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輪温、振り返る過去のこと。

 もし、これが僕の物語なのだとしたら、僕はまず自分のことを語らなくてはならない。僕が何処の誰で、どんな人間なのか。そうでなければ、僕の物語は始まらないのだろう。

 だがしかし、そんな説明はどうでもいい事なのではないかとも思う。一から十まで、親切丁寧に説明された物語ほど、つまらないものはないんじゃないかという僕の考えのもとに、物語を始めたいなあと思う次第だ。

 自分のことも教えずに始まるなんてそんな不親切な話、誰が読んでやるか。そう思ったのなら、今すぐ読むのをやめても構わない。

 多分、多くの人がそうするだろうし、きっと僕がそちら側だったとしてもそうする……かもしれない。

 さて、これは紛うことなく僕の物語だ。だから、始まりも僕が好きに選べるのだ。どこから始まってどこで終わるのか。ひょっとしたら、いきなり変なところで終わるかもしれないし、いつまでも長々と続くのかもしれない。そんなこと今は分からないけれど。

自分で選んだ始まりだ、だけど僕は本当にこの始まりが嫌いだ。思い出すだけでも、歯がカチカチと音を立て始めるし、叫びだしたくなる。

 平気だと思っていたけれど、やっぱり僕は怖かったという事になるのだろう。

 それなのにどうして始まりをこの場面に選んだのか。それには、幸せになるため、というのが一番手っ取り早い説明になってしまう。

 多くの物語は、幸せになる、というために動いているのではないかと僕は思うのだ。勿論、例外はあるだろう。すべてがそうである必要はない。けれども、圧倒的に最後は幸せに終わる物語の方が多いだろう。

 だから僕も、多くの物語がそうであるように、幸せに向かって話を進めていこうと思ったのだ。そのために選んだ始まりだ。

そんな僕が語る物語の始まりの場所は、小さな世界だ。子供一人が大の字になる事さえできない程の、本当に小さな世界から、僕は僕の物語を始めたい。 

ベランダで膝を抱えて小さく丸まっている僕が、物語の主人公──。



「やっぱり慣れないや……」

 今日も、僕はこうして夜のベランダで一人きり、膝を抱えて小さく丸まっている。

 ぽつりと漏らした心の声だけが、僕の耳に聞こえる音だった。それ以外には、全く無音。

 明り一つないこのベランダは、僕に与えられた部屋であり、唯一居ることを許される場でもあった。

 雲隠れした月のせいで、僕は僕の手でさえもはっきりと見分けることができない。

 ひょっとしたら、もう無いのかもしれない。

 ベランダには物置が一つと、教科書が入った段ボール、それからどう見ても何の役にも立ちそうにもない壊れたいくつかの雑貨だけが置かれている。

 畳二枚半程の広さしかないベランダに作られた、僕の場所。この決して広いとは言えない場所で、僕は段ボールとそれに詰められた役目を終えた教科書等とともに日々を過ごしている。

 言ってしまえば、段ボール数個で収まるほどに小さな僕の世界。

 その僕の世界に、程なくして冷たい風が容赦なく入り込んでくる。ベランダにあるのは屋根と柵ぐらいなものだから、風と、時には雨や雪なども入り込んでは僕の世界を好き勝手に蹂躙していく。ようやく聞こえた僕以外の音だというのに、僕の気分は一向に良くなろうとはしなかった。

 礼儀を知らない風は、使わなくなった教科書を段ボールに詰めて作った机、時には椅子代わりにもなるその上蓋を掴んではわがままな子供のように揺らす。

 一度、二度、三度……。

 躾のなっていない子供のように、一度でも僕の世界で好き勝手に暴れる風の仕業が目に入ってしまうと、目を瞑ったとしても音が響いてしまう。それに気を取られないわけがなく、僕は仕方なく腕を伸ばして、ランドセルに手を伸ばした。

「うるさい……」

 傷だらけの、くたびれた黒いランドセル。僕がたった一つだけ持っている鞄。

 明日使う教科書を詰めこんだ、それなりの重さのランドセルをおもり代わりとして、段ボールの上蓋に投げつけるようにして動かないように固定すると、僕はベランダの手すり壁に体を預ける。

