第四十話 浅き夢見じ
立ち込める濃霧の中を密生するシダの葉をかき分けながら谷の斜面を進む者がいる。
まるで誰かに追われているかのように何度も後ろを振り返り、つまずいて転倒し泥まみれになりながらも必死の様相で道なき道を駆け上がっていく。
その歩みが止まったのは谷の中腹、断崖の上に口を開けた、大人一人が何とか通れるくらいの幅の岩の裂け目の前。
男はしばらくの間、うつむいて落とした肩を上下させ、乱れた息を整えてから顔を上げた。
目の前にあるのは彼の根城、この霧降谷にあって、いや、このエクベルト王国にあって国家権力を拒み続けてきた唯一の安全地帯であった。だが、もはやそこは安穏の棲み家ではなくなった。
彼は騎士団よりもはるかに恐ろしい、不可侵の存在の逆鱗に触れてしまった。この谷の支配者に目をつけられてしまった以上、もはやこの山脈のどこにいても今にも閉じんとするその咢の中にいるに等しい。
「おい、バルバリッチャ!!」
心の奥底に絡みついた恐怖を、苛立ちで塗りつぶそうと男は声を荒げた。しかし、奥の闇からは何の応答もない。
分かりきっていた反応であったが、一縷の期待が裏切られたことに募る苛立ちが恐怖を覆い隠していく。その一方で湧き上がる今まで感じたことのない孤独の不安を振り払うように、乱暴な足取りで割れ目の奥へと進む。
つい先日まで響いていた手下どもがお互いを怒鳴り散らす喧騒はおろか、妬みのささやき声すらも聞こえない。静まり返った闇の中に、蹴飛ばされた小石が壁に当たって乾いた音が虚しく反響する。
フレンネルの襲撃から丸一日経っているにもかかわらず、アジトはもぬけの殻。つまり手下どもは襲撃に失敗、それも壊滅的な打撃を受けたということだ。
となれば彼を追い詰めるのは霧降谷の主だけではない。
洞窟の一番奥に備え付けられた無駄に分厚い樫の一枚板の扉を叩き開けて、部屋の中に踏み入れた。
フレンネルの自警団が二百五十名以上の野盗団に抵抗できるはずがない。歴戦のマッシュウ野盗団本隊を撃退し得るのは、エクベルト王国騎士団しかいない。
奴らが襲撃を指揮していた首領が偽者だと気付けば、すぐさま残党狩りに乗り出すはずだ。そうなれば、捕えられた手下からこのアジトの位置がばれるのも時間の問題。いずれにしても一刻も早くこの谷から脱出する必要がある。
彼は部屋の一番奥の壁にかかっているアイオリス大陸の羊皮地図をちぎるように引き剥がす。剥き出しになった土壁の一か所を押し込むと、壁をくりぬいて作られた仕掛け扉が一回転し、裏側に隠された鉄の箱が現れた。
そこに付けられた大きな錠前に、腕甲の隙間から取り出した鍵を乱暴に差し込む。錠が外れる音がして、錆と埃を散らしながら箱のふたが開いた。
「おやおや、ずいぶんとお急ぎの様子ですがどちらへ?」
突然、背中から響いた声にぎょっとして振り返ると、開いた扉の傍らに、例の道化のような赤鼻の商人がもたれかかっていた。
「…いまさら何の用だ」
いつの間に。まさかつけられていたのか。いや、そんなはずはない。焦ってはいたが何度も追跡がないことは確認したはずだ。動揺を隠すように不機嫌な声色で商人に問い返す。
「まあ、そう慌てずに。『お代』を頂戴に伺ったのですよ」
吊り下げられた廃油ランプのかすれた光で影射す青白い顔は、能面のように乾いた笑みを浮かべたまま微動だにしない。くつくつと含み笑いが湿った薄闇に響いて、その口だけが嫌に滑らかに動いた。
「――失せろ」
開けた箱の中に詰まっていたマモン金貨を掴んで投げつける。商人は足元の暗闇に乾いた音を立てて散らばったそれを一瞥もせず、動かない微笑で言葉を続けた。
「あなたの懸念を一つ払って差し上げましょう。――全滅ですよ。フレンネルに差し向けたあなたの野盗団は騎士団によって壊滅しました。あなたの思惑通りにね」
その言葉に商人との距離が一気に離れた錯覚が襲う。確かにそれは思惑通りだ。あの時、彼はその結末を想定していたはずだ。築き上げた地位も、弟も、投げ捨ててでも手に入れるに等しい対価があった。その為に立てた計画は完璧だった。予期せぬ「霧降谷の主」の出現を除いては。
「儲け話はいかがでしたか。お目当てのものは手に入りましたか?」
何を言う、分かっているはずだ。俺が一人でここに逃げ帰ってきた意味を!
