぱなしにしていたユーナ・ココットの小説の間に挟む。そのまま汗で蒸れていた鬘を外して姿見の横のチェストに置き、少々乱雑に脱ぎ捨てた上着を椅子の背に掛けると私は浴室へと急いだ。
コルセットベルトを外し、まとめていた髪をほどく。浴室の鏡に映る私は紛れもなく少女の姿をしていて、この数日間で慣れてしまったエドワードとしての自分の姿との違いに少しだけ戸惑ってしまう。
仕事に追われ、くたくただった日々の中では一秒でも早く眠りにつきたかったため、あまり浴室に長居することはなかったのだ。
「こうしてみると、私もちゃんと女の子なのよね」
周りにいる王子やルシフェルさん、そしてアルフレッド団長やエリスをはじめとした騎士団の皆。彼らと比べると小柄で、可愛い部類に入るエドワードだけれど、彼はれっきとした少年だ。浴室の鏡に映る自分の姿を見て、そのことをまざまざと思い知らされる。エドワードは決して、私の全てではないのだ。
もしかすると私は知らぬ間にエドワードにのみ込まれかけていたのかもしれなかった。それほどまでに彼が私になじんでいた、といえば、目的を果たすためには有利と言えるのだろうけれど。
小さく息をついた私はシャワーの鎖に手を伸ばす。今までは自分の意思で演技をしてきたし、何よりストッパーとしての役目をしてくれるアルたち家族がそばにいた。いつの間にか素である私よりも優勢となっていたエドワードに、恐怖にも似た感覚が襲ってくる。
完璧な令嬢として仮面を被っているときよりもエドワードのほうが、随分と自然体でいられるのが問題なのだろうか、とふと思い巡らした。
いつも私を気にかけてくれる騎士団の皆、そして仲良くなれたディフルジア王女。皆から呼ばれる名前は、私であって私ではない。嘘で塗り固められた今の私が一ヶ月が経った後、また彼らと笑い合える保証なんてない。それが当たり前だと思うと同時に少し寂しく感じる。
自分の存在を確かめるように私は勢いよく石鹸を泡立てると体を洗い、汗を流す。汗ばんだ肌を伝う熱いお湯がなんだかとても心地よかった。
浴室から出て部屋着を被った私は、手についていた水滴を拭き取ると手紙を手に取った。ペーパーナイフで封を開けた途端、中から小さな火花がパチパチと飛び散った。
「なにこれ、魔法!?」
今のは間違いなく炎の下級魔法だ。封筒は魔封じが施されていたのか魔力は感じなかったけれど、中の便箋からは魔力痕が感じられた。
便箋を開くとキラキラと舞う小さな光の粒が書面をなぞり、文字を記していく。それを視線で追い、続けて中身に目を通した。
エドワードさんへ
初めまして。食堂での出来事を目にして僭越ながらお手紙を書かせていただきます。
あの場にいた一人として、あのご令嬢方を止めることができず、貴方には本当に申し訳ないことをしたと感じています。
臆病者の私にはあの方たちを止めることも、一人残された貴方に手を差し伸べることもできませんでした。本当に、本当にごめんなさい。
でも、これだけは伝えたいのです。私は貴方の味方です。こんな手紙ではなくて本当は直接お会いして告げたかったのですが、あいにくそれはできそうにないのです。
かなり不可解な手紙だった。ここ、ステンターで魔法が使われた手紙なんて見たことがなかったし、何より差出人が書かれていない。差出人は、素性を隠したいのだろう。
頭をひねっていると炎の魔法のためか、記された文字は赤い光を含みながら鼓動のように波打った。その光景に見覚えのあった私は、文字を指で辿ってみる。
案の定、手紙から文字が浮き上がってきた。空中で絡み合わさり熱を持ったその塊は、鋭い光を放つと私の手に落ちてくる。開かれた手のひらに載っているのは、小さな紅い宝石だった。
「これって」
護石。多大な労力を要するため、魔力持ちでも限られた者しか作れない魔力の結晶だ。所持者の危機を察知すると砕ける代わりに身を護ってくれる力があり、魔術国家である私の母国セデンタリアでは昔から、戦争に向かう恋人の無事を祈り、出発前の愛しい人へと贈る風習がある。
また、炎に包まれたセデンタリア城で私を護って砕け散ったのも、その年の誕生日にアルから贈られた護石だった。
「なんで、護石……?」
幼い頃、アルやキースお兄様と手紙をやり取りしていたとき、アルはよく便箋に魔力を込め、今のように中に贈り物を忍ばせていた。野原で摘んだ花や玩具の指輪。キースお兄様への手紙には、アルに手伝ってもらい、私が刺繍したハンカチなんかを入れたこともあった。
文字の波打つ光景に思わず指を滑らせたものの、まさか護石が出てくるだなんて思ってもいなかった。この書き手は心から私を案じ、その気持ちを手紙に託してくれた。贈られた紅い宝石からは、そのことが切に感じられる。
私は名前すら分からない手紙の向こうの炎の魔力持ちの相手に感謝しながら、護石を押し抱いたのだった。





