第四十一話 緑のお館にて
暖かな射しこむ陽の光に、レイは薄ら眼を開いた。目覚め前の浅い夢を見ていたようだ。二人の男が言い争っていたような夢だったのだが、それが誰で何を話していたのか記憶が漠然として定かでない。
まぶたをこすりながら身を起す。頭を振って意識を覆う不透明感を追い払う。
徐々に鮮明になっていく視覚が最初に認識したのは、漆喰の白壁にかかった一枚の絵画。霧に包まれた山並みの遠景が淡い水彩で描かれた風景画。
――霧降山脈――。浮かんだ単語が記憶を掘り起し、同時に甦る痛覚に思わず胸を押さえる。だが、魔剣で貫かれたはずの胸には何の傷跡もない。鮮血で染められていた服も麻の背嚢に入れてあった予備の服に着替えさせられている。
ここは見知らぬ部屋。自分はベッドに寝かされていたようだ。開かれた窓から春風が吹きこんで、たなびくカーテンの隙間から山桜の花弁を部屋の中に運んできた。ひとひらの花弁が目の間を通り過ぎ、ひらり舞い落ちた場所に視線を流すと、ベッドの傍らの椅子に腰をかけたまま、レイの布団にうつ伏せて穏やかな寝息を立てている長い緑髪の少女が映った。
既視感と共に彼女が無事だったことにまず安堵する。同時に微かな違和感が胸の奥に芽生える。それは自分の無力さに対するくすぶった憤りだ。
あの時、肉体はセント・クレドの支配下にあった。だが、フィルターで霞んだ、他人の肩越しから別の世界を見ているような感覚の中に、断片的ではあるが自分の意識はあった。
ウィニーを護ったのは自分ではない。セント・クレドが発現していなければ、ロベルトが駆けつける前にウィニーもトレンブルに殺されていただろう。
いや、そもそもカニャッツォに勝っていれば、セント・クレドも発現せずトレンブルと無用な戦闘にもならなかったはずだ。
あと少しだったのに。あと一歩、いやあと半歩、「虎咢」の踏み込みが深ければ、あの一撃でカニャッツォを仕留めきれていたはずだ。
自分の剣は「護る」ために在ると誓ったのに、結局、また護れなかった。
晴れない悔しさにシーツの端を握り締める。そのわずかな布の擦れる音に、身じろぎしたウィニーが小さく呻きながら顔を起こした。
そしてレイが起き上っているのを視認するなり、その首に飛びついてきた。
「いくら呼びかけても全然反応がないから心配したのよ。本当によかった…!」
「――ちょ…!」
動揺するレイに構わず、ウィニーはその身体を強く抱きしめる
「まーまー、これもご褒美だと思って静かにしてなさいよ」
「い…や、これ、息ッ……できな――肩、が――」
レイがかすれる声で訴えているのは、強く抱きついたウィニーの右肩が彼の首を押し上げるような形になって気道を塞いでいるからのようだった。
「あー、そゆこと。面白くないわね…」
ウィニーがつまらなそうに呟いて、不意に背中に回した両手を離した。抱擁から解放されたレイはむせながらも呼吸を整えてから、改めてウィニーを見た。
「…ごめん、護れなかった」
悔しさのにじんだ声で謝るレイにウィニーは笑いかける。
「なに言ってんの。護ってくれたじゃない」
「でも、あれは俺じゃなくて――」
魔剣のことをウィニーに話すわけにもいかず、レイは思わず出かけた言葉を飲み込んだ。彼女も分かっているはずだ。その時のレイが彼自身ではなかったことを。
だが、ウィニーは柔らかな笑みを崩さぬまま、力強く答えた。
「いいえ、私はちゃんとレイに護ってもらったわ」
反論を遮るような視線に射すくめられて、レイは気まずさをごまかすように部屋の中を見渡す。
「――えっと、ここは?」
改めて見ると部屋はそこそこ広い。レイの寝ているベッドは部屋の少し奥手にあり、少し離れた部屋の中央には一本卓が置いてあった。その上の瓶に活けられた白い桜草の花が、風に吹かれて小さく揺れている。
「ここは私の家よ。今は空いてる使用人の私室だから遠慮なく使ってね」
