アスセーナへ
「本当に良かったんですか?姫様」
「私はもう姫じゃないわよ。マリア」
「…失礼しました。ですが…」
謁見を終えた私はマリアの心配そうな目に苦笑いを返す。
周りから見れば私は王位継承権を放り出して逃げ出した臆病者だ。
貴族の既得権益を強めたいものにとっては、理解出来ない行動だろう。
だけどこの行動に対して、私が後悔している事は一切ない。
…だって、大好きなマリアが隣に居てくれているんだもの!
本当はそれだけでいい。だけど、何かを変えるには力が要る。
争いを呼ぶような権力はいらないが、貴族である事を捨てる無理だ。
国外逃亡も考えたけど、女二人で生きていくには世の中は厳しすぎる。
「ひ…お嬢様がそう仰るなら、私はもう何も言いません」
「ありがとう、マリア」
心配そうに眉を下げているマリアに私はそっと頷きを返す。
すると、気を取り直して彼女は「では」と私を手で促した。
「気分転換にお風呂は如何でしょう?ちょうどいい温度になっていると思います」
「え!?」
驚いた私はマリアを凝視した。彼女はにっこりと笑みを浮かべている、
「謁見でお疲れだと思いましたので、お風呂を入れておきました」
「そ、そう」
「あの、もしかして、要らなかったでしょうか?」
「そんな事ないわ!お風呂、お風呂ね!実は入りたかったのよ!入りましょう!」
しゅんと眉を下げたマリアを見て私は慌てて立ち上がった。
彼女にそんな表情をさせる事は許さない。行こう。お風呂。身体が熱くて汗もかいてたし!
私はマリアを伴って浴場へと向かう。
王城の中でも中庭を挟んで離れに位置している私の部屋から浴場にはすぐに着いた。
着いたのだが、既にここで私の心臓は破裂寸前まで跳ね上がっている。
だって、お風呂、お風呂よ?生まれたままの姿になる場所なのよ?
つまり、マリアの前で裸になるのよ?
緊張しないわけがないし、じんわりと身体から汗が出てきた。
そして、脱衣所に着いた私にマリアは早速服を脱がせようと手を伸ばしてくる。
「ちょ、ちょっと待って、ま、マリア」
「いかがいたしました?」
手を止めて不思議そうに首を傾げるマリアに私はうっと喉を詰まらせる。
女同士なのだ。裸を見られ合う事などいつもの事だし、昨日までは普通にやっていたこと。
だけど、彼女にただならぬ想いがある私は気恥ずかしさが優って、口をまごつかせる。
「そ、その…恥ずかしい、から、私、一人でいいわ」
「そんな訳にはいきません。私はお嬢様のメイドですから」
「で、でも…」
本音を言うならマリアの裸を見たい。慎ましくも豊満なその胸に触りたい。
けど、女に恋をしていると知られてしまったら…マリアは。
どんな事を言われてしまうのだろう。彼女のその時を知るのが、怖い。嫌われたく、ない。
もじもじとさせる私に何を見たのか、マリアは「よしっ」と手を握り、
一気に着ていた服のボタンを外し始め、瞬く間に全裸になった。
「ま、マリア!?」
「さ、お嬢様。私も恥ずかしくないといえば嘘になるのです。早くお脱ぎになってください」
「う、うん…」
きゃぁぁぁぁああ!マリアが全裸に!マリアが全裸に!どうしようここは天国かしら!?
