6 大賢者、教授と対決する
大講義室を包み込む静寂は、実に十数秒に渡って、場を支配し続けた。
イルノフ教授は呆けたように固まっているし、それは学生たちも同様だ。
しばらくすると学生たちも我に返ったようで、講義室のあちこちからざわめきが生じる。
ちらほらと、こちらへ視線を向けてくる学生の姿も確認できた。
不意に、何かに引っ張られるかのような感覚を覚える。
何かと思えば、先ほどまで感涙を流していたソユリが、青ざめた表情で私の袖口を引っ張っていた。
「ちょ、ちょっと……! アーテル君教授に向かっていきなりなに言ってるの……!?」
「なに、とは……言葉のままだ。名門ラクスティア魔法大学の講師を務める、イルノフ・ガントット教授の深淵なる思想は、きっと私には理解の及ばぬところではあるのだが――」
私はイルノフ教授を見やる。
「――しかし、さすがにこれは戯れが過ぎるというもの、あまり純真無垢な学生たちに出鱈目ばかり教えるのもいかがなものかと思った次第だ」
ざわめきが、より一層大きくなった。
イルノフ教授は「ええと……」と困ったように頬を掻き、再び貼り付けたような笑みを浮かべる。
「……出鱈目、とはどういうことかな? 君、学科と名前を」
「総合魔術科一年、アーテル・ヴィート・アルバリスです」
「へえ、これは驚いた。あの三大賢者の一人と同姓同名なんだね」
ふむ、同姓同名というか、同一人物なのだが……
しかし、どうせこの姿では信じてもらえないだろう。
――いかにも私こそが三大賢者が一人、アーテル・ヴィート・アルバリス! これは大魔法を成功させて若返った姿だ!
などといちいち説明するのも面倒くさい。
それに、重要なのはそこではないのだ。
「話を戻しましょう。私は疑問に感じているのです。いったいあなたにいかなる考えがあるのかは分かりかねますが、悪戯に学生を惑わしてばかりというのは良くない。たとえ万に一つの可能性だとしても、これを信じ込む学生がいたら事だ」
出鱈目、という言葉に反応して、イルノフ教授の眉がぴくりと吊り上がった。
「ええと、ですね、その出鱈目というのが私にはよく分からないのです。よろしければ参考までに教えていただけないでしょうか、アーテル君?」
はっ、またまた。
イルノフ教授は模範的魔術師顔にふさわしく、相当なタヌキだな。
ここまできてもしらを切るとは。
いいだろう! そんなにも学生を試したいと言うのならば、未熟者ながら私が先駆け一番、解答を示してくれる!
しかしそのためにはまず、同じ目線の高さに降りなければな。
私のような人間が教授を遥か高みから見下ろしたまま喋るなど無礼千万だ。
「分かりました、ではそちらへ行きます」
そういうわけで私は階段を下り、教壇のすぐ傍までやってきた。
そしてイルノフ教授と対峙し、私なりの“解答”を提示する。
「――まず、イルノフ教授は人魔大戦について触れていましたが、そこにはかなりの誤った情報が含まれている」
「はは、なにを馬鹿な」
イルノフ教授は、はっと鼻で笑う。
そして笑みは貼り付けたまま、こちらを威圧するようにずいと顔を寄せてきた。
「いいかい? 私は人魔大戦に関しての史料を読み漁っている。それに私がさっき話したのはほんのさわりの部分――もっと言ってしまえば皆が知っている常識なのだよ? それのどこが間違っていると言うのかな?」
「いえ、間違いだらけですよ」
「ほほう! 君も言うじゃないか! そこまで言うからには、もしや君、人魔大戦を経験したね?」
イルノフ教授が冗談っぽく言うと、学生たちの間で、どっと笑いが起こる。
「なんだあの馬鹿」「よくいる意識高い系ってやつでしょ?」「痛いなぁ、痛い痛い」「入学初日にはしゃぎすぎだろう」
そんな声も聞こえてきた。
教授自身も堪えきれなくなったらしく、くつくつと笑っている。
「くくく、さあさあ、分かったら席に戻りなさい、講義の時間はとっくに終了しているんだ。私には次の講義もあるんだからね……」
イルノフ教授はもはや私のことなど眼中にない、と言わんばかりに帰り支度を始める。
ううむ? 私は何故か彼を失望させてしまったらしい。
ならば汚名返上、名誉挽回だ。
「――魔族の血を啜ったのは、病気の治療のためだ」
イルノフ教授が、ぴたりと動きを止めた。
その途端、あたりは再びしんとなる。
イルノフ教授が、ゆっくりとこちらへ振り返ったので、私は更に続きを述べる。
「大戦後期、ある病が爆発的に流行した。竜鱗病――人魔大戦に詳しいイルノフ教授なら、その名は知っていましょう」
竜鱗病? と学生たちの間で声があがる。
年若い学生たちが知らないのも無理はない。あれは200年も昔、大戦終結と同時に治療法が確立し、今ではほとんど根絶された病だからな。
では、彼らにも分かるように説明しよう。
「竜鱗病とは、リザード系モンスターの唾液が傷口などに付着することにより感染、発症すれば皮膚がさながら竜の鱗のように硬質化し、やがて失明する。大戦中もっとも恐れられた病の一つだ」
「し、知っていますよ、竜鱗病でしょう。舐めないでください」
さすがイルノフ教授は博識だ。
だが、何故そんなにも汗をかいているのだ?