「ここがウィニーの家? ずいぶん立派なんだな…」
一般的に使用人を雇えるということは、それなりの財力と地位のある家だということだ。だが、この部屋はレイの想像する「使用人の私室」――たとえば屋根裏部屋とか日当たりの悪い小部屋とかとはあまりに違いすぎた。
部屋自体も広く、大きな窓があり、日当たりも風通しも良い。それにこのベッドも、質素ではあるが繊細な飾り彫りがしてあり、レイがふだん寝ていたせんべい布団とは比べ物にならないくらい分厚くてふかふかだ。町の宿屋でもこれくらいの部屋に泊まるとなると、それなりの値段を取られそうだった。
「そのことなんだけど――、私の方こそレイに謝らなくちゃいけないことがあるの」
急にウィニーが改まった表情で切り出した。
「ウィニー・オーヴァンスっていうのは偽名。私の本当の名前は――ウィニフレッド・ウェルシンガムよ」
「んん、何だそんなことか。なんか訳ありそうだったから本名じゃないとは思ってたけど……ん、ウェルシンガム?――って、あのバーサーストの?」
聞き覚えのある名前に聞き返すレイにウィニーは無言でうなずく。
ウェルシンガム家はエクベルト王国成立前からバーサーストを治めていた地方領主の末裔で、王国に仕える身分となった今も実質的にこの町を統治している。
アイオリス大陸には数少ない純血のウッドワイズ族で、歴代有力な魔術士を多く輩出しており、赤土の魔術師同盟とのパイプもあることから王国内では広く知られる一族だ。
また、霧降山脈越えを成し遂げフレンネルを興した北部開拓団を指揮したのが、ウェルシンガム家の先々代当主であり、その後フレンネルに定住したのも大半がバーサーストゆかりの者たちだ。その為、今でも二つの町の結びつきは強く、フレンネルでもウェルシンガムの名を知らぬ者はいない。古老の中には親しみと畏敬を込めて「緑のお館」と呼ぶものもいる。
「――まあ、別にいいや。大したことじゃないし」
しかし、レイは深く考えるそぶりもなく、その話を流した。逆に拍子抜けしたウィニーが問い返す。
「…気にしないの? この名前出すと態度が豹変するヤツが結構いるから、名乗るの嫌だったんだけど」
「ウィニーってウィニフレッドの愛称だろ。家柄がどうであってもウィニーがウィニーであることに変わりはないし。それに偽の家名――オーバス…だっけ? それもあまり覚えてなかったしなあ…」
レイが権威とか権力といった形式に興味を示さないのは、彼がその類の「誘惑」にさらされたことがないということもあるだろうが、その根源は型にはめられて束縛されることを好まない性格からだろう。
そういう懐の深さは九郎やロベルトを直感的に惹きつけさせた、彼の人間的な魅力の一つでもある。
「なっ…、オーヴァンスよ、オーヴァンス! 私の尊敬する大魔術士からとったのに。知らないの!? オーランド・オーヴァンス・クヴォー!」
だが、ウィニーが鋭く反応したのは彼の情緒よりも、わりと真剣に考えた偽名を間違えられたことだった。
クヴォーは赤土の魔術師同盟に所属する魔術士で、多少なりとも魔術をかじったことのある者なら、その異名と共に必ず一度は耳にすることになる名だ。しかし、数日前にバルバリッチャに対峙するまで魔術を一度も見たこともないレイが――
「くぼう…?? いや知らん。誰それ?」
知るはずもない。首をかしげるレイに対し、逆にウィニーは大袈裟にのけぞって驚く。
「ええー、嘘でしょ? オーヴァンス・クヴォーって言えば、あの『黒魔術士』の再来って呼ばれるほどの術士で――」
「いや知らないよ、そんな狭い業界の話」
全く興味なし、と言わんばかりに力説を途中で容赦なくぶった切られたウィニーが、憤慨した様子でさらに声を大きくした。
「業界じゃなーい! 世界レベルの有名人よ! …フレンネルってそんな情報も入らないほどド田舎だっけ?」
