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56テールズ ~聖杯の伝説~  作者: 曽我部穂岐
第二章 霧中のエルミタージュ
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第三十五話 足跡

 時は、丸一日ほどさかのぼる。


「おーい、レイ! 待たせたなー」


 ぼさぼさの銀髪頭の大男が剣草の繁みをかき分けて、尾根の広場に足を踏み入れた。


「ちょっと水汲みに行くだけのつもりだったが、うまそうなアケビが近くの木になっていてな。取りに行ってたら時間食っちまって―――って、いねえな…」


 ロベルトは大きな右手に下げた竹の水筒といくつも実がなったアケビの蔓を掲げて辺りを見回したが、広場の中には誰もおらず、時たま吹く風が四葉草の絨毯を静かに揺らしているだけだ。


「あれほどここから動くなと言ったのに仕方のない奴だな。…小便でも行ったのか?」


 首を傾げながら、広場の中へと歩を進めたロベルトだったが、すぐに違和感を覚えて眉をしかめながら立ち止まる。そして、静かに目を閉じると大きく鼻から息を吸った。


 急速に敏感になった嗅覚が捉えたのは、立ち上がる下草や風が運んだ桜の匂いに雑じった、この広場全体を漂う微かな「歪み」。それはこの世界の法則を異能の力をもって捻じ曲げた時に発生する、魔素と呼ばれる世界の歪みだ。


「ちっ…、あの時の魔術士か。――いや、違うな」


 レイのセント・クレドを狙っている野盗団の魔術士の貧相な顔が脳裏に浮かんだが、すぐに思考がそれをかき消す。


 人間が魔術で空間支配を及ぼせるのは自分の体表から数センチメートルの範囲だ。しかし、魔素は広場の至る所に感じることが出来る。これだけ広範囲に魔素が広がっているということは、人の力を超えたものの仕業だ。


「古代兵器――魔剣を使うとかいう兄の方か」


 だがそれも妙だ。彼の記憶の中の賞金首リストに間違いがなければ、マッシュウ野盗団首領「カニャッツォ・マッシュウ」は、自在に伸びる魔剣「奇術師エル・マーゴ」を操るという古代兵器使い。おそらく古代兵器に主として認められた資格所持者。その首に懸けられた懸賞金はマモン金貨五百枚。


 犯罪者の懸賞金は各国の申請に基づいて大世界連盟治安機構が設定する。賞金の金額はその犯罪者の危険度を示すものであり、百五十マモン程度が平均額であるが、古代兵器の所持者であった場合、その金額は跳ね上がる。


 それはこの世界の秩序に対する脅威の評価額であり、五百マモンというのは古代兵器を使役する賞金首に懸けられる最低金額である。マッシュウ兄弟の弟、バルバリッチャに懸けられた三百六十マモンという金額も決して低いものではないが、五百枚の壁とは大きな危険度の隔たりがある。


 しかし、古代兵器回収を専門とする原罪の騎士団ペカド・オリジナルズの団員であるロベルトからすれば、五百マモンの賞金首とは最低ランクの危険度であり、所持している古代兵器も量産された指定遺物ランクC級の武器だ。


 しかし、この広場全体に魔素を充満させるほどの現象を発生させることのできる古代兵器は、間違いなく指定遺物ランクB級以上に位置づけられる、固有能力持ったもの。


「そいつの古代兵器の能力を連盟が見誤ったか、あるいは……」


 いすれにせよ、レイのセント・クレドを奴らが狙っているのが明確である以上、事態は最悪だ。レイはセント・クレドを使役しきれておらず、また古代兵器に対する対処方法も知らない。この状況で彼を一人にするのは危険すぎる。確証を得ない詮索をするより彼を探す方が先だ。


 ロベルトは広場の中央まで歩を進めると、そこにレイが寝ころんでいたと思しき四葉草の凹みを見つけて、手を地面に当てた。


「微かだがまだ人肌のぬくもりはある。魔素の残留濃度から考えてもそう遠くへは行ってねえはずだが……」


 周囲の地面が踏み荒らされた跡はなく、彼が慌てて動いたような形跡はない。つまり突然、何者かに襲撃されたのではなく、何か異常な事態が発生し、自分の意思でこの広場を離れた可能性が高いということだ。