追い打つような言葉に思わず声を荒げそうになった口を、まだ微かに残っていた理性が閉ざした。
――こいつは、聞き出したいのだ。あの少年が本当に古代兵器の所持者か確信を持てていない。交渉の主導権はまだこちらにある。余計な情報を与えてやる必要はない。
「――ハズレだ。あのガキは何も持っちゃいねえ。とんだ与太話を掴まされたもんだ」
一旦、飲み込んだ言葉を反転させて吐き出す。憎々しそうに苛立った演技をするだけの余裕はまだある。
「ほう、感服しますね。『幻霧鞭』を破られてもなお気丈でいらっしゃる」
「見ていやがったのか、どうやって、どこからだ」
「見ていた? ――まさか。あなたの顔にそう書いているじゃあありませんか。『復讐狂い』の視界に飛び込むほど、私は愚かではありませんよ」
完全に小馬鹿にした言いぶりだが、怒りは感じない。むしろ全く動かないその微笑に対して湧き上がってくるのは恐れ。
「あなたは廻る運命に身を投じた。もはや退くことはできないのです」
商人は離れた扉の傍にいるのに、その声は耳元で囁くように聞こえる。平生を装うとするが、心の芯にまとわりつく声に思わず叫ぶ。
「そんなことは分かっている、言われずともだ! ここから抜け出せば立て直す手段はいくらでもある。俺を誰だと思ってやがる!」
全てを捨てる覚悟はできていたはずだ。大きな見返りを求めた以上、それ相応のリスクは百も承知している。それにマッシュウ野盗団はこの国の裏社会の北半分を支配している。霧降山脈を抜ければ息のかかった末端組織はいくらでもある。彼はまだ「儲け話」を諦めてはいない。
しかし、商人はやれやれといった素振りで首を振ると、足元に転がったマモン金貨の一枚を靴の先で跳ね上げた。金貨は回転しながら宙に舞い、商人が顔の前で開いた掌の上に落ちた。
「私は『夢』を売る商人。あなたに売ったのは『幻霧鞭』ではありません。そして、あなたの見る夢のお代が悪魔では軽すぎる」
商人は金貨の乗った手をもう一つの掌で閉じた。手の甲の上で笑う口角がさらに大きく上がって、同時に視界がぐらりと歪んだ。
「申したでしょう? お支払いは『魂』で、とね」
商人は閉じた合掌をゆっくりと開く。掌から徐々に現れたのは金貨ではなく、古びた装飾のアンティークランプ。
商人はそのランプを持ち上げ掲げる。そして、一歩、踏み出した。
「やめろ! まだ俺はやれる!」
歩みに押されるように彼は後退りしながら叫んだ。湿った土壁が彼の後退を阻む。
揺れながら近づいてくるランプに火は灯っていない。しかしそれは闇の中で幽かに浮かび上がって、吸い寄せられた視線をそらすことが出来ない。
不意に心臓が跳ねる。一瞬、目が眩んで視界が傾いた。訳も分からぬうちに、下半身が崩れて膝が地に着く。
顔を上げると、商人がすぐ目の前に立っていた。視線だけが彼を見下ろして、その顔は相変わらず道化の笑みが張り付いたままだ。
彼はとっさに腰帯の下に隠し持っていた短剣を素早く抜いた。そして、その勢いのまま商人の喉笛に突き立てた。
「――!? な、ぜ、だ――」
それは現か、夢か。
短剣を突き立てたはずの場所に商人の姿はなかった。商人は彼の真横に立っていた。しかし、それは地面ではなく天井に、逆さまになってだ。
「ゆめ、ゆめ、ゆめ……、夢は、遠きまぼろし」
商人の声が耳元で囁く。身体は重い石のように動かない。
「人の一生など浅き夢に過ぎぬのですよ。本当の夢は精質の濃き選ばれた魂だけが見ることができるのです。あなたの魂はまだ練度が足りぬ様子。……かつての私のように」
気付けば能面の笑みが触れそうなほど眼前にあった。歪む視界。身体の末端から全てが奪われていく感覚。
無力、無力、無力、絶望。
「眠りなさい。不朽の鎖輪の中で、良き夢を」
最後に暗転する視界の端に彼が見たのは、取り囲む錆かけた金属の四本の支柱とくすんだガラスの鏡面。その外から覗き込む道化の笑み。そして、その後方の地面に倒れ伏せた自分の肉体。
「さて、お代はしかと頂戴しました」
商人は部屋の片隅にある大きな革の肘掛け椅子に腰かけていた。傍らのテーブルの上に置かれたアンティークランプの青白い炎が陰気に揺らめいて、土壁にその影を映し出している。
「まったくもってお客様は神様――、いやいや、冗談ですよ」
上機嫌だった商人の口調が突然、弁明に変わる。
「良き商人は成果に対して謝意を示さねばなりません。例えそれが本心でなくとも、ですよ。これは商売文句に過ぎません」
商人は誰に釈明しているのか。部屋の中には漂う土の湿り気と、乾いた深い闇だけがある。
「分かっていますとも、神など存在しない。在るのはただ、―――我らが母のみ」
その声は深い深い霧に遮られて、霧降谷の中腹に開いた岩の裂け目の奥から、誰にも聞こえることはなかった。