 手すりから見える風景は昨日と変わることなく、どこにも逃げられはしないんだといわんばかりに、マンションが密集している。

 これは檻だな、と僕は今日もいつも思う。

「灰色や茶色で空高くそびえ立ったマンションでできた檻。僕をこの場所から逃がさないための檻。僕がどこにも目を背けられないようにするための檻だ」

 ははは、と小さく笑ってみると、口から吸いこんだ冷たい空気で僕の喉が冷やされてしまい、小さく咳き込む。

 あわてて席を押し殺し、僕は窓の方に目を向ける。

 大丈夫、気付かれていない。

 ほっとした僕が檻の中から見えるマンションには、どれも明りが灯っていて、だからこそ余計にみじめな気持ちになる。

きっと。きっとあの明りの灯っている部屋の中は暖かいに違いない。

外はこんなにも寒いのだ。冷えた部屋を暖めようと、もしかしたら暖房が付けられていて家族が団らんしているのかもしれない。

 これらはすべて僕の想像でしかない。けれど間違いないのは二月の寒空の下で、風や気温でカチカチと不規則に歯を鳴らすことはないに違いないということだ。

 ひょっとしたら僕と同じぐらいの子供がいる家もあるかもしれない。多分、そのどの家にも僕のようにベランダで夜を過ごしている子供はきっといない。

 僕はこうしてベランダで一人じっと耐えているのに、顔も知らない誰かはぬくぬくと過ごしている。そのことが僕の気持ちをざわざわとさせる。

 しばらく止んでいた風は、轟々と音を立て再び吹き始める。すると、その風に乗せられてどこかの家の温かな気配を纏った夕食の香りが漂ってくる。温かな家族がそこかしこに居るという事を嫌でも感じさせてくる、そんな夕食の風。

 こんな時、いつも僕は自分の鼻が人よりもいいらしいことを恨む。こんな長所よりも、もっと誰もが持っている普通が欲しいのに。

 一向に途絶えることの無い風のせいで伝えられるどこかの夕食の香りは、せっかく忘れてかけていた空腹を僕に思い知らせる。

 ほぼ一日一食になってから、今日で何年目になるのだろうか。動物は数日空腹でも生活していけると本で読んだことがあるが、今の僕と同じように空腹を抱えながら生活しているのだろうか。それとも、数日間は小腹がすいた感覚で生き続けているのだろうか。

 そんな疑問が湧いてくるが、いくら考えたところで空腹を抑めることなどできやしない。そんなことを考えながら、僕はギザギザになってしまった自分の爪を噛もうとして、歯が噛みあう音で目を凝らす。僕の爪は、既に噛みすぎて、噛めるところなどなかった。僕の爪には、もう白い部分など残ってはいなかった。

 しかし、咀嚼することだけでも一時空腹を忘れることができることは分かっているので、痛みをこらえて指を噛む。

 さらに言えば、痛みは、寒さを一時だけ忘れさせてくれる。しかし、どうやっても空腹は収まることは無い。

 実際に食べているわけではないのだ。どうやってもお腹は膨れはしない。

 いっそダンボールでもお腹いっぱいになるまで食べてみようか。

 疑問をどうにか押しやった僕はふと思い立ち、先ほどおもりをした段ボールに目をやる。

 何年もベランダに置かれ続けたその過程で、雨や雪などで濡れてはベランダの汚れを付着させたそれは、いくら空腹だとはいえおいしそうには見えなかった。

 所謂紙なのだ。おいしいわけもない。

 では、内蓋の役割を担っている部分はどうかと思った僕は、膝を抱える手を誰が見ているわけでもないのにおどおどと伸ばしかけて、止める。

 どれほど空腹に見舞われても、段ボールは食べ物ではない。どう見ても食べ物にはなりえないのだ。

 実際、段ボールは二度も食べたいと思わせるものではなかった。空腹時であってもおいしいとは言えないパサついたその紙は、僕の唾液だけでは飲み込むこともできない。なぜなら、口の中の水分は段ボールによってほぼ吸われてしまうからだ。そして一口飲みこむごとに、唾液を失った体は水を欲する。

