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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第一章 始まりの物語
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第七話 亡霊たちの問答

「あの少年の名は?」


 それが彼が部屋に入って最初に口に出した言葉だ。

 家の主は彼に背を向けてしゃがみ、テーブルの下を埋め尽くしている本や書類を乱暴にかき集めている。


「――どちらのだ?」


 町長は立ち上がって、抱えた書類と本を部屋の隅の簡易ベッドの上に放り投げた後、その脇にあった二つの椅子を引きずってきてテーブルの端と端に置いた。


「金髪の方」


 ロベルトは改めて部屋を見渡した。


 床の散らかりようからすれば、他はたいしたことはない。壁が少し薄汚れていて、年期物の壁掛け時計が傾いてやや遅めの時を刻んでいるだけだ。


「ああ、あれはレイモンド・カリス。それから、黒髪の伊達眼鏡がジル・スチュアートだ」


「レイモンド・カリス、か」


 彼は椅子に座って、テーブルに肘をついてから呟いた。目の前に空のティーカップが二つ置かれる。


「何だ? レイがどうかしたのか」


 町長は蒸気を上げる銅のやかんを持ってきて、紅い透明な液体を片方のカップに注ぐ。

 ロベルトは少しの間、雨漏りの染みの付いた天井を見つめた後、煙草の火を床に落ちていた灰皿で押し潰して返事をした。


「いや、何でもない」


 確かにその通りだ。彼は田舎町の普通の、外の世界に憧れを抱く一人の少年にしか過ぎない。


 しかし彼は何かを感じていた。


 その少年は彼に初対面の違和感を覚えさせなかった。少年はずっと前から彼のことを知っていて、彼はその少年を遠い昔、見たような気がした。


 それはもう二度と会えないと思っていた親戚に、思いもしない所で再会した、そんな感覚だった。

 もう一人の眼鏡の少年とは違う、何かを彼は持っていた。


「…渋い名前だな」


 両方のカップが紅で満たされるのを待ってから、彼はそう呟いた。


「――さあ、うまい紅茶が入ったぞ。入れ方にこだわりはないが、とにかくいい葉を使っているんだ。東方帝国ユジノステイツからの輸入物で、八手(ヤツデ)印のレッドリーフと言うやつだ。積もる話は後にして、まずは疲れを癒してくれ」


 町長は自分も椅子に掛けてからそう言って、彼の前にカップを進めた。


 ロベルトは思わずカップの柄に伸ばしかけた指を止めた。


 危うく彼はここに来た目的を後回しにしてしまうところだった。


「スタール町長、いやニコラ・スタール。俺がここに来た意味が分かるな」


「――そうだ、蜂蜜(ミード)はいるかね。そのまま沸かしたから少し濃いだろう」


 彼は鋭い目で、錆びたブリキ缶のふたを開けようとしている町長を見据えた。


「安い芝居をするな」


 ロベルトは言った。


 二人の間にしばらく沈黙が流れる。


「……さて、何のことだ。私には分からんな。君が来た理由など」


 町長は重苦しく口を開いた。しかしそれはすぐ元の軽快な口調に戻った。


「ところで最後に会ってからどのくらいになる。十年か」


「……十六年だ」


「そうか。もうそんなに前のことになるか。あのころは君も、私もまだ若かったな。こんなに太ってはいなかった」


「そうだったな。あんたは立派だった。だが今は――」


 その続きを町長の声が矢継ぎ早に遮った。彼は明らかに焦っているように見えた。


「最後に会った時のことを覚えているか。あれは確かウェストホームの聖堂だったな。鎮魂歌が流れていて、弔鐘が鳴り響いていた。私は最前列の席にいて、君はその斜め後ろの席に座っていた。グリム・アイバーソンは私の隣だったかな。そうだ、エルスペス殿もおいでになられた」


「時が非常にゆっくり流れていて、とても荘厳な気分だった。その時、君に会うことはもうないだろうと思っていたから、君がここに来ると聞いたとき、私は驚いたよ。まるで――」


「死人が深い暗闇の淵から再び蘇ったかのように感じた、だろう? 本当のところは」


 その言葉に町長は再び口を閉ざした。しばらくして彼は小さく叫んだ。


「……亡霊だよ、君は。 死人じゃない、私の亡霊だ。決して消えぬ過去だ」


「そうかも知れんな」


 ロベルトは町長の言うことももっともだと納得し小さく呟いてから、少し皮肉に鼻で笑った。

 それからその笑いを隠すように、ちょうどいい温度になった紅茶をすすった。


 暫くして町長は覚悟を決めた表情で彼に問うた。


「君は『セント・クレド』を取りに来たんだろう」


「やはり分かっていたんだな。おまえはなぜ引退する時にあれを持ち出した?