「しし、しかし、竜鱗病が感染者の視力を奪うほど進行することなど、ごく稀です、これが最も恐れられる病なんて、そんな大それたことは……」
「おっしゃる通り、竜鱗病は見た目ほど恐ろしい病ではない。たいていは発症すらしないからな。だが、それは栄養状態の良い、現代に限っての話だ」
「え、栄養……?」
「大戦中はとにかく環境が劣悪で、人々は衰弱しきっていた。そのせいで通常問題にすらならない竜鱗病が猛威を振るったのだ」
「そんな時、出所がどこかは定かでないが“竜鱗病を治すには同じくリザード系モンスターの血を啜ればよい”という噂が流布し、人々はこぞってそれを実践した、家族の為に、友の為に、国の為に」
「一見馬鹿げた手段だが――しかし、結果としてこれは竜鱗病の被害を抑え、また竜鱗病の治療法を確立するために大きく貢献した。リザード系モンスターの血には、竜鱗病に打ち勝つため必要な栄養素が多分に含まれていることが、のちに判明したのだ」
「そして最終的にこの治療法を確立した女性の名が、メディ・パラストール――これで合っていますよね、イルノフ教授?」
「うぐっ……!?」
イルノフ教授は歯を食いしばっている。
二の句を継がないところを見ると、これで正解なのだろう。
しかし、私にとってこんな問題答えられて当たり前、誇ることでもない。
――なんせ私は実際に、200年前の人魔大戦を経験しているのだから。
「それと、イルノフ教授」
「な、なんですか……!」
「確かに、魔術とは多くの屍を積み上げて研鑽されてきたものだ。それに、魔族もひとえに邪悪な存在とは言い切れないのかもしれない。あなたの言う通り、対話で分かり合えたかもしれない。しかし――」
私はイルノフ教授に詰め寄る。
彼は、後ずさりをした。
「しかし、あの戦乱の時代を必死で生き抜いてきた者たちに邪悪など――それだけは看過できない。彼らを侮辱することは、魔術師の在り方そのものを否定することと同義だ」
「ううっ……!?」
――どうだ、これでいいのだろう?
私はこのように貴重な発言の機会を設けてくれたイルノフ教授に感謝の意を示すべく深くお辞儀をし、そして踵を返した。
いけないいけない、つい熱くなってしまった。
この後も講義があるというのに……
振り返ってみると、学生たちがしんと静まり、こちらを見つめているのに気付いた。
出過ぎた真似をしてしまったのかもしれない。
お目汚し失礼、私はすぐに退散させてもらおう。
……ああ、それと。
私は黒板の前にさしかかったところであることを思い出し、再びイルノフ教授に振り返った。
「すみません、言い忘れていました」
「は……?」
私は黒板に歩み寄って、それからチョークを手に取ると、彼が書き込んだ魔法式のワンフレーズに二重線を付け足した。
「――ここ、間違っていますよ」
どこかの誰かが、ふふっ、と失笑した。
その瞬間、イルノフ教授の下からぱきりと奇妙な音が聞こえてくる。
それが、彼が奥歯を噛み砕いた音だと気付いたのは、すぐのことだ。
イルノフ教授が眼を血走らせて、手の平をこちらにかざしてきた。
そして、なにやらぶつぶつと呟いたかと思えば、彼の手の内に拳大の火の玉が精製される。
どこからか、甲高い悲鳴があがった。
幾度となく見た光景、それは詠唱式口唱法、火炎の魔術だ。
「――このっ口だけ達者なクソガキがっ!」
イルノフ教授は忌々しげに言って、火炎球を放つ。
その標的とは、他でもない私だ。
甲高い悲鳴、迫る炎。
私は――思わずにやついてしまった。
なにが「正しく魔術と付き合っていかなくてはなりません」だ! とんだ食わせものめ!
学生に対していきなり魔術をぶっ放すなんて! これがラクスティア魔法大学式の歓迎か!?
しかし、これでいい! これぞ私の求めたキャンパスライフ!
ならば私も全力を尽くしてこれに対応しよう!
私は目と鼻の先にまで迫った火炎球を正面から見据え、即座に対象の魔法式を解析!
これを否定する魔法式を脳内で組み立て、そして証明する!
これにより火球は空中で霧散し、そして火の粉のひとかけらも、私にたどり着くことはなかった。
イルノフ教授が、信じられないものでも見るような目で、こちらを見つめている。
「む、無詠唱の否定魔法式……? 馬鹿な、そ、それもあんな一瞬の内に完全否定を成立させるなんて、そんなバカげたこと、ありえな――」
そこまで言いかけたところで、彼の手元にぽん、と火の玉が浮かび上がる。
最後に、へっ? と間抜けな声が聞こえた気もしたが、それは爆音によってすぐにかき消された。
「ぶげあっ!?」
イルノフ教授が潰れた蛙のような悲鳴をあげて吹っ飛び、そして講義室の壁に激突する。
し、しまった……またやってしまった……
「――つい癖で、呪詛返しの魔法式まで組んでしまった……」
ああ、やはり私は浮かれているのだろうか!?
完全に伸びてしまったイルノフ教授を見下ろして、私は自らを戒めた。