プロローグ
炎が、私の周囲を包み込んでいた。
煌びやかな椅子も、装飾過多な机も、天蓋付きのベッドも、全てが燃え盛っている。
強烈な熱が肌を焦がして、煙が呼吸を許そうとしなかった。
首から滴る汗は止まる事を知らず、べっちょりとへばりついている。
「げほっ、げほっ、私、ここで死ぬの…?」
——思い返せば、ろくな人生では無かった気がする。
私を生むと同時に母が死に、父は母の入れ替わりで生まれた私を疎んだ。
国王の第一子として生まれた私は、勉学と作法に人生の大半を費やし、娯楽すらなかった。
王の血を引くものが私しかいないうちはそれでもマシだったのだろう。
だけど、国王の第二夫人が息子を産んだ事で私の人生は一変してしまった。
離宮に閉じ込めるように王城からの外出を禁じられ、勉学をこなす毎日。
父である国王とはもう十年くらい言葉を交わしていない。
いずれどこぞの公爵家か、他国に嫁がされるのだろう。
政治の道具として、外交の手段として、何の感慨もなく、何の愛情もなく。
それが王女の役割だと言ってしまえばそれまでだけれど。
「苦しい、だれ、か…」
這々の体で熱された床を進むけど、誰も助けに来てくれなかった。
じんわりと、涙が浮かび上がってくる。
自分はここで死ぬのだ。炎の海の中で、誰に看取られる事も無く。
そう考えると、全身が寒くなって、怖くて、怖くて仕方ない。
「やだ、やだよぅ…お母さん…」
こんな事なら生まなければよかったのだ。
男たちの道具として扱われ、誰も私を見てくれない人生なんて、何の意味があるだろう。
「助けてぇ…だれかぁ…」
ごう、と天蓋付きのベッドが崩れ落ちた。
すぐそばに迫っている火勢はすぐに私を包み込むだろう。
これまでの全てを終わらせて、永遠に来ない明日を突き付ける為に。
肺が痛い、息が苦しい。熱くて、熱くて、喉が焼けそう。
もうだめ…諦めようと、私が思った瞬間だった。
「助けに来ました。姫様」
沈み込もうとしていた私の意識に声が滑り込んでいた。
聞き慣れた声が聴こえて、私ははっと顔をあげる。
そこには、全身を濡らしたメイド服の女性がいた。
煤がついて汚れてはいるが、彼女の愛らしさを隠すには至らない。
エメラルド色のまあるい瞳に、手入れされた黒みがかった髪が揺れている。
汗ばんだ彼女の服からは所々に切り傷が見えていて、ここまでの道が楽ではなかったと分かった。
「まり、あ…?」
「立てますか、姫様?」
差し出された手を見て、しがみつこうとした私は、直前でその手を止めた。
「あなたは、どうして私を助けてくれるの…?」
今まで、本当の意味で私を必要としてくれていた人たちはいなかった。
彼ら彼女らが求めるのは私という神輿と、王族の血、そして欲望を満たすための玩具。
それだけが私の存在意義で、そんな人生にほとほと嫌気がさしていた事も事実だ。
本当は死にたくない。死にたくないけど、これから先もあんな人生が続くのなら。
死んでしまった方がいいんじゃないかって思う。
だけど、侍女のマリアは膝をつき胸に手を当てて、恥じる事なく言った。
「わたしは、イリス様のメイドですから」
「私、の?」
「えぇ。わたしは王族でも貴族でもない、イリス様だけのメイドです」
言われた言葉が胸に染み渡り、じんわりと涙が浮かんで来た。
今までそんな事、誰も言ってくれなかった。『私』をちゃんと見てくれる人なんて。
伸ばしかけていた手を掴まれ、マリアは私を背負って歩き出す。
小さいはずなのに、大きくて、『私』を助けに来てくれたただ一人の女の子。
この時、私の心に浮かび上がって来たのは感謝と感動だけではなかった。
煙の中でもふんわりと漂う女の子の匂い。すべすべの肌、艶かしいうなじ。
彼女の背中を見ていると、胸が締め付けられるように痛くなる。
ぎゅっと彼女の肩を掴んだ。暖かくて、寂しさが薄れていく。
「ありがとう…マリア」