大帝国の姫、ロゼッタ
ロゼッタが召喚の儀を行なってから一週間が経った。今日も一日平穏に終わることを祈っていたが、その期待は裏切られた。
デル平原に駐留していた亜人の軍隊が、いよいよミナス要塞へと侵攻を開始したのだ。彼らは各国が篭っていた砦を陥落させ、最後の仕上げとして、この堅固なミナス要塞を選んだのだ。
先鋒は小型亜人の兎。比較的穏やかな性格の家畜だった彼らの容貌は一変している。鉄の胸当てを着こみ、手にはそれぞれが得物を構えている。何より特徴的なのはその形相だ。何かに取り付かれているかのように凶悪なものへと変化している。
中陣は鹿型の中型亜人。彼らが独自の技術で製作した投石機を押し運んでいる。何台も揃えられたそれから打ち出される岩弾は、要塞の城壁を確実に抉りとっていくことだろう。
後詰に控えるは牛型の亜人。他のどの種族よりも強靭な肉体を備え、目障りな小型亜人がいればそれを踏み潰しながら進軍している。亜人の中でも上下関係は存在するからだ。
この最後になるであろう戦を指揮するのは牛の獣王ビル。金色の武装に身を固め、いよいよ迫った勝利を目前に気を昂ぶらせていた。
「いよいよ我らの念願かなう日がやってきた。人間どもに何人の同胞が喰らいつくされてきたことか。我らの無念、彼奴らの魂にまで刻んでくれようぞ!」
「……ビル様。人間を滅ぼした後は、一体どうなるのでありましょうか」
「知れたこと。弱肉強食の時代が始まる。我らは食われる立場から食らう立場へと進化したのだ。強ければ栄え、弱ければ滅びる。分かりやすいことだ」
「……ならば、脅威となりうるのは馬族、熊族、猪族、空を支配する鳥族でありましょうか」
「たわけたことを申すな。我らの前に敵はない。この圧倒的な力の前には、何人たりとて跪くであろう!」
ビルが大剣を前方に放り投げると、先頭を進む兎の群れが千切れ飛ぶ。隣に控えていた兎の獣王が一瞬殺気を発するが、すぐに笑みを浮かべて追従の言葉を吐く。
「ビルはん、ワイの同胞を無意味に殺すのはやめてくれまへんか? ビルはんが強いって事は、もう嫌っちゅうほどわかってますんで。ほんま勘弁したってください」
「ふん、幾ら殺してもあっと言う間に増えるのだ。肩慣らしするぐらい構わぬであろうが」
「いやいやいや、そういうもんとちゃいまんねん」
「この牛の獣王たるビルの行いに、何か文句があるというのか?」
「……はぁ、まぁもうええですわ。とにかく人間との戦いはこれで最後や、ワイらも気張っていきますわ」
兎の獣王は両耳をピンと伸ばすと、てくてくと去っていった。その後を小柄な兎の獣兵たちが跳ねながらついていく。
一見道化にしか見えないが、獣王だけあって牛族の獣将程度の力を備えている。なによりの脅威はその繁殖力の高さ。それを見込んで、牛族のビルは彼らを傘下へと引き入れたのだ。ほぼ強制的に。中陣の鹿族も同様だ。
牛、鹿、兎。これらの種族が連合を組み、ミナス要塞に迫る。亜人たちにも主導権争いはある。一致しているのは人間をこの世から抹殺するということだけ。それが終われば、亜人同士の殺し合いが始まる。
ミナス要塞攻略の権利を勝ち取った牛の獣王ビルは、その争いに一歩ぬきんでた形となった。くだらぬ露払いは他の種族に任せ、一番の馳走であるこの要塞だけを狙っていたのだ。その狙いは見事に的中した。他の種族の獣王はさぞかし歯噛みしていることだろう。
(この十年の間に、我らは変わった。奪われる者から奪う者へと。弱者から強者に生まれ変わったのだ!)