「ふぁぁっ…」
恥ずかしくて見られない。だけど見たい。見たすぎて顔が凄いことになっている。
傷一つなく、すべすべとした若々しい肌。ほっそりとした身体つきに関わらず胸は豊満だ。
黒っぽい髪がかかるうなじが艶かしく、きらきらとした瞳が愛らしい。
…ど、どうしよう、身体が熱くて、胸の中から何かが込み上がってくる。
ごくりと唾を呑んだ私は瞬く間にマリアに服を脱がされ、生まれたままの姿になった。
咄嗟に胸と下を手で隠すけれど、彼女はほぅと息を吐いているだけ。
「ま、まりあぁ…」
「とてもお綺麗ですよ。お嬢様。さぁ、入りましょう」
「うん…」
手を握られて、私はお風呂場へと足を踏み入れる。
マリアの手は暖かくて、それだけでも死んでもいいと思えるほど幸せだった。
…恥ずかしくて死にそうだったけど。
◆
いちゃいちゃばかりしても居られない。
こんな日々を公然と、誰に憚れる事もなく対等にする為に私は領地を貰ったのだ。
「マリア。王都の財務官の所に行ってアスセーナの街の過去十年分に関する資料を持ってきて」
「かしこまりました」
「シュバルツ。貴方はアスセーナの街の現状の調査を。民衆の様子を特にね」
「承知致しました」
「それと貴方には頼みたい事があるわ」
書斎にて、私は母の代から仕えてくれている執事のシュバルツとマリアに指示を出す。
シュバルツは身の回りの世話こそしないものの、裏切らないという点では信用できる。
私の味方は少ないけれど、今は少しでも情報が欲しいところだ。
国王から任ぜられたとはいえ、仮にも領主。その土地の情報くらいは頭に入れなければ。
降格しても仮にも公爵である私の屋敷には沢山の使用人で溢れている。
庭師や執事、料理人、メイド、私自身も彼らと話をしつつ、情報を引き出していく。
「シュバルツ、街の調査が終わったら役人の調査もお願い。アステーナに行くのは十三日後よ。向こうにもそう伝えて頂戴」
「心得ております」
そうして準備をして、十二日後、私は住み慣れた王城の玄関扉に立っていた。
人が通るには明らかに過剰な扉の前で息を呑みつつ、私は開かれた扉を進む。
薔薇を中心とした彩の溢れる庭園の前に、一台の馬車が止まって居た。
シュバルツが御者を務め、マリアの引いてくれた手に従って、私は馬車に乗り込む。
鞭音と共に馬の嗎が聴こえて、馬車はがたがたと揺れながら動き出す。
王城を出て真っ先に見えてくるのは小綺麗に整えられた貴族街だ。
内情がどうであろうとも外面だけは気にする貴族らしく、小綺麗な白の石畳が広がっている。
それぞれの家の広さがそのまま権力の差を示しているかのようで、私はそっと息を吐く。
「大丈夫ですか、お嬢様?」
「えぇ…」
心配そうにこちらを覗き込んでくれるマリアに頷くけれど、私は落ち着かなかった。
なんせ、この先には十年以上足を踏み入れていない平民たちの暮らしている場所があるのだ。
私がそんな心地でも馬車は進む。綺麗に整頓された石畳はやがて歪みが大きくなり、家々も小ぶりのものへと変わっていく。貴族では無い富豪たちの家を通り過ぎると、平民たちの街が広がって居た。
雑多に建てられた家々は煉瓦造りの街で、見目の良い商店や出店が並ぶ。
表通りから見える民は笑い、愛を育み、買い物をして、幸せそうに歩いている。
私は窓の外を眺め続け、ふと、裏路地で男が大勢に痛めつけられているのが見えた。
咄嗟に席を立とうとするけど、今、この馬車にはマリアも乗っている。途中で止める事など出来ない。
諦めて息を吐き、私は「そういえば」とマリアに話題を振った。
「この街にいる騎士団はどうなっているのかしら?」
「王都にいる騎士団は貴族街を守るのが仕事ですからね…下町では衛兵たちが巡回してはいますが、先の戦争に負けた影響でかなり数が少ないようです」
「そう…」
「はい。噂に名高い剣聖様がいなければ、私たちの兵団は無くなっていたでしょう」
「剣聖?」
聞きなれない言葉に首を傾げる。すると、彼女は「はい」と両手を合わせた。
