43 大賢者、休日を過ごす
道中、春のうららかな陽気にあてられながら、ふと日記を読み返す。
日記をつけ始めてからまだ四日目であるが、ひとまずは三日坊主の言葉の通りにならなかったことに安堵した。
しかし改めて見てみると、学生として充実しているかどうかはともかく、なかなかに濃密な四日間であったように感ぜられる。
早朝に起床して、りゅーちゃんに受験勉強の手ほどきをしてやり、大学では教授のありがたい講義に傾聴する。
空いた時間はソユリとともに課題に取り組んだり、学食に舌鼓を打ったり、時折呼んでもいないのに乱入してくるマリウスとやり合ったり、先輩方との雑談に花を咲かせたり。
このように一日の大部分を大学で過ごしたのちにはアパートへ戻り、ソユリが作る夕食を囲む。
そして皆が退散したのちには、再びりゅーちゃんへ受験勉強の手ほどきをする。
これがひと段落し、ぴいぴいうるさい二匹の竜が床へ着けば、ようやく自らの勉強に取り掛かり、深夜眠りにつく。
……うむ、これの良し悪しを判断することは難しいが、少なくとも以前までの一人で山に籠っていた頃と比べれば遥かにマシだろう。
いつ日が暮れ、いつ日が明けたとも知らず、日の光の差さない部屋の中で埃臭い書物の数々とにらめっこをするだけだったあの日々。
当時の私はなんの疑問も持たず、あの日常を甘受していたが、今ならばはっきりと言える。
あれは脱却すべき物であったのだ。
その証拠に、当時の私が羽ペンのごとく浪費していた一日が、今では数年にも数十年にも感じられる。
一日がこれほど長いものなのかと感じたのは、随分と久しい事だ。
私は日記帳を閉じ、これを小脇に抱えた。
青々と茂った街路樹の葉が、柔らかく降り注ぐ陽光を受け、きらきらと輝いている。
まるで私を待つ輝かしきキャンパス・ライフを象徴するかのような光景ではないか、とひとり頬を緩めた。
――今日は休日、すなわちソユリとの約束の日だ。
大魔導ハイツより徒歩20分。
ソユリに教えられた通りに大学周辺の住宅街を抜け、更に坂を下っていくと、人の賑わう通りに出た。
大魔導ハイツに引っ越してからというもの、行動範囲が大学周辺の住宅街に留まっていたため、ここまで足を伸ばしたのは初めてである。
ざっと見回しただけで、書店にカフェに雑貨屋など様々な施設が立ち並び、中を覗いてみれば、ちらほらと見覚えのある学生たちの姿も確認できる。
模範的大学生は休日を主にこのあたりで過ごしているのだろうか? なるほど、これは新しい発見だ。
大学生は休日家にこもって勉強をしているものだろう。
今まで漠然とそう考えていた己の想像力の貧困さを恥じる。
どうも私はまだまだ引きこもり気質が抜けていないようだ。
彼らのように将来有望な学生諸君は、たとえ休日でさえ外から学ぶことを怠らないのだろう。私も見習いたいものだ。
特に先ほど目にした書店、そそられずにはいられない……
いや、いや! ここは堪えろ!
なんのために定刻より早めに家を出たのか、忘れたわけではあるまい!?
後ろ髪を引かれる思い、とはこのことを言うのであろう。
私は胸の内より湧き出る膨大な知識欲と、ソユリとの約束を遂行しなくてはならないという使命感の板挟みに苦しめられながら、約束の地へと向かった。
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待ち合わせ場所として指定されたのは、大通りから少し外れた場所にある広場中央の大噴水前ということであったが――なるほど、実際目にしてみると、彼女がここを待ち合わせ場所に指定した意味が分かる。
立派な噴水だ。
噴水自体に施された装飾はもちろんのこと、天高く噴き上げられた水が見事なアーチを描き、心地よい水音を立てている。
これほど見事な噴水はそうそうあるものでもないだろう。
そして、この大噴水を背に佇むソユリの姿を発見するのに、そう時間はかからなかった。
道中のトラブルを差し引いても、約束の時間より早めに到着したはずなのだが、どうやら私は彼女の律義さを見誤っていたようだ。
「待たせてしまったな、すまない」
謝罪の言葉を口にして、彼女へ歩み寄る。
彼女はこちらの姿を認めると、どこか安心したように頬を緩めて
「ううん、今来たところだから」
あっけらかんとそう答えるので、私は彼女の底抜けの謙虚さに舌を巻いてしまった。
長い時間水飛沫を受けていたためであろう、コートの背中が湿ってまだら模様になっていることに、彼女は気付いていないのだろうか?