「おい、山一つ越えたところに住んでるやつにド田舎とか言われたくないぞ」
「むーっ、それって辺境領主の娘とかって馬鹿にしてんの!?」
「なんだよ、特別扱いされたくないんじゃなかったのか」
「ぐぬぬ、レイのくせに生意気なのよっ」
言い負かされて興奮したのか、ウィニーは言うなり再びレイに飛びついた。不意を突かれたレイはそのままベッドに押し倒される形になる。
「ぐえ……ちょ、また首に入ってるって――ってこれわざとだろ!」
「うるさーい! 私のこの豊満なボディーに魅了されて悶え死になさいよ!」
「ぐぐうぅ、わけわからん、離れろ! 俺はけが人なんだぞ!」
「なにおう、私だって一応けが人だっての! お腹痛いのに寝ずに看病してやってたんだぞー!」
調子に乗って圧しかかろうとするウィニーと引き剥がそうと抵抗するレイ。その攻防を遮るように、太い声が部屋に響いた。
「んんー、あー、お楽しみのところ申し訳ないんだがあー」
二人がベッドの上からそれぞれ上下逆さまに顔を上げると、部屋の開いた扉にもたれかかり、口元に拳をあてて咳払いをする大男がいた。
部屋の中をしばらくの沈黙が支配した。ベッドと扉の間を窓から吹き込んだ風が通り抜け、男の短い銀髪を揺らした。
二人はほぼ同時に口を開いた。
「………なんだ、ロベルトのおっさんか」
「………イヤコレ、ナンデモナイデスカラ」
レイは比較的冷静だったが、ウィニーは硬直したまま冷汗を垂らして、ぎこちない声で口を開いたり閉じたりしている。
「なんでカタコトなんだよ。おっさんもノックくらいしろよ。非常識だぞ」
「いやー、ノックしても返事がねーから入ってきたんだがなぁ」
ロベルトは下を向いて頭を掻く。しかし、その身長ゆえに顔の陰に隠れた口元がにやついていたのが、ベッドの上からでも分かった。
「――はッ、ちょっとレイ、どきなさいよっ!」
「ええー、どう見ても俺が下なんだけど…」
我に返ったウィニーがベッドから飛び降り、レイも不満気に呻きながら身を起こした。
「ま、二人ともそれだけ動けりゃ、身体の方は大丈夫そうだな。リッチモンド殿が昼食を用意してくれたから起こしにきたんだよ」
ロベルトは笑いながらベッドの傍まで歩み寄る。窓の外に見える太陽は空のてっぺんにさしかかろうとしていた。
「あー、もうそんな時間か。着替えなきゃ、めんどくさいなー」
ウィニーは物憂げに深いため息をはいた後、気合を入れるように自分の両頬を叩いて、レイの方を向き直った。
「ということで私は先に行ってるから、またあとでねー」
そう言うとウィニーはひらひらと手を振って、部屋の外へと駆けていった
「いい子じゃねーか。朴念仁にしては手が早えな」
ウィニーの姿が廊下から見えなくなってから、ロベルトがレイの方を見てにやつく。
「ちっがうわ! さっきからその気持ち悪い笑みをやめろ!」
「おうおう、ひでえ言われようだな」
むきになって否定するレイをからかって、ロベルトはますます笑う。
「――まあ、だがとにかく無事でよかった。お前を一人にしたのは俺の判断ミスだ。助けに行くのが遅くなってすまんな」
急に穏やかになったその声に、逆にレイの表情がこわばる。
「いや、いいんだ。……それより、俺は――」
沈みかけた言葉の続きを遮るように、ロベルトがレイの背中をバシンと大きく叩いた。
弾みで身体がベッドから押し出されて床の上でよろめく。
「何を辛気臭え顔してやがる。命があっただけでも十分なんだよ。それにお前はこの屋敷のご令嬢を助けたヒーローなんだぜ。主役が堂々と胸張ってねえでどうする。――ほら、行くぞ!」
ロベルトに急かされ、半ば引きずられるように手を引かれてレイは部屋を後にした。
部屋の中にぽつりと残された、一本卓上の花瓶の白い桜草。それは開けっ放しの窓からの射しこむ陽の中で、儚げな小さな影を揺らしていた。




