5 大賢者、講義を受ける
――まさか、魔法式を誤作動させてしまうなどという初歩的なミス、以前の私では考えられなかった。
この若い肉体に精神が引っ張られているのだろうか。
それとも夢のキャンパスライフに年甲斐もなく浮ついているだけなのか。
どちらにせよはしゃぎすぎだ!
何が大賢者か! 穴があったら入りたいとはまさにこのことである!
「もう、本当にびっくりしたんだからね!?」
「申し訳ない……」
十中八九、ソユリは怒っていた。
まだ幼さの残る顔立ちでも十全に怒りの感情を表現するためか、ぷくうと頬を膨らませながら怒っていた。
それも当然だろう。
なんせ入学初日、見知らぬ男の手によって、いきなりノートを木っ端みじんに吹き飛ばされたのだ。
怒って当然、そして私も怒られて当然。
私にできることと言えば、手持ちのノートを代わりに差し出し、こうして平謝りに徹するだけである。
「……私がなんで怒ってるか、分かってる?」
おそるおそる面を上げてみれば、ソユリがじとーっとした目で、こちらを見つめていた。
それは、もう……分かり切っている。
「大事な講義の直前にノートを消し飛ばしてしまった……これでは君の勉学に支障が出てしまう……申し訳ない」
「そういうことじゃないんですけど」
違うのか!?
では、無様な魔法式を見せてしまったことに腹を立てているのか……?
「私が怒ってるのはそんなことじゃないの! 魔法式の誤作動なんて、誰かが怪我したら危ないでしょ!?」
「怪我!」
なるほどそっちか!
本学の優秀なる学生たちには、私ごときの未熟な魔法式、さしたる問題ではないだろうが、万が一ということもある。
確かにソユリや他の学生――すなわち偉大なる魔術師の卵たちに、万が一のことがあってはいけない!
「君の言う通りだ! 私はなんてことを!」
私は己の軽率さを恥じ、頭を抱える。
「わ、分かったならいいんだけど……運よく魔法式の構築が失敗したのが幸いしたね」
「ああ……運よく否定魔法式の構築が間に合ってよかった。あとコンマ6秒もあれば完全否定が完了し、君のノートも犠牲にならずに済んだのだが……私もまだまだ未熟だ」
「……ん?」
彼女はなにか釈然としないように、首を傾げる。
私も「うん?」と首を傾げる。
……なんだか微妙に会話が噛み合っていないような気がするが、気のせいか?
そんな風に言葉を交わしていると、ふと、教壇へ上がる中年男性の姿が見えた。
おお――間違いない、彼が“教授”と呼ばれる人物なのだろう!
あのいかにも魔術師然とした胡散臭そうな面持ち! 貼りついた卑屈な笑み!
まさに魔術師、といった印象の男である!
しかし、あの必要以上に華美な服装に関しては疑問を感じざるを得ない。
魔術師であるならばもっと謙虚に、かつ卑屈に、岩陰に生した苔のような服を着るべきではないか?
……いやいや、私のような一介の学生が、なんと差し出がましい。
きっと彼のあの禍々しい毒蛾のような服装にも、私のような凡才には到底理解のできない、魔術学的な深い理由があるのだ。
「講義、始まるみたいだね、ちょっと緊張してきちゃった……」
「ふふ、それは私もだ。では、健闘を祈る」
「はは……そうだね、頑張らなくちゃ、アーテル君もね」
言われずとも、やる気は十分だ!
彼の“講義”とやらが楽しみで仕方ない!
ラクスティア魔法大学は、その講義をもって一体どのような知識を与えてくれるのだろう……!
さて、教壇の前に立った彼は、まず一つ咳払いをして学生の注目を集めた。
「――ええ、ではこれから現代魔術学基礎の講義を始めます。魔術学者のイルノフ・ガントットです」
彼は軽く会釈をする。
私は惜しみない拍手によって彼を称えようと思ったが、誰一人としてイルノフ教授に拍手を送る気配がないので、すんでのところでやめた。
郷に入っては郷に従え、である。
「では、早速講義を始めます。えー、まぁ初回なので、本講義の意義について軽く触れて、それから軽く全体の流れを説明します」
なるほど、賢明な判断だ。
仮にも現代魔術学“基礎”を名乗っているのだから、初めから教授が持つハイレベルな魔術知識を披露しては学生たちも面食らうだろう。
だからこそ導入をしっかりとこなし、学生たちを深淵なる魔術世界へ導くつもりなのだ!
彼は、えー、と魔術師らしくねばっこい声で、語り始めた。
「まず、皆さんも知っての通り、魔術の歴史は長く、その起源は数千年前に遡るとも言われています」
――そんなに遡るのか!?
ただ現代魔術を教えるだけならば近代魔術からの変遷を伝えるだけで十分だと思うのだが、よもや“基礎”を教える講義で、魔術の根源に触れようというのか!?
興奮のあまり鳥肌が立ってしまった!