 僕の場合、段ボール一口に対しての水の消費量は、おそらくペットボトル一本では足りないのではないだろうか。

 ここでは水も貴重なもので、雨か雪が降っているときにしか手に入らないことから考えても、再び段ボールを口にすることはその場しのぎにもならない。溜めて置けるのは小さなペットボトル一本分。これではまた別の飢えに苦しむだけだ。

 水に関して言うならば、今は冬だからあまり体は水分に貪欲ではないが、これが夏にいなったら熱くて水分が無い事に苦しむことになるのだ。

 そういうわけで、ベランダ暮らしは一年中、一日も欠かさず何かしらにおいて飢えている。常に万全な状態ではない。

 そう考えると、この段ボールでさえも僕の狭い世界においてとても貴重なものであるという事を忘れてはいけないのだ。考えれば考える程に、段ボールを食べようなどという気は次第になくなっていく。

 食欲もなくなっていくけれども、空腹は一向になくなってはくれなかった。

 そうこうしている内に、風は反応を示さない僕に興味を失くしたのか向きを変えてどこかの夕食の香りは空中へと霧散していった。そして僕の鼻には、冬の冷えた空気だけが届けられるようになった。

 冬の気温で冷えた床は、まるで僕自身の命を欲しているかのように、貪欲に僕から体温を奪っていく。夜風は僕を殺したがっているようで、ひっきりなしに体を刺すかのように気まぐれに強く吹き始めた。

 寒さに耐えきれない空腹の僕が吐いた息は白く、暗い風景に舞い上がっては吸い込まれて消えていく。

 一瞬、本当に一瞬だけれど、僕も僕の吐いた息のようにあっという間に、それこそ誰にも気づかれることなく消えることができたらいいのに、と考えるのもまたいつものことだった。

 別に、死にたいわけでもない。

 ただ、昨日と同じ今日だったように、明日も今日と同じように時間が過ぎていくのだとすれば、僕は消えてしまっても何も問題はないんじゃないか、誰も困りもしないどころか気にも留めないんじゃないかなって、そう思うだけだ。きっと僕の代わりの誰かは必ず存在していて、僕が居なくなった部分をその誰かが埋めてくれるに違いないのだ。

 けれどきっと、もしも僕が本当に死んでしまったら、お父さんもお母さんも悲しむんだろうなって思うから、僕はこうして今日もベランダで朝を待っている。いつものように、気が付いたら朝であることを、寒さと空腹と一緒に待っている。

 そんなこんなで、僕は今日も生きているのだ。

 冷えた固い床で小さく丸まっている僕は、悴む手で、伸ばしすぎてよれよれになっているパーカーの袖をまた伸ばしては手を包む。寒さに震えながらも、膝を抱え、体温を少しでも逃がさないようにとなるべく小さく縮こまる。そしてそのままなるべく動かないようにしてひたすら耐える。

 何度となく体験した冬のベランダで、それでも暖かさを感じることのできる気がする、数年間この環境下に身を置いてきた僕なりの知恵だった。

 もう何年も一緒に過ごしてきたパーカーは、本当であれば僕の体に合う大きさではないはずなのに、僕があまりにも大きくならないから、依然としてちょうどいいを保っている。それでもずっと着続けたパーカーは、十分に汚れきっている。既に元の色がなんだったのか、長い時間を共にしてきた僕にすら、わからない程に。

 けれどどれだけ小さくなっても、僕の歯は、今日も鳴りやまなかった。

 だけど、考えようによってはこのベランダもまだましな環境なのかもしれない。

 もしも手すりの柵だけだったら、きっと僕はもっと風に刺されていて、預けた体もめり込もうと抵抗する柵で痛めているかもしれなかったから。たとえなめらかな表面ではなくとげとげしている壁だとしても、手すり壁があれば、横からの風雨は防げるし、ぴったりと寄り添うことで僕の体温によって温まっていき、温かく感じられる。

