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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第二章 霧中のエルミタージュ
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第三十六話 エルミタージュのあるじ

「な、何なの…これは」


 地鳴りと震動が収まるとともに霧が徐々に晴れていく。薄れた霧の中、ウィニーの目の前に現れたのは、視界の全てをふさぐ巨大な緑の壁。


 よく目を凝らすと壁には凹凸があり、全体が長い毛のようなもので覆われていて、その毛の一本一本に染み苔がびっしりと垂れ下がるように生えている。


 ウィニーが自分の傷の痛みも忘れて、恐る恐る壁に触ろうとしたその時、壁全体が大きく横に動いた。


「――と、とれんぶる…!!」


 ラッヘンが怯えきった表情で後退りし、足元の石につまづいて尻餅をついた。その視線の先にあったのは、苔の濃い緑の中に浮かんだ鋭い光を放つ大きな金色の瞳。


「とれんぶる……って、まさか――」


 広場を包んでいた霧が完全に晴れて「緑の壁」の全容が明らかになった。


 高さは二階建ての建物より遥かに大きい。長さは十二メートル、幅五メートルはあるだろうか。その上にはさらに分厚い苔の層が地面のように広がり、子供の背丈ほどのシダが生い茂っている。それは「動く壁」ではなく「動く小山」。


 全体が緑の苔で彩られた長い毛でおおわれて、足元まで垂れた毛の隙間から四つの大木のような足がわずかに覗く。直径三十メートルはあろう広場の半分ほどを占める、あまりにも巨大な「生物」。


「――フォグドラゴン!?」


 フォグドラゴンは高い知能を備えた恐竜ダイナソア、ドラゴン族の中でも最大の体躯を有する種族。つまり、この世界で最も大きな動生物であり、この霧で包まれた隠者の隠れ家エルミタージュあるじだ。



 その巨体ゆえ、広場にいる者の誰一人として、その全体像を把握することはできていなかったが、フォグドラゴンの外見は一般的な「竜」とはかけ離れている。


 深い霧の中を棲み家とする彼らの体表に直射日光や外気温による体温上昇を防ぐ固い竜鱗や背ビレはなく、代わりに厚い皮下脂肪と防寒用の長い体毛で覆われている。四肢は巨体を支えるために丸太のような形状に、草食のため鋭い牙は平らな臼状に進化し、歩行に邪魔な鉤爪と不要になった翼は退化して完全に消え失せた。頭部は大きな二本角を持つ竜のそれだが、身体同様に体毛で覆われており、胴体も俵型で首も尾も短い。


 そのため竜というよりは、こちらの世界で言うヌートリアやカピバラなどの大型のげっ歯類のように見えるかもしれない。もちろん、その大きさは比較にもならないが。


 フォグドラゴンは百トンを超える巨体を揺らしながら、呆然と立ち尽くすウィニーの前を通り過ぎ、広場の中央へと進む。太い四足が苔の地面にめり込むたびに、局所的に地震のような激しい揺れが発生する。


 その視線の向く先にいるのはカニャッツォ・マッシュウ。倒れ伏せたレイに止めを刺そうと魔剣を振り上げていた彼であったが、強大な古代種族の中でも、神狼族ロードウルフ巨人族ティタニアと並ぶ戦闘能力を有するドラゴンに睨まれては、他のことに構っている余裕はない。魔剣をドラゴンの方へととっさに構え直したものの、迫り来る巨体のあまりの威圧感プレッシャーにその脚はじりじりと後退を始めている。


 ドラゴン族は旧世界を崩壊させた数千年前の種族戦争において、そのほとんどが姿を消した種族であり、翼竜ワイバーン地竜ワームなどの矮小種を除けば、現世界において生存が確認されている純血種の個体数は十体にも満たない。