獣神は牛族に類稀なる力をお与えになった。神に愛されし種族が世界を支配するのは当然である。見放された種族に待つのは滅亡だ。
「次の世界の支配者に相応しきは、我ら牛族。このミナス要塞攻略は、それを盛大に祝うものとなるであろう!」
ビルは周囲の同胞を見渡した後、天に轟くほどの大声を張り上げた。
「――全ての人間に死を!!」
『全ての人間に死を! 我らに偉大なる獣神のご加護を!!』
いよいよ間近に迫った脅威を前に、ミナス要塞の武官と文官たちは最後になるであろう軍議を開いていた。ロゼッタは用事があるから辞退すると逃げだそうとしたが、モロクに強制的に連行されてしまったのだった。
上座にけだるそうに腰掛けると対面に、白髪で隻眼の男が腕組みしている姿が目に入る。ロートラック帝国最後の将軍、ライゲンだ。既に七十を越える老体ながら、最後まで前線で指揮を取っていた勇将だ。老体に鞭打って戦い続けるその姿は、兵達の心の拠り所になっていたという。だが、先日の半島防衛戦で重傷を負い、明日をも知れぬ命だったはず。
「ライゲン、怪我はもう良いのか? 見たところ以前と変わりないようじゃが」
「はっ、まだ骨はくっついておりませんが、傷は塞がりました。何より、このようなときに寝込んでなどおれませぬ」
「そうか。妾は名目上の指導者であり、兵法など欠片もしらぬ。そなたがいれば、色々と心強い」
「不肖ライゲン、姫のご期待に添えますよう全身全霊を尽くしまするぞ」
ライゲンとの会話が終わると、中身のない軍議が始まった。武官と文官が喧々囂々とくだらぬ言い合いを繰り広げる。諦めきれぬ彼らは、いかにして現状を打破するかを必死に考えている。それは別に良いが、その案というのがひどいものだ。
要塞から打って出て奇襲を仕掛ける。要塞に篭り、援軍を待つ。要塞を捨て、南へと逃げる。ちなみに、この要塞の南には平野と森林が広がり、そこを抜けると海岸線へとたどりつく。船という船はすでに他国が脱出する際に使われてしまったので、そこが行き止まりだ。仮に脱出できたとしても行き先も帰る場所もないのだが。先に脱出した船団の食料は、そろそろ尽きるころであろうか。餓死だけはゴメンである。
そんなことをぼけーっとロゼッタが考えていると、顔を真っ赤にした文官と目があってしまった。
「姫、これは我らの存亡に関わる重大事! そのように無関心では困りまする!」
「姫はロートラック皇族最後の生き残りであらせられます。陛下の遺志を継ぐためにも、どうか皇族としての意識を身につけられますよう!」
「分かった分かった。では、妾はそろそろ用事があるので出て行っても良いかの」
ロゼッタは適当に軍議に参加したあと、戦の為の装束を用意してから食事にいくつもりだった。すでにシェラを誘っているのだ。あまり悠長に行動していると、先に食べられてしまう。
「姫! 軍議はまだ終わっておりませぬ!」
「一体何を決めるというのか。先ほどからくだらぬことを延々と話し合っていたようじゃがの」
「我らの話し合いをくだらぬとは、なんと仰せか!」
激昂する武官を一瞥すると、ロゼッタは立ち上がる。
「打って出るなど自殺行為じゃ。粘って援軍を待つなどという戯言には笑いすら浮かばぬ。それに、この要塞から逃げて、一体どこに行くというのか」
「そ、それは――」
「海の中にでも逃げ込むのかの? もしかすると海の下にも都があるかもしれんが、妾は遠慮しておきたいところじゃ」
「それでは間近に迫る亜人を相手に、姫は如何にして戦われるおつもりか! 良策があれば是非我らにお聞かせ願いたい!」
武官、文官たちの目がロゼッタに集中する。
「そのようなもの、あるわけがなかろう。先ほども申したとおり、妾は兵法など知らぬ。だが、一つだけは分かっておる」
ロゼッタは言葉を切り、全員を見渡した後、穏やかに微笑んだ。
「もうどうにもならぬということじゃ。大ロート帝国最後の指導者としてできるのは、民や兵を如何に死なせてやるかということであろうな」
「ひ、姫」
言葉を失う武官たち。ロゼッタは先ほどから沈黙を保っていたライゲンを見やり、命令を与える。
「防衛指揮はライゲンに一任する。帝国最古参のその力、妾にも見せてほしい。父上への良い土産話となろう」
「はっ。姫の盾になれるとは、光栄の極み。道案内はこの老骨にお任せ下され」
ライゲンが深々と頷く。