 それに、今日は雨も雪も降っていない。だから今日はベランダで過ごすにはまだまだ優しい日だと思う。

「……ん、痛い」

 少しばかりの幸福感にふと空を見上げると、好き放題に伸びてはあっちこっちに跳ねまくった僕の茶色っぽい黒髪がちくりと目を刺す。

 目に髪の毛が入るのは痛いけど、こんな日には髪も長くてよかったなと思う。

 僕の前髪は僕の目を隠すほどに長く伸ばされていて、何かを見る分には邪魔をするけれど、それがまた少し寒さから守ってくれている。だから、筆箱の中のはさみで僕はこの季節髪の毛を切ることはしない。

 大丈夫だ。僕は、最低な状況にはなっていない。

 これはお父さんとお母さんが僕のことをちゃんと守ってくれている証拠に違いない。

 きっと明日の朝になったら今日の朝みたいに、カーテンが開けられてその次に窓が開く。多分お父さんがフードの部分をつかんで、投げ込まれるようにして部屋に入って。そうして僕は、風に刺されない暖かい部屋のありがたみを知ってから学校に行くんだ。

 だからと言って、僕は学校が好きなわけでもないけれど。それでも教室はいい。今の季節だと、僕が登校する頃の教室ではエアコンが付いていることが多くて、暖かい。それに椅子に座っていられる場所が与えられているから。それだけが僕が学校に行きたいと思う理由であって、ただそれだけだった。

 勉強が楽しいとか、友達と遊べるとか、そんな感情はそこにはない。

 どうせ学校に行ったところで、今日と同じような明日になるだけだから。

 僕が学校に行くこと自体に全く意味なんてないけれど、昼休みに図書室に行くのは良いかもしれない。

 暖かい部屋の中でどの本であってもぼくが触れることが、読むことが許されている。

 授業でわからなかったこと、教科書で読めなかったところを教えてくれるのも本だけだし、僕がつらいことを考えないように助けてくれるのもまた本だ。

 そんな本の中ではどんなつらいことがあっても必ず勇者やヒーローがいて、彼らがなんとかしてくれる。彼らなら全てをなんとかしてくれる。

 そして、どんなつらい事が起こったとしても、最後は皆が笑ってめでたしめでたし、だ。

 現実では、誰も僕に手を差し伸べてはくれないけれど。

 現実では、誰も僕を皆に含めて笑ってはくれないけれど。

 それでも本の中だったら、僕は世界の常識を覆すような大発見も、誰も知らなかった景色を見つけることもできる。時には勇者と呼ばれて世界を救うことだって、町に襲い掛かる悪を頼れる仲間と一緒に守ることもできる。

 なんにでも成ることができて、僕にできないことなんて何一つとしてない。

 僕が望んでそういう本を手に取るならば、家族と楽しく過ごすことだって、できてしまう。

 そう考えると、僕はちょっぴり、本当にちょっぴりだけど、明日が楽しみになる。

 明日図書室に行けるかなんてわからない、けれど。

 そうこうしている内に僕は意識を失って、次に気が付くのは太陽が昇って少しだけ暖かくなってからだ。

 きゅるう、となった僕のお腹の音でさえ、もうこの時の僕の耳に届くことはなくなっていた。



 勘違いはしないでほしい。何も昔から、僕がこんな生活をしてきたわけではない。

 僕の家族を想像しようとするならば、どこの家にも貼ってあるような、幸せいっぱいの家庭の居間に貼ってある、子供が描いた家族の絵を思い浮かべてもらえばいい。

 丸くて大きく、あるわけないのににっこりほほ笑む太陽と白くもくもくと柔らかそうな雲が画用紙の上いっぱいを占めていて。その下にあるのは、ひょっとしたら一軒家かもしれない。もしかすると、どこかに出かけた際の記憶が強く刻まれた風景かもしれない。

 そんな空の下で、そこに描かれた自分はにっこり笑っている。大きく口を開けているのかも。隣には優しくきれい、だけど怒ると怖いお母さん。大きくてかっこいい、いつも遊んでくれるお父さん。君の家にはその他にも兄弟や姉妹がいるかもしれない。