 普通に・・・生活している者であれば、その生涯においておとぎ話の中でしか出会うことのない伝説上の生き物、人間の力では適うはずのない絶対的な存在である。



『忌まわしい過去の残滓ざんしを感じて呼び寄せてみたが、我が棲み家を這いまわる悪童わっぱか』


 不意にドラゴンが立ち止まり、わずかにその口を開けたと同時に頭の中に声が響いた。ドラゴンが発した「声」が耳に届いたのではない。頭に直接、言葉が「意味」として飛び込んできたのだ。


 これは竜語ジブラルと呼ばれるドラゴン族特有の言語。複雑な発声器官を持たない彼らが実際に口から発生させているのは、音として聞けば何の意味も持たないただの連続した規則的な空気の振動、音節である。


 しかし、その音節には高度な法則性があり、空気の振動を「支配」することによって音節自体が意味を宿した「言霊ことだま」として相手の耳に届き、共通の言語を持たない者にも強制的に自分の意思を理解させることが出来る。


 また、人間よりもはるかに巨大な脳を持つ竜族は、初めて聞く言語でさえ一瞬で分析し理解する。彼らは非常に高度な知能を有し、数千年の寿命の中で哲学する「飛翔するフライング)賢者(ワイズ」と呼ばれる。



「……やはりてめえか、俺たちをここへ連れてきたのは」


 カニャッツォが辛うじて言葉を発した。彼の顔を歪めさせているのはレイとの戦闘での負傷による痛覚だけではない。霧降谷を根城とし、我が庭のように掌握しているマッシュウ野盗団ではあるが、彼らが決して谷の深部には近づくことはない。


 知っているのだ。この谷の真の支配者が誰であるか。そして、それが触れてはならぬ存在であることを。


『いかにも。我が霧が空間を歪め、ここまでの道筋を造った』


 この谷の最深部にレイたちをいざなった「無色の隔絶アルト・パテル」はカニャッツォの幻霧鞭ネーベルパイチェが起こした霧ではない。あの分厚い白霧こそが、本物の無色の隔絶アルト・パテル。エクベルト王国北部で古くより語り継がれてきた人を谷底に迷わせる霧の正体とは、フォグドラゴンが発生させた「竜語ジブラルの霧」。


 竜族最大の体躯を有するフォグドラゴンは、機動力を補うために竜語をさらに高度に発達させ、音声のみでなく物質を媒体に言霊を伝達する方法を身に着けた、竜族屈指の「術士」である。


 彼らが媒体とするのは「水」。霧の竜フォグドラゴンの名の由来ともなった彼らの発生させる霧は、水分で包み込んだ範囲に竜語を伝達し事象を発生させる媒体なのだ。


『臭う…、臭うぞ。そのどす黒い刃に染みた同朋はらからの血が。…聞こえるぞ。魂を奪われた亡者の怨嗟えんさが。それ・・をどこで手に入れた』


 だが、続けて発せられた竜語ジブラルに含まれていたのは賢者としての知性ではなく、明らかな「怒り」の感情。フォグドラゴンが「それ」と呼ぶのはカニャッツォが突きつけている幻霧鞭ネーベルパイチェ


『ぬしら小さき人が古代兵器と呼ぶそれは、ふるき世の残骸、過去と共に滅ぶべき定めのもの。伸びるだけの剣ならば悪童わっぱの児戯と見逃していたが、ぬしの新たに得たそれは、小さき人の手には過ぎたる力。もはや看過できるものではない』


 金色の瞳が鋭い眼光を放ち、魔剣の黒刃を見据える。その視線に含まれているのは圧倒的な殺気。


『負の遺産は、新しき世界には不要。この手で破壊せねばならぬ。それが同じ過去を生きた者としての責務』


 ドラゴンが竜語を区切ったと同時に、その巨体を中心に薄い霧が発生して一瞬で広場を満たした。


悲しみの聖母は立てりスターバト・マーテル


 先程とは一変した慈愛の込められた穏やかな声が響いた。ウィニーは急に身体が軽くなるのを感じて自分の脇腹を見ると、裂かれた皮膚の傷が時間を巻き戻しているかのように見る見るうちに塞がって、元通りの健康的な肌が復元された。身体の奥に留まり続けていた鈍痛も嘘のように消え去っている。