 そうだとすれば、あれほど動くなと釘を刺していた以上、いくらレイとはいえ自ら森の奥へと入っていったとは考えにくい。不審なことがあれば、まず街道へと戻るはずだ。


 そう考えたロベルトは広場を出て街道へと向かった。街道までは下草をかき分けて、ものの五分もかからずに到着したが、来た道とその行く先を眺めても人はおろか獣の気配すら感じられず、ただ木の葉を揺らす風が南から北に向かって通り抜けるばかりだった。


 例えレイが街道に出たとしても、ロベルトを置いて先にバーサーストに向かったとは考えにくい。そうなると、事態は思ったよりも良くないことになる。


「まさか、『無色の隔絶アルト・パテル』というやつか? 谷底へ誘われたのなら最悪だが…」


 ロベルトは任務の前にこの大陸のことについてひとしきり調べてはある。彼自身が以前、この谷の遺物調査をしたこともあり、未開拓時代の旅人を惑わせる霧の迷信についても知識はある。しかし、彼が「最悪」と懸念しているのはその「正体」についてだった。


「魔素が感じられるということは迷信やまがい物のだぐいだろうが、谷底で『本物』に遭遇する可能性がある以上、悠長に考えている余裕はねえな」


 そう呟いて再び広場へと駆け戻る。そしてそのまま広場を突っ切り、谷に向かう深い森へと分け入っていった。


 次第に深くなっていく下草をかき分けながら真っ直ぐに進んでいたロベルトだが、しばらく進んだところで、レイの残した目印に気が付いて立ち止まった。


 ちょうどレイの背丈くらいの位置の細い木の枝が切り落とされている。それは切られてからまだ時間が経っていないようで切り口にはまだ生木の湿り気がある。レイはおそらく森の中をさまよいながら、来た道を忘れないように目印に枝を刀で落としたのだろう。


 ロベルトはその目印を追いながら森の奥へと足早に進んでいく。切り落とされた枝は直線状ではなく、右へ左へ蛇行しながら少しずつではあるが確実に谷の方へと向かっていた。問題だったのは森の至る所に残る魔素がロベルトの嗅覚を妨害し、それらを探し出してたどるのに思わぬ時間を食ってしまったことだった。


 そして、ロベルトが谷へと落ち込む崖へとたどり着いた時には、霞んだ向こう岸から夕陽の赤光が差し込んでいた。


 明らかに人の手で広範囲に刈られた下草の向こうには、谷にかかっていたであろう古い橋が崩れ落ちて、垂れ下がった綱に残った橋の底板が風に揺れて軋んだ音を立てていた。


 ロベルトはシダの絡みついた橋の支柱のそばにある、大きなブナの太い幹に幾重にも結び付けられたまだ新しい麻のロープを見つけて駆け寄る。谷を満たした濃い霧の中へと垂れ下がるロープを手繰り寄せ、それが数メートル先でその先端が鋭利な刃物で切られて途切れているのを確認し、レイの身の上に何が起きたのかを理解した。


「くそっ、最悪な予感ってのは当たるもんだ。…俺が行くまで無事でいてくれよ」


レイは橋を渡っている途中で攻撃され、谷へと落とされたのだろう。ロベルトは苦々しく呟くと、崖の端へと歩を進め、そして一切の躊躇なく茜に染まった霧の海へと我が身を投じた。


 霧を裂きながら落下していくロベルトの巨躯はあっという間に深さ三百余メートルの谷底に到達し、落下地点の地衣樹の枝葉を巻き込んでへし折りながら、轟音と共に砂塵を巻き上げて墜落した。



「――くう、流石にこの高さから飛び降りると足が痛えな…」


 常人ならば間違いなく即死しているはずだが、土煙の中から平然と立ち上がったロベルトは全くの無傷で自分の足をさすりながら辺りを見回している。


 巻き上がった土埃は漂う霧の湿り気ですぐに収まり、静けさが地衣樹の森に戻った。ロベルトは注意深くレイの足跡を探すが、辺りは深い緑と霧に覆われて見る限りでは手がかりになりそうなものを見つけることはできない。少なくともここにレイの姿がないということは、彼は落下から何らかの方法で身を守り、無事に地面に着地したということだ。


 ロベルトは一つ安堵すると同時にもう一つの手がかりを思い出して手を打った。それはレイが出立の際にシトリから渡されていた二つの品物、傷薬の軟膏瓶と獣避けの匂い玉入れ。


 傷薬に使われているアセラスは地衣樹の森には生えることのない高山性の植物、匂い玉に使われている柑芸香ヘンルーダという植物も同様で、共に強い芳香がある。


 その匂いを感じ取ることができれば、レイの向かった方向が分かるはずだ。ロベルトは大きく