 そうだ、忘れてはいけない大切な家族としてペットの姿も描き加えられているかも。

 どこの家にでもあるような、幸せそうな家族の一日を切り取ったそんな一枚の絵だ。

 それが僕の家族の姿を紹介するのに一番わかりやすく、伝わりやすい、簡潔な説明だと思う。

 僕も、昔はそんな家で育っていたのだ。

 今では見る影すらないかもしれないけれど。

 似ても似つかないかもしれないけれど。

 そんな僕の家にも例に漏れず、僕が幼稚園の頃に描いた絵が居間に飾られていた。

 僕が描いた、お父さんとお母さんと僕の絵。

 小さな一枚の紙に描かれた幸せな家族。

 夜は三人、川の字で寝て。

 夜中に目が覚めると、大概僕に掛けられた布団は、僕が夢の世界に旅立つように、どこかへ旅に出てしまっていた。きょろきょろと見渡す寝ぼけたままの僕は身近な布団にもぐりこんで、それに気づいたお父さんかお母さんにぎゅっと抱きしめられてから、もう一度目を閉じる。それだけであっという間にもう一度夢の国へ。

 もぐりこんだ布団がお母さんだったときは、朝ごはんの準備で起きるのにつられて僕も一緒に起きてお母さんに教えてもらいながら朝ごはんを作る。お父さんだったときには遅刻ぎりぎりまで一緒に布団の中で寝ている。

 僕の誕生日には、お母さんは朝から料理と飾り付けに動き回って、お父さんは必ず早く帰ってきてくれた。僕の好きなチョコレートのケーキと一緒に。僕はといえば、学校に居る時からそわそわして落ち着かずないことを先生に注意されてしまったこともあった。待ちに待った夜、僕は三角のパーティ帽子をかぶって、毎年一本ずつ増えていくケーキの蝋燭を消そうと躍起になっていたことを思い出す。いつもなぜか一本だけ残ってしまう蝋燭に僕は更に大きく息を吸って吹き消そうとしたことも。渡されるプレゼントに大げさなくらいはしゃいだりもした。そんな僕の姿をビデオに収めるお父さんとうれしそうに見ているお母さんと過ごした。

 夏休みには海に行って泳ぎ方を教えてもらったり、三人でかき氷食べたり。そういえば、僕がまだ紐をうまく結べなかった頃、お父さんがやってくれるって言ったのに、僕が意地を張ったせいで、海から上がったとき水着がすとんと足首まで落ちたのは恥ずかしかった記憶も、まだ僕にとっては新しいものだ。

 クリスマスには、クリスマスツリーの下に置いた僕のサンタさんへの手紙をちらちらと気にしつつ、僕はサンタの赤い服と帽子、胸まであるひげをつけてはしゃいだりもした。

 お母さんは料理が上手だったから、夜ご飯の時出てきた鳥の丸焼きにお父さんと僕は毎年声をあげて喜んだ。それをお父さんが切り分けてくれる。手と口の周りをべたべたにしながら僕たちはそれを食べた。

 それから僕の大好きな戦隊のクリスマスケーキ。食べ終わったら、急いでお風呂に入って、歯磨きして明日を楽しみにすぐに寝ていた。次の日の朝はクリスマスツリーの下にきれいな包装紙で包まれたプレゼントが置いてあって、朝から大喜びで一日過ごした。

 記憶にあるのは何も特別な日だけではない。何もないいつもの一日でも、家族三人でそろって食べる夕食があれば僕は満足だったと思う。今日はこんなことがあって、友達とどんなことして、それで僕はどうだったとか。お母さんは家でこんなことをしたとか、お父さんは朝こんなことがあったよなんて話もよくしていたと思う。

 それに──そうだ。お父さんとお母さんは、僕に何かを教えてくれるのが上手かった。僕が疑問に思ったことには、すぐに答えを教えてくれるんじゃなくて、自分で考えて納得のいく答えを出せるように道を整えてくれたりもしてくれた。その道もきちんと舗装されたものではなくて、荒削りの、そこから別の疑問にも繋げられる様に通れるようにだけしてくれた道だ。