 その現象はウィニーだけに起こったのではない。カニャッツォのへし折れた左腕も、捻じ曲がった金属製腕甲ヴァンプレイスごと、全く元通りに修復され、脇から肩にかけて斬り上げられた傷も一瞬で塞がって消えた。


 自分の身に何が起こっているのか。人知を超えた現象に唖然とする二人の頭に再び竜語が響く。


『傷は等しく癒した。我が憎しみが理性の壁を破らぬうちに、その古代兵器を置いて去れ』


 ドラゴンとは人間が絶対に適うはずのない存在。慎重を身上とするカニャッツォが正常な思考を保っていれば、彼の脳裏に選択肢は一つしかなかったはずだ。それは、ドラゴンの言に従い魔剣を放棄してこの場からいち早く離脱すること。


 だが、傷が癒えて先程に比べてれば精神的な余裕を錯覚してしまった彼の思考は、もう一つの選択肢を生じさせてしまっていた。


 それは「幻霧鞭ネーベルパイチェを渡さずにこの場から逃げる」という選択。


 その原因は、弟バルバリッチャと同様に彼の「目的」が古代兵器であったこと。レイの持つセント・クレドを奪えていない以上、ここで幻霧鞭ネーベルパイチェを失うわけにはいかない。さらなる力への欲望が彼の心に隙を作り、判断力を鈍らせた。そしてそれは幻霧鞭ネーベルパイチェに対する抑制力の低下でもあった。


 自制心を失った思考は瞬く間に魔剣の破壊衝動に塗りつぶされ、カニャッツォは殺意に引きずられるままに黒刃をドラゴン目がけて振り払った。


 正常な判断力を失っているとはいえ、ドラゴンを倒せるとは露にも思っていない。威嚇攻撃で生じた隙をついて、逃亡を図ろうとしたのだ。


『……愚かな』


 ドラゴンは恐るべき速度で襲い来る黒刃を一瞥し、大きく口を開いた。


 ―――竜の咆哮ドラゴン・ロアー―――


 耳をつんざく咆哮が広場に響いた。カニャッツォの身体は凄まじい音圧によって広場の端まで吹き飛ばされる。


「くッ、くそッ…!」


 慌てて立ち上がり体勢を立て直し、再び幻霧鞭ネーベルパイチェを振り上げたカニャッツォだったが、次の瞬間、黒刃の刃先から網目状に無数のヒビが剣全体に走り、破裂するように粉微塵に砕け散ったのだ。


「ば…かな――」


 絶句するカニャッツォの手元にわずかに残った柄の断片も、風化した砂岩のように崩れて砂となり、指の間から苔の地面に落ちて消えた。


『消えよ、悪童わっぱ。我が目的は達した。もう貴様に用はない。それともその身体も同様に砂となりたいか?』


 ドラゴンが声と共に一歩前に脚を踏み出した。脳に直接響く竜語と地鳴りがカニャッツォの精神を押し潰し、悪寒が彼の全身に冷汗を吹き出させた。


 頼み綱の魔剣を粉砕されたカニャッツォの心は完全にへし折られていた。生まれて初めて味わう絶望的な恐怖に顔を引きつらせ、がくがくと震えながら意味を成さぬ絶叫を上げて、なりふり変わらず広場の外の森に向かって駆け出した。


そして、そのまま深い霧の中に姿を消し、二度と現れることはなかった。その後、彼を見たものは誰一人としておらず、マッシュウ野盗団はここに事実上、消滅した。


【更新情報】

『56テールズ人物紹介』№18 【ギアッツ・ヘイダール】、№19 【ウィニー・オーヴァンス】の紹介文及びイラストを修正しました。併せてご覧くださいませ。

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