「文官どもは要塞の民たちに短剣と毒薬を配る手筈を整えておくように。老人、女子供分け隔てなくじゃ」
「そ、それはッ!」
「早とちりする者がいるとまずいからの。妾が命令するまで配るのは厳禁じゃ。……妾が最後の命令を下したら、要塞の裏門を開け放つことを許可する。無理強いするつもりはない。最後ぐらい全員好きにするほうが良い」
場に静寂が訪れる。ロゼッタはモロクを連れて退出しようとする。だが、扉の前で一度振り返ると、家臣たちに声をかけた。頭を深々と下げながら、良く通る威厳に満ちた声で。
「最後まで役に立つ事ができず本当にすまなかった。ここまでついてきてくれたそなたらの献身と忠誠に、心から感謝する」
ロゼッタがモロクとともに部屋へと戻ると、侍女たちが準備を整えて待っていた。最高指揮官として振舞うため、戦装束を身につけなければならない。
侍女の助けを借りて新品の軍服に腕を通し、作りの良い剣を渡される。剣術など習った事がないので、非常に重く感じる。軍服にしたのは、鎧をつけてはとても身動きできそうになかったからだ。
最後に大ロートの象徴、鳳凰の飾りがついた大兜を被らされる。非常に重く、思わずふらつきそうになるが必死に堪える。最後に紋章の入ったマントをつけて完成だ。
侍女のもった鏡を見て抱いた感想は、非常に滑稽であるということだけ。夢見がちな少女が戦争ごっこでもしているかのようにしか見えない。
「姫様、仰せのとおりにカードを布袋に入れておきました」
「助かる」
「それは、あのときのカードですかな?」
「うむ。この腐れカードを捨てようと思ったのだが、幾ら捨てても戻ってくるのじゃ。ならば道連れにしてくれようと思ってな。そう決めると妾の手を離れても戻ってこようとせんのだ。なんとも珍妙なカードであろう」
愚者のカードを懐に入れる。馬鹿にされると腹立たしいが、別に愚か者であることを否定するつもりはない。愚か者でも楽しく生きる事は出来る筈だったから。
「さて」
剣を抜き放ち、構えを取ってみる。他の兵が持っているものに比べると小さいのだが、それでも片手でもつことは難しい。両手であれば斬りかかることはできるだろうが、その前にロゼッタの首は飛んでいるだろう。
「もうすこし時間があれば、もっとよいものを拵えることができたのですが。申し訳ありませぬ」
「構わぬ。妾が剣を振るう機会がくるということは、そういうことじゃからの」
「…………このモロク、最後まで姫をお守りいたしまする」
「腰が悪いのであろうに。無理をするでない」
ロゼッタは笑いながら剣を鞘に納めようとする。だが、手が震えて上手く入らない。震えは足、身体にまで伝染し、立っていられなくなる。その場に尻餅をついてしまったので、誤魔化すために笑おうとした。
「お、おかしいの。寒くないのに、ふ、震えが止まらぬ」
歯がガチガチと不快な音を立てる。侍女が涙を浮かべながら駆け寄ってくる。モロクは手を握った後、ゆっくりと剣を鞘に入れてくれた。
「だ、大丈夫じゃ。妾は大ロートの姫なのじゃ。だ、だから、怖くはない。ほ、本当じゃ」
同じ事を何度も繰り返すロゼッタ。本当は怖くて仕方がない。諦めたフリをして、怖くないように装っていただけ。事態を直視すれば正気でいられなくなりそうだったから。泣き喚いて叫びたい。だが、ロゼッタはこの要塞で一番偉いのだ。だから、我慢しなければならない。そう信じて演じてきた。
「妾は姫。大ロートの姫。怖くない、怖くない、怖くない」
モロクの手を借りて立ち上がったとき、要塞に角笛が鳴り響く。その時が来た合図だ。侍女達の顔が青くなり、モロクが息を呑む。 ピタリと震えが収まったロゼッタは、すくっと立ち上がりいつもの表情で指示を出す。
「……来た様じゃな。そなたたちは他の民と内壁に篭っておれ。モロク、そなたも――」
「私は姫のおそばを離れませんぞ!」
「頑固でお節介なのは最後まで変わらんの。ならばそなたの好きにせよ」
「もちろんでございます!」
「ふふ、では、いくとするかの」
ロゼッタはマントを翻して部屋を後にする。色々と時間を掛けすぎてしまった。外を走り回っていたはずの犬っころが、横に付き従う。軽く頭を撫でてやった後、要塞上層に設けられた指揮所を目指して一緒に歩きはじめた。
(……後一時間あればのう。本当に残念じゃ)
シェラと食事を楽しむ時間はどうやらないらしい。残念ながら約束を破ることになりそうだった。ロゼッタは一つだけ心残りができてしまった。