 もう思い出せない事、既に忘れてしまったことも含めて、すべてが幸せだったと思う。けれどその幸せが幸せだったと思うのも失ってから、だ。

 あれもこれも、そのすべてに僕の小さな手が届かなくなったことで確かに幸せだったと今の僕は知ることができる。

 幸せな時にこそ、幸せに気が付かないのは僕が子供だったからだろうか。子供は、自分が幸せかどうかなんて考える暇があったら遊んでいると思うから。そうして幸せに気付かずに通り過ぎたその道の先が、このベランダになる事にも気が付くことなどなく。



「ん、ぐぅ……?」

 いつもよりも早く──と言っても最近は寒さで早く起きているだけだけれども──目が覚めた僕は、夢か走馬燈のどちらかはわからないけれど、唐突にそんな昔を振り返って、やっぱり、あの頃は幸せだったんだなと思った。

 僕は幸せだなと思っているのではない。思ったのだ。

 齢十二にして振り返った過去、どのときも僕は笑っていた。ひょっとしたら寝ているときでも僕は笑っていたのかもしれない。

 写真に写る僕は笑っていないのを探す方が大変だったと思う。まぁ、わざわざ泣いている子供の写真を残すこともないだろうからそんなことは比較にならないかもしれないけど。 

 少なくとも三年前までの過去の僕はいつでも笑っていた。

 毎日きちんと洗濯された服を着て、三食欠かすことなくご飯を食べて、友達と時間ぎりぎりまで遊びまわって、帰ってからはほんのちょっぴり勉強もして。

 そのどれもが既に僕には遠い物になっていた。今の僕にはもう何一つとして持っているものはない。

 そんな僕でも、流れる時間だけは皆と同じようでその時間分だけ成長してしまった僕は、気づけば来月には小学校の卒業式だった。

 僕は中学生になることができるのだろうか。

 きっと、お父さんもお母さんも僕に中学校の服をくれないだろう。

だって、服を買ってもらったのはうんと前だし、そもそも僕のために使うお金があったらもっとほかのことに使ってるはずだ。でも、中学校の服のために僕の服を前に買ったのはうんと前なのかもしれない。

 そんなあるわけない夢を見て、僕は黒い服を着た自分を想像してみる。でも、どうやっても僕が黒い服を着てる姿は僕には思いつかなかった。靄がかかったように全く想像できないのだ。

 そんな中でも想像できたのは、いつまでたっても、薄汚れていて、そして一人ぼっちでいる僕の姿だけだった。

 僕は中学校にもこの服のままで、ランドセルで通うことになるんだろうか。

けど、僕はそんな中学生を見たことはなかった。

 下校中にたまにすれ違う中学生たち。友達と一緒に帰っていて楽しそうに笑いながら帰る姿。僕と頭一つ分以上も離れているその姿は僕にはちょっぴり怖くも見えたけれど、それよりもかっこよかった。羨ましかった。

 こっそり見上げたお兄さんたちの顔は、全員が全員僕にはもうできないような笑顔で歩いていた。そんなお兄さんたちが着ていた黒い服もカッコいいなと思ったし、僕も着てみたいなって思うけれど、袖を通すことはないに違いない。

 それに、僕があの黒い服を着たところで一緒に帰ってくれる友達は、隣を歩いてくれる友達なんて誰一人いない。

 そうだ、僕の隣に立って、明日には忘れているくだらない話をして帰ってくれる友達は、誰一人としていないのだ。

 この三年で、すっかり変わった僕を取り巻く環境に僕は適応せざるを得ず、結果として色々失くしたんだと思う。失くさざるを得なかったんだろうと思う。

 そんなわけで、今日も世界は、僕の持っていない物をたくさん見せつけてくる。

 あれもあるよ、これもあるよ。けれど君にはどれも手が届かないね。そうだ、それじゃかわいそうだから遠くから見るだけなら許してあげるけどね、と。

 世界はひどく汚れて見える。灰色に染まった街並みだ。

 けれど、僕は知っている。

 この世界で、本当に悪いのは世界じゃない。

 いつだって、いつまでだって悪いのは僕なんだ。

 全部、僕が悪い子だからなんだ。

 僕がこうなってしまったのも、僕が原因だからだ。

 僕の家族が壊れてしまったのも、最初の引き金は間違いなく僕で、全部悪いのは僕自身でしかない。お父さんもお母さんも、そんな僕のせいで巻き込んでしまった、壊れてしまったのだ。