私はただただ彼女の度量の深さに、頭の上がらない心持ちだ。
「そういうアーテル君も随分早かったね、……気使わせちゃったかな?」
「そんなことはない、私とて楽しみだったのだ」
「そ、そっか……それは良かった……」
ソユリは気恥ずかしそうに顔を俯かせる。
その謙虚さに加え、私に対する配慮まで……やはり敵わないな。
「……それはともかく、ソユリ、コートが濡れてしまっているぞ」
「えっ!? ほ、本当だ……やだなぁ」
私に指摘されて、ソユリは初めてそれに気付いたようだ。
恥ずかしさからか頬を朱色に染めてしまっている。
せっかくの上等なコートがこれでは気になってしまうだろう。
私は彼女への助け舟のつもりで、彼女の下へ跪き、ポケットティッシュを取り出した。
「生憎ハンカチはないが、運よく大量にティッシュの持ち合わせがある、拭いてやろう」
「えっ、ちょ、恥ずかしいよ……! 自分でできるから……!」
「すぐ終わる」
ソユリは初め嫌がるような素振りを見せていたが、すぐに観念したようで後半は顔を真っ赤に染めて俯くだけであった。
私はコートの端を掴み、ただ淡々と、ティッシュで叩く様に水滴を拭き取っていく。
この間、なんだか周りの視線が集まっているような気もしたが、さしたる問題ではなかった。
数分ほどかけてあらかたを拭き取り、立ち上がる。
「これで良いだろう、あとはすぐに乾くはずだ」
「あ、ありがとう……」
「礼には及ばない」
水分を吸ったティッシュペーパーをひとまとめにして、懐へしまいこむ。
「また何かこのティッシュが必要になる機会があれば遠慮なく言ってくれ」
「……アーテル君って普段からそんなにポケットティッシュ持ち歩いてたっけ?」
なるほど、この携帯サイズのティッシュペーパーはポケットティッシュというのか、勉強になる。
「いや、大通りを歩いていたら親切な通行人が恵んでくれた」
「ああ……なるほど……」
私の知るティッシュは医療用に用いられる貴重な資源であったのだが、大戦が終わり、物資も人の心も豊かになったということだろうか?
200年のジェネレーションギャップがあるとはいえ、まさか道行く人々が笑顔でティッシュを恵んでくれる時代になっていたとは……私もまだまだ勉強不足だ。
「こんなものを無償では受け取るわけにはいかないと代金を支払おうとしたところ、苦笑されてしまった」
「だろうね……」
ソユリもまた、ティッシュを恵んでくれた彼女のように苦笑を浮かべる。
「ではせめてどうすればこの恩に報いれるのかと食い下がったところ、それならば是非店に来てくれと勧められたのだが」
私はポケットティッシュとやらの裏面に差し込まれた、煌びやかなカードに目をやる。
カードにはこれまた煌びやかな服装に身を包んだ女性たちの姿が転写されていた。
ふむ、これが店名だろうか。
JKガールズバー、ネリデルタ……?
「アーテル君、そのポケットティッシュ、私にちょうだい?」
「ちょっと待ってくれ、今店の所在地を確認して……」
「ありがとう!」
有無を言わさず、カードごとひったくられてしまった。
そんなにポケットティッシュが欲しかったのか、言えばいくらでも譲るのだが……
「……アーテル君って、本当にそういうところズレてるよね」
「否定はしない」
何を指して“ズレている”とされたのかは分からないが、おそらく現代を生きる皆と比べれば、私は致命的にズレているのだろう。
ああ、嘆かわしきは数百年に及ぶ孤独生活。
いつか彼女らとの深い溝が埋まる日を望まずにはいられない。
「っと、そろそろ出発しようか、ショッピングモールはこの広場を抜けてすぐだから」
「了解した」
ともかく、学内だけでなく休日も含めて模範的大学生に倣い、理想のキャンパス・ライフへ近づく。
今日という日は、その溝を埋めるための第一歩だ。
私はソユリと並び、ショッピングモールとやらに向かう。
その途中で、私はふと思い返したように言った。
「そうだ、一つ言い忘れていた」
「なあにアーテル君?」
「そのコートは初めて見たな、かなり質のいいものだ、ソユリに似合っている」
「……ありがと」
ソユリはぼそりと呟いて、コートの端を握りしめた。
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