 表に出ていれば秘密裁判にかけられて処刑ものだぞ」


「い、いや、違う」


 処刑という言葉に町長の体が敏感に反応して、彼は慌てて頭を横に振って否定した。


「私は持ち出したのではない。第一、セント・クレドを私のような下っ端が持ち出せるはずがないだろう。あれは預かっていたのだ」


「預かった? 誰から?」


 ロベルトは飲み干したカップをテーブルの上に置いて、怪訝な表情で問い返した。


「…それは君が一番よく知っているだろう。あのお方だよ。名前のない、あのお方だ。君はあのお方から指示を受けてここに来たんだろう? この件について、何も聞いていないのか?」 


 町長の答えに彼は愕然とした。まだ半分ほども理解できていなかったが、彼が思っていたより遙かに複雑なことになっている。


 彼は唇を噛みしめた。


「――あいつは一体何を考えているんだ。門外不出の特級危険物を勝手に持ち出させて、しかも十六年も在野に放りっぱなしにしておいたなんて、連盟の幹部が知ったらただじゃ済まされんぞ?」


「ニコラ、お前も何故、あの男からあれを受け取った。あれがどういういわくつきの代物かは知っていたはずだ」


「私だってこんなに長い間預かることになろうなんて思っていなかったさ。あのお方はすぐ取りに行かせるから、少しの間預かってくれと言ったんだ。断る訳にもいかんだろう」


「少しの間か。まあ、あいつにとっちゃ十六年なんて少しの間かも知れんが…。まったく何を考えているんだ…」


「なんだ、ロベルト。君も本当に何も知らないのか? 私は今日、君から事の真相が聞けるものだとばかり思っていたよ」


「ああ、俺にもさっぱり分からないな。突然の極秘任務で何事かと思えば、渡された指令書はたった一枚。『セント・クレドを回収せよ』としか書かれてなかったからな。それがお前によって持ち出されてこの町にあるって事を調べるだけでも苦労したよ」


 彼は言って、並々に注ぎ足した熱い紅茶を一気に飲み干した。

 町長は腕を組んでしばらく考え込んでいたが、天井につるされたランプの揺らめく光を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「その状況も私と似ているな。私もあの薄暗い地下室に呼び出されて、最後の指令だと言って、いきなりセント・クレドを渡された。驚いたよ。実物を見るのは初めてだったし、とうの昔にこの世から失せたものだと思っていたからね」


 ロベルトはその話を聞き流しながら椅子から立ち上がった。


「まあ、お前は既に隠居の身だ。よけいな詮索はしないことだな。それよりセント・クレドを渡してもらおうか。俺はあの少年には悪いが、急いで帰ってあの仮面野郎を問いたださなければならん。―――まさか、こんな雑多な部屋の中には置いてないだろうな」


「ああ、ここにはない。いや、と言うか私は持っていないのだ」


 それを聞いて、ロベルトの顔色が変わる。


「……なんだと。失くしたとでも言うんじゃないだろうな」


「いくら何でもそれはないぞ。形は変えてあったし、あれの価値を知る者など連盟の幹部でも数人しかおらん。ましてや一般人に分かるはずがない。だからあのお方はこの町を選んだのだ」


 町長はまだ手をつけていなかったカップの端に口を当ててから、続けた。


「あれは十年ほど前に人に預けたよ。私が持っているよりは安全だろうと思ったからな。彼は今もこの町に住んでいる」


「……信用できる人物なのか」


 警戒と猜疑の混じった口調でロベルトは聞き返した。

 町長は四角い蜜糖(ミード)を缶からつまみ出して自分のティーカップに落とした。


「ああ、烏丸九郎と言ってな。君も知っているだろう? 私の旧知の友人だ。

この町の北の外れにある道場に住んでいる。一軒家だから私が案内しなくても分かるだろう」


「――烏丸九郎! あの帝可御流の……。しばらくナカツでも姿を見ないと思っていたが、この町に移り住んでいたのか。なるほど、賢明な選択だな。お前が持っているよりは遙かに安全だ」


 ロベルトは言い終わらないうちに席を立ってドアに向かって歩き出した。


「俺はここで失礼する。お前がセント・クレドを持っていないのなら長居する意味はない。できれば今後お互いに顔を会わさないことを願おう」


 彼はドアを開けてから思い出したように一度振り返って、椅子に腰掛けている町長を見て言った。


「ああ、そういえばグリム・アイバーソンは死んだよ。エルスペス侯爵も随分前に公務から引かれたそうだ」


「……そうか」


 町長はそれだけ言って、深緋色のぬるま湯の中央に映った揺らめく炎をいつまでも見つめていた。



 ロベルトが町長の家を出ると、町はもう闇の静寂(しじま)に包まれていた。


 彼は小さな広場から北の方角を向いた。


 町の外れの小高い丘に木造の長屋が建っているのが見える。そこを目指して、薄暗い街灯と青白い月の光に照らされた石畳の上を歩き始めた。


 下弦の月が雲の間を見え隠れしながら、東の空の中程を漂っている。途中、彼は霧降山(きりふりやま)の方角から雄叫びのようなものが聞こえた気がして振り向いたが、そこには変わらぬ山並みが闇の中で静かに鎮座しているだけだった。

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