 だから僕はどうしようもないほどに悪い子で、捨てられてもしょうがないような悪い子なのだ。それをベランダで過ごすだけで済ませてくれるお父さんとお母さんは優しい。お父さんとお母さんは僕のことを棄てないでずっと見ていてくれるのだ。一緒に居てくれるのだ。

 僕はそんな優しいお父さんとお母さんのことが大好きだった。

 もう二度と誕生日を祝ってくれなかったとしても、一緒にどこかに出かけることがなかったとしても。もう一緒にご飯食べることがなかったとしても。その目が一度たりとも僕を見ることがなかったとしてもだ。

 お父さんに起こされるよりも早く目が覚めている僕は、寒さに一夜耐えたことで赤くなった痛みを訴えてくる手を擦り合わせて、カーテンが開かれるのを待つ。

 手を擦りつつ、辺りを見渡した僕は自分がなぜ早く目が覚めたのかを知る。

「白い、なー……」

 ベランダが薄いながらも白く染まっていたからだ。

 どうやら、僕が意識を失っている間に雪が降ったようで、雨や雪がない分ましだと思っていた僕を追い込むように、ベランダに積もっていた。

 幸か不幸か、雪は既に止んでいて、空では灰色がかった雲が時間とともにゆっくりと流れていく。

 ぼんやりとそれを眺めつつ、何も考えず、人差し指を雪に突っ込んでみると、僕の第一関節はすっぽりと埋まってしまった。

「痛いなぁ……」

 じんわりと広がる痛みに、僕は慌てて指を引き抜く。

 これは積もった方なのではないか、なんて思いながら、もう一度手を温めることに専念する。

 気づかぬ間に積もった雪は、僕の低い体温でも溶け出し、じんわりと僕の服にしみ込んでいた。その際に、溶けた雪はベランダの汚れを拾い、僕の汚れた服を更に汚していた。

 ぐしゅぐしゅと動くたびに服が音を立てるのが不快でしかないが、それは我慢することでどうにか耐えられるが、これではお父さんが起きた時に部屋に放り込んではもらえず、朝から舌打ちされるに違いない。

 雪や雨の日の朝は、お父さんは自分が汚れる苛立ちからか、家に上がった僕を服の上から殴る。それから、僕に掃除をしておくように言いつけると会社へと出かけていく。

 お父さんは力が強いから、僕は少しの間床から起き上がれない。けれど、お父さんはとても優しい。僕が意識を失って、学校に行けなくならないようにきちんと加減をしてくれているからだ。

 そんなお父さんの優しさに甘えて、いつまでも痛みが引くのを待っていると学校に遅刻してしまうから、僕は体を引きずるようにして急ぎ掃除を終えて学校へ行かなくてはならない。

 いつものようにそこまで簡単に想像ができた僕の今日は、一昨日と同じ昨日だったように今日を迎えることはなく、昨日よりも悪い一日になるかもしれないことを感じ、その時が来るまでひたすら手を温め続けた。

 少しでも手を温めておいた方が掃除をする時にやりやすいだろうという考えと、単に今寒いからそれを凌ぐためという考えで、僕は必死に手を温めてじっと窓を見つめ続ける。

 やがて、窓の向こうから音が聞こえてきてお父さんが起きた事を知る。ひょっとしたら今日はお母さんも起きているのかもしれない。

 僕は窓の方へ体を向けてその時をただ待ち続ける。

 僕が何も知らない子供だった頃、好きだった歌を小さく口ずさみながら、じっと。


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