……しかし、この時の興奮はすぐにクールダウンしていくこととなる。
なんせ、イルノフ教授の前置きが長すぎるのだ。
やれ魔術は知性を持つ者たちに与えられた唯一の武器だの。
やれ数ある魔術の起源は元をたどれば同じだの。
やれ文化の違いがそのまま魔術の形態に影響しているだの。
皆が分かり切っている魔術の歴史についてを、掘り下げるでもなく、また新たな解釈を唱えるでもなく、ただ淡々と教科書でもなぞるように述べているだけなのだ。
こんなもの、魔術師を志す者は皆が子どもの頃から知っている。
……彼はあまりにも学生を見くびりすぎているのではないだろうか。
これでは、今も教授の言葉を熱心にノートに取っている学生たちが可哀想だ。
一体どれだけ深遠なテーマについて語るのかは知らないが、そろそろ本題に入ったらどうだろう……
「――というわけで現代魔術は大きく分けて二つ、詠唱式と無詠唱式に分かれます。また、詠唱式は更に二つ、口唱法と書き込み法に分かれます」
教授は黒板にチョークでかつかつと魔法式を書き込んでいく。
それは単純かつ、初歩的な魔法式だ。
「はい、これが詠唱式書き込み法ね。魔法式を文字に起こしてエンドマークを打ち、証明完了することで強力な魔術が発動できます。あまりメジャーではありませんが、魔法式を絵で表すこともありますね」
「次に口唱法、これは皆さんご存知の通り、魔法式を声に出して唱えることで魔術を発動させる、最もポピュラーな詠唱です。純粋な出力で言えば書き込み式に劣りますが、道具がいらないので実に手軽です」
「最後に無詠唱式ですが……これはまあ、覚えなくてもいいです。読んで字のごとく、全くのアウトプットなしに頭の中だけで構築した魔法式に体内の魔力を乗せて魔術を発動する方法です」
「あらゆる行程を省略するので速さだけで言えば全ての詠唱に勝るのですが、いかんせん頭の中だけで魔法式を組み立てるのは熟練の魔術師にとっても至難の業で、体内の魔力のみを使うので出力も最低、かなり不安定な詠唱となりますね」
知っている、知っている、知っている……
こんなのは全て初歩中の初歩、いい加減焦らしが過ぎるのではないか……私は魔術の神髄を学びたいのだ……
そんな私の思いが、教授に通じたのかもしれない。
彼は今までとは明らかに違った調子で言う。
「さて、さわりとしてはこんなところですね。ではそろそろ……」
そろそろ!? そろそろ本題か!?
私は期待のあまりわずかに身を乗り出してしまう。
しかし、彼の続けた言葉は、
「――講義を終わろうと思います」
そんな、耳を疑うようなものだった。
……は? 終わり? まだ何も始まっていないのに?
呆然として彼のことを見つめていると、しばらくして彼は「ああ」と何か気付いたようなそぶりを見せて
「と思ったら、時間がまだ余っていますね、もう少し続けましょう」
彼は一度離れかけた教壇に戻ってくる。
危ない! はらはらしたぞ!
まったくイルノフ教授は戯れが過ぎる……!
そう思った矢先の事。
「とはいえ、もう初回の授業で話すべきことは全て終わっているので……あの忌まわしき大戦に絡めて、現代魔術を学ぶ上での注意点を教えましょう」
……ん?
私は首を傾げた。
「皆さんはまだ若いので、実感は沸かないかもしれませんが――人魔大戦という言葉ぐらいは聞いたことぐらいはあるでしょう」
……んん?
私は更に首を傾げ、眉間にシワを寄せる。
しかしそんなのはお構いなしに、イルノフ教授は矢継ぎ早に語り続けた。
「人魔大戦とは、200年前に魔術師と魔族たちが繰り広げた世界規模の戦争のことです。この大戦では実に多くの死傷者が出ました」
「皮肉なことに、現代魔術の基礎はこの大戦を通して形作られていきました。すなわち私たちが普段何気なく使っている魔術は、全て多くの犠牲の上に確立されたものなのです」
「魔術とは邪悪な魔族を倒すための武器――? いいえ、魔族が邪悪などと一体誰が決めたのでしょう」
「現存する資料によると、当時魔術師たちは自らの武勇を誇示するために倒した魔族の首を串刺しにし、その血を啜っていたそうです。いったい邪悪なのはどちらでしょうか!」
「正義の勝利などとんでもない。我々は対話によって分かり合えたかもしれない相手を、野蛮にも暴力に訴えて蹂躙したにすぎないのです!」
「――だからこそ、私たちは正しく魔術と向き合っていかなくてはなりません。あの悲劇を、二度と繰り返してはいけないのです。そのことを、これから現代魔術について学んでいく君たちに理解してほしいのです」
そして、彼はやけに芝居がかった仕草で話を締めくくった。
ここにきて、大講義室に集まった学生たちから拍手の渦が巻き起こる。
割れるような拍手、とはまさにこのことを言うのだろう。
あまりの凄まじさで、今にも教室全体が割れてしまいそうである。
教授のご高説に心を打たれて、涙ぐむ者の姿もちらほらと確認できた。
というか、まさに私の隣でソユリ・クレイアットがぐずぐずと鼻をすすりながら、目元を拭っていた。
そんな学生の姿を見て、イルノフ教授は実に満足げな表情を浮かべている。
「来週からの講義では、私の著書を教科書代わりに使うので忘れず購入するように……さて、最後にこの講義に関して何か質問、意見、感想等のある学生はいますか?」
イルノフ教授が受講生たちに呼びかけた。
しかし皆が皆、感極まったように彼の顔を見つめ返すだけで、動こうとはしない。
そんな中、私はたった一人挙手をする。
「はい、そこの君、是非自由に意見を述べてください」
イルノフ教授が挙手をする私の姿を認めて、発言権を与えてくれる。
私はイルノフ教授の寛大な精神に敬意を示すべく一度頭を下げ、そして起立した。
学生たちの視線を感じる。
このような形で注目されるのはあまり経験がなく、少し戸惑ってしまうが、せっかくイルノフ教授が一介の学生たる私へ発言の機会を与えてくれたのだ。
では、遠慮なく……
私は深く息を吸い、そしてイルノフ教授に質問を投げかけた。
「では僭越ながら――何故、学生に出鱈目ばかりを教えるのです?」
その時、私は大講義室の空気が一瞬にして凍り付くのを感じた。