「リディル・アウストロスと呼ばれている方です。噂なんですけど、『百戦の英雄』『砦落とし』と二つ名がついていて、凄い方なんですって」
「聞いた事はあるわ。確か、そいつって…」
「えぇ。戦争が終わった瞬間に姿を消したそうです。名誉も爵位も全てを蹴って…なぜでしょう?」
「さぁ、わからないわ」
男が考えている事は分からない。大抵は下半身の欲望を満たす事だけ望んでいるのでしょうけど。
少なくとも私が見てきた貴族たちの大半はそうだった。
僅かにうっとりとした様子で語るマリアに、私は胸がちくりとする。
「ま、マリアはそういう雄々しい男性が好みなの?」
「私ですか?そうですね…雄々しいというよりは、引っ張ってくれる男性…でしょうか」
「そ、そう…ちなみに、今はそういう相手はいないのかしら?」
「居ませんよ。仮に居たとしても、私は許される限りお嬢様のメイドであり続けるつもりです」
「…そう」
やはり、女に恋をしている自分は世間一般から見てずれているのだろう。
今、マリアに懸想している人がいないと分かった事は朗報だけど…やっぱり、私は…。
がたがたと、揺れながら馬車の旅は続く。
既にアスセーナの街に続く街道に入っており、街道から少し離れた場所には森が姿を見せていた。
アスセーナの街が建国される前より群生している大樹海、『古き森』だ。
あの街で盛んな林業や製糸業の収入源となる森でもある。
そんな知識の集積を引っ張り出していると、目についたものがあった。
「シュバルツ、止まってくれる?」
「かしこまりました」
「お嬢様…?」
未だアスセーナの街までは程遠い状態での私の指示にマリアが首を傾げる。
街道から離れた森の入り口、そこには白銀の狼の姿があった。
艶やかな毛並みは血と泥で汚れており、怪我をしているようだ。私が近づくと、狼は首を起こす。
「ぐるる…」
唸り声をあげて、こちらを牽制する小さな狼。
小さいながらも鋭利な牙が生え揃った獣の姿は、侍従に危機感を抱かせた。
「お嬢様、危険です。近づかれませんよう」
「大丈夫よ。たぶん…シュバルツ、馬車から食糧を持ってきてくれるかしら。この子が食べられそうなものをね」
「…かしこまりました」
狼は変わらずこちらをじっと見て観察している。
警戒心を絶やさないその姿に、私は口元を緩めた。
「大丈夫。あなたを傷つけたりはしないわ。安心して」
古き森は魑魅魍魎の猛獣が跋扈する危険地帯でもあり、生物の宝庫でもある。
狼や熊を密猟して剥製にし、諸外国へと売り飛ばすことも珍しくはない。
おそらくこの子もそんな経緯で傷ついていたのだろう。
シュバルツが持ってきた干し肉を私があげようとすれば、横から手が。
「マリア」
「お嬢様を危険に晒すわけにはいきませんから」
こればかりは譲らない。とでも言いたげな様子でマリアがつぶやく。
干し肉をかっさらい、マリアは毅然としながら狼の近くに肉を置いた。
「お嬢様の心遣いに感謝するのですよ。もう、罠にはかからないように」
「…」
狼は何も言わずにこちらをじっと見ていたが、私に視線を移した。
問いかけるような金色の瞳に私が頷くと、彼は干し肉に齧り付く。
食べ終わるのを見届け、警戒心が薄れたのを見て取った私は、マリアに治療を指示した。
「人間の薬が効くかは分からないけど…」
小さな狼は顔を歪めつつも受け入れ、最後まで私たちに危害を加える事はなかった。
「ウォン」
治療を終えて、狼はこちらにひと吠えした後、森の中へと去っていく。
最後にちらりと見てくる狼に手を振りつつ、私は馬車に乗り込んだ。
「お優しいのはお嬢様の美徳ですけど…自分も大切になさってください」
「う…ごめんなさい。マリア」
ちくり、と馬車に乗り込んだ私にマリアから苦言が入った。
憂いをげ帯びた瞳でげそう言われて私は眉を下げる。
…不思議と、あの狼なら大丈夫だって思ったのよね。
そんなことを思いつつ、再び走り出した馬車は淡々と進んでいく。
アスセーナの町に辿り着いたのは、それから二日後の話だった。