起
《発車いたします。閉まる扉にご注意ください》
プルルルルル―――
機械に通された男の声と耳障りな電子音がスピーカーを通され、ホームに鳴り響く。
電車の扉は閉まり、外から入ってきていた清涼とした風は遮られ、乾き切った温風がクーラーから流れ込む。
煙草の匂いが車体にきつく染み込んでおり、頭を鞄に被せながら寝ていた男が顔を上げて欠伸をすると同時にむせ返り、しばらくの間、いがらんだ喉を押さえていた。
レールの上に置かれたその鉄箱は、僅かに揺れてゆっくりと歩み始め、人の身体は僅かに傾く。
「……あと、どのくらいなんだろう……」
その電車の中、窓枠に肘をかけた少年が、右へ右へと流れていく窓の外を、ボーっと虚ろな眼で眺めながらポツリと呟く。
そして、その少年のことを、じっと見つめている者がいた―――それは、この電車の車掌だった。
少年がこの電車に乗って一時間が経つ。しかし、彼は今の今まで流れ行く風景から、その空虚で、意思の一欠けらも垣間見えない目を、一瞬たりとも離さずに眺め続けていた。窓の外には雑居ビル、工場、マンション、軒を連ねた一軒家―――およそ見て面白いといえるものではなかった。
車掌は席を外し、一通りの事務作業を終えて戻ってみると、やはり彼は肩肘を窓枠にかけ、頬杖をついたまま、半眼で外を見続けていた。
車掌は彼のような人を、今まで何人も見たことがある。だから嫌な予感を抱かずにはおれなかったし、声をかけずにはいられなかった。
「やぁ、少年。外を見るのが好きなのかな?」
しかし、聞こえなかったのか、彼は何の反応も見せてくれない。
「君、君だよ。そこの、窓を見てる」
もう一度声をかけると、少年はやっと自分に声が向けられていることに気付いたのか、目だけを動かして彼を見る。
「そう、君だよ。さっきからずっと窓の外を見てるけど、景色を見るのが好きなのかな? それとも窓を見るのが好きなのかな?」
「……どっちも好きじゃない……」
軽くジョークを絡めた自分の言葉に、真面目に返してくる少年に、車掌は少し、驚きを覚えた。それでもそれを顔に出さず、帽子を取って少年の席の前に中腰になる。
「そうかそうか。じゃあなんで窓の外ばかり眺めているのかな?」
もう興味を失ってしまったのか、自分から目を離し、また窓の外を見始める少年に問いかける。
少年は鬱陶しそうに重たく息を一回吐いたが、
「お別れしてるんだ。この風景に……もう、二度と見れないから……」
消え行きそうなか細い声で問いかけに答える。
「そうか……どこか、旅行の帰りかな?」
自分で言っておいてその線は薄いと彼は思った。少年の持ち物らしきものは財布、それだけ―――替えの服や日用品などが詰め込まれたバッグのようなものは見える範囲でない。旅行にしてはどう考えても身軽すぎる。
「君、その財布以外に持ち物はあるのかい?」
少年の目の前、折り畳み式の小さな机の上に無造作に置かれた財布を指さし、彼は言う。
少年は財布を一瞥し、少し横にずらしてその下に置いておいた一枚の小さな紙きれを摘み取る。
「この片道切符、それだけあればもう後はどうでもいいよ……そうだ、何ならこの財布、お兄さんに上げるよ」
切符をズボンのポケットにしまい込む少年は、自分の財布を車掌に渡す。
一瞬戸惑ったが、少年が、どうやら自分が取るまで手を引っ込めない様子だと悟ると、車掌は諦めてそれを手にした。
試しに財布の中身を覗き込んでみた。今どきの若者はこれほどに持ち歩いているのかと疑ってしまった。
「き、君、何のためにこんなことを……」
「別に大した理由はないよ……」
その空虚な言葉と声に車掌は、自分の嫌な予感が当たるかもしれないと感じた。しかし、どこか納得できない自分がいて、彼は平静を装って問い続ける。
「そんなことを言っても、帰りの切符はどうするんだい?」
「……別に帰りの切符なんて買えなくてもいいですよ。それに、その方が決心も付きやすい……」
もはや、自分の考えを否定できなくなったことを確信した彼は、少年に聞かざるを得なくなった。
「……君は一体、どこに行くんだい?」
依然、窓の外ばかり眺めている少年の横顔に問いかける。
予想が外れることを祈った。その予感だけは当たってほしくなかった―――だが。
「……芝崎峠だよ」
予感は当たってしまった。予感は外れなかった。僅かに空の方へと視線を移した少年の声に、彼は心の中でうめいた。
芝崎峠駅、そこは別に目立った物もない、人気のない、寂れた駅だった―――つい最近までは―――
つい最近、その駅の近くにある芝崎峠が自殺の名所と化し、今では週に1,2人の、特に若者の自殺が確認されている。
こういう事情から、この下野手線の関係者は、芝崎峠駅のことを忌み嫌ってこう呼んでいる。
『人生の終着駅』と――――