第三十八話 燕雀の志
全てが白霧に満たされた地衣樹の海にぽっかりと開いた広場。その中央に、四肢で大地を踏みしめる巨大な一匹のドラゴンがいた。その対面には仁王立ちした一人の少年の姿。
両者の大きさは、あまりにも違いすぎた。だがドラゴンを見上げる少年からは、その体躯の差をまるで感じさせない風格が放たれていた。
互いの表情は明確だ。ドラゴンの顔には憤怒、少年の顔には不敵な笑み。
向かい合う一匹と一人は一言も発せず、沈黙が広場を支配している。それは大気の震えさえ圧し殺す、あまりにも重厚で濃密な殺気に満ちた静けさだった。
後の先を狙っているのか。視線を噛み合わせたまま微動だにしない。レイの背後でへたり込んでいたウィニーとラッヘンも、あまりの重圧感に声一つ出せぬままでいた。
「――おいおい、何だこの殺気は。お前ら、何を始めようってんだ」
均衡を破ったのは別の声だった。
広場の奥の森からシダをかき分け、銀髪の大男が現れた。男は走ってきたのか肩で息をしながら足を踏み入れると、ちょうど二人の間に割って入るように歩み寄った。
『お前は――「金剛石」か。お前とはつい先日、百年ほど前にあったばかりだが』
トレンブルが戦闘姿勢を崩さぬまま、大きな金の瞳だけを不意の闖入者へと向けた。
「十年ぶりだよ。俺は出来ればあんたとは会いたくなかったんだがな」
数千年の寿命を持つ竜族にとっては、百年も十年も時間の感覚に大した違いはない。ロベルトは苦笑まじりに頭を掻いた。
『それはこちらとて同じこと。人払いの霧を張っておいたのだが、お前には通用せなんだか』
「いや、ちゃんと効いたぜ。おかげで谷の中をさまよう羽目になった。あんたの気配を察知してからここにたどり着くまで、丸一日かかっちまったよ」
肩をすくめ、やれやれとため息をつくロベルト。だが、トレンブルもレイも向き合ったまま緊迫した面持ちを崩そうとはしない。
『我とお前たちは決して相容れぬ存在。馴れ合う気はない。ここに来た用件は何だ』
拒絶するような言いぶりに、ロベルトは浅く息を吐いて首を振る。そしてトレンブルの質問には答えず、レイの方へ向き直って呼びかけた。
「おいレイ、お前何をする気だ。中にいる奴をさっさと引っ込めろ」
ロベルトが表に出ているのがセント・クレドであることを知りながら、あえてレイの名を呼んだのは、トレンブルが古代兵器の名を知ることが憤怒の炎に油を注ぐ行為だと理解しているからだ。
「――問答は無用。正当防衛だ」
セント・クレドもそのことを知ってか、ロベルトを一瞥もせず抑揚のない声で返す。
「そうかい。まあ、資格所持者でもない俺の言うことを聞く訳がねえか。――じゃあ、強制的に寝てもらうぜ」
言い終わると同時にロベルトが一歩、レイの方へ踏み出した。
セント・クレドが気配に顔を横へ向けた時には、その真横にロベルトの姿があった。一足で三メートル近い間合いを詰めたロベルトは、すれ違いざまに掌をレイの腹部へ当てる。掌の中心から円状に見慣れぬ文字が宙に展開された。
「な、に―――」
セント・クレドが驚愕の声を上げたが、言葉の端は途切れ、それ以上続くことはなかった。その瞳から意思が消え失せ、レイの身体は糸が切れた繰り人形のように脱力して崩れ落ちる。
ロベルトは倒れ込む前に抱え上げ、苔の地面に優しく横たえた。
『なんだ、それは。どうやって奴を封じた』
「……強制規範。俺たち原罪の騎士団員にのみ使用を許された、あんたの言う“小さき人”が編み出した対古代兵器用の術さ」
トレンブルの問いに、安らかな表情で眠るレイの傍らから立ち上がりながら答える。
原罪の騎士団員の身体に彫られた「逆磔の咎人」の紋章は、単に裏切り者の心臓を停止させるだけの烙印ではない。その真価は連盟中枢の「システム」を中継し、高度な術を発動させる魔法陣にある。
「お前が谷に引き篭もっている間にも、人は進歩し続けている。古代兵器を御せるくらいにはな」
『その術、「強制規範」と言ったか。――所詮は我らが「法」を模倣しただけの紛い物に過ぎぬではないか。その程度の支配で人が古代兵器を御すなど、驕りにも程がある』
吐き捨てるようなトレンブルの口調にも、ロベルトは肩をすくめた。
「そうか? 俺は人が術を編みだしてから数百年でその領域に達したことに驚愕するがな。そんなことより――あんたのやり方は乱暴すぎるんじゃねえのか」
『始まりは何事も小さい。災いは芽のうちに完全に摘んでおかねばならぬ』
「だが、こいつは遺物管理条約に基づき連盟の帰属となっている身だ。あの大戦で多くの仲間を失ったあんたが古代兵器を憎む気持ちも分かるが、ここは手を引いてもらおう」
ロベルトの説得にもトレンブルは耳を傾ける様子はない。逆にその一言は逆鱗を撫でたようで、怒りのこもった強い語気が空間に響いた。
『分かるだと……笑止。誇りを捨て、犬に成り下がったお前たちに我が信念の何が分かるというのだ』
しかしロベルトも怯まず反論する。
「俺たちは人と共に歩む道を選んだ。いつまでも過去に囚われ、自分の殻に引き篭もっているあんたに言われたくないな」
『では問おう。お前たちの選択は世界を変えることが出来たか。「あの女」を止めることが出来たか。お前たちはこの数千年間、虚ろな生を何度繰り返した。我らの起こした過ちを小さき人に繰り返させてはならぬ。その為に禍根は全て絶たねばならぬ』
「歴史ってのは失敗の上に積み重ねられていくんだ。過去の過ちを何もかも消し去ることなんて出来るわけがねえ。人は少なくとも確実に前に進んでいる。あんたは過去に留まって今から逃げているだけだ。――それに連盟との合意を忘れたとは言わせねえぞ」
『……あれはあくまで種族の合意だ。我の意思ではない。一つの意思で動くお前たちとは違う。――たとえ世界滅ぶとも正義、執行すべし。これが我の意思だ』
「ち……相変わらずの石頭だな。それは連盟を敵に回すということか。賢者の選択とは思えんな」
前進しない問答の繰り返し。ロベルトに苛立ちの表情が浮かぶ。レイの傍らで座り込んだままのウィニーとラッヘンも、互いに状況が呑み込めぬまま会話に入る余地はない。
『お前こそ、その姿で我に勝てるつもりか』
トレンブルの嘲笑うような口調の後に、一瞬の沈黙が訪れた。
「……俺を本気にさせたいのか?」
ロベルトの眼光から放たれた微かな殺気に、トレンブルが敏感に反応して四肢を踏みしめた戦闘姿勢を取る。霧が急速に渦を巻き、その巨体を包み込んでいく。再び広場に緊迫感が充満し、不穏な重い空気が漂い始めた。
「――双方、待たれよ!!」
またもや沈黙を破ったのは別の大声だった。
両者がその方を向くと、ロベルトが現れたのと同じ広場の端の森の奥から、全身甲冑に身を包んだ男の姿があった。
『……ギアッツ坊か……まったく招かざる客の多いことよ』
その赤い顎ひげを蓄えた壮年の男に見覚えがあるらしく、トレンブルがうんざりしたような口調で一瞥する。
「大公殿、そのようにおぞましい殺気を全身に纏われて、いったい何をなさるおつもりか。霧中の賢者の名が泣いておりますぞ」
威厳のある声が広場に通る。手にしているのは全長三メートルはある長大な銀の馬上槍。男の名はエクベルト王国騎士団長、ギアッツ・ヘイダール。
「どうか怒りをお収め下さい。貴方にはその少年の才能に可能性を見出す寛容がおありのはず」
ギアッツは鎧を鳴らしながらトレンブルの前まで来ると、馬上槍を地に置いて膝をつき、咢の下で首を垂れた。
『坊よ、分かっておらぬ。ぬしを認めたのとはわけが違うのだ。それは小さき人が持つにはあまりに強大な力。我が責務として滅せねばならぬ過去の遺物だ』
諫言にもトレンブルは態度を変えない。ギアッツはゆっくりと立ち上がった。
「確かに貴方たちから見れば我々はあまりに矮小で無知かもしれません。ですが、非礼を承知で言わせていただく」
そして馬上槍の石突を地面に突き立て、強い意志を込めた眼でそびえ立つ灰色の巨体を見上げた。
「貴方たちが統べる者であった時代は、もう過ぎ去ったのです。遥か遥か、語り継がれた歴史も霞んで原型を留めていないほどの太古に。そして新たな秩序は小さき人の手によって創られた。ならば、人の進むべき道は貴方の意志ではなく、人の手によって定められるべきものではないのですか」
『ほう、「金剛石」ならいざ知らず、ぬしのような童まで我に説教のつもりか。まさかぬしまでも、我が憎しみが分かるなどと言うつもりではあるまいな』
トレンブルが口を開けると同時に、長い灰色の体毛から滴り落ちた大粒の雫がギアッツの額を打った。そして重く冷たい霧が頬を撫でる。頭の中に響く声に、良い感情は含まれていないようだ。しかしギアッツは瞬きひとつせず、大きな金色の瞳を見据えたまま言葉を続ける。
「燕雀に鴻鵠の志は分かるまいと? ――しかし小さき燕雀にも志はあるのです。大公殿が信念を曲げぬというのなら、それは私とて同じこと。彼は何も害をなしたわけではありません。私はこの国を守るものとして、謂われなき無辜の民が傷つくのを見逃すことはできません。大公殿が引かぬと言うのならば、私も引くことはできないのです」
言い終わると地面に突き立てた馬上槍を引き抜き、脇に構えた。白銀の穂先が瞬時に赤銅色へと変化し、猛炎を吹き上げる『火刑槍』へと変貌した。炎に触れた周囲の霧は、熱い蒸気となって辺りに立ち込める。
「同意だな。レイには手出しはさせねえ。あんたが無価値な闘争を望むのなら応じるしかない。それに、全に勝る個など最初から最後まで在りはしないんだ。残念ながら今も昔も秩序を保つ法は変わっていない。『大公』――将たるあんたなら分かっているはずだ」
後ろから歩み寄ったロベルトもギアッツの横に並ぶと、黒革の手袋をはめ直した拳を構えて戦闘態勢をとる。
双方の視線は中空で咬み合い、緊迫した沈黙が場を支配した。
微動だにしない二つの大きな金色の瞳からは、一切の躊躇や逡巡は感じられない。だが、ロベルトとギアッツの瞳に込められた意志の炎も、それに劣りはしていない。
三度目の長い沈黙を破ったのは、深く響く竜語。
『……ふむ、なかなか痛いところを突いてくる。「金剛石」と「火刑槍」――さすがに同時に相手をするのは骨が折れるか……』
行く手を阻む二人を交互に眺めてから、トレンブルは天を仰いだ。地面にめり込むほど踏みしめていた四肢の力がわずかに弱まり、大気を押さえつけていた重圧感が消えていく。
『仕方あるまい。言でも戦でも分が悪い。この場は引くとしよう』
トレンブルがゆっくりと視線を落とす。広場全体を包み込んでいた白霧が徐々に集まり密度を増し、灰色の巨体を覆い隠していく。
『――だが、重々忠告しておく。小さき人の手に余る過ぎた力は、やがて世界に災厄をもたらす。そうなった時は、過去を生きた者の責務として、その小さき人の子もろとも我が必ず滅ぼす』
言い終わると同時に、一陣の突風が吹いた。
トレンブルの全身像が大きく揺らいでぼやけたかと思うと、霧となって一瞬で風と共に宙に掻き消え、広場には湿り気を含んだ静寂だけが残された。
【用語解説】
『強制規範』
原罪の騎士団員の身体に彫られた「逆磔の咎人」の紋章を媒体に、大世界連盟中枢の「システム」に接続することで発現する、対象への支配権を一時的に封じる、疑似「自然魔法」。
古代兵器の精神汚染によって暴走した所持者を鎮圧するのに用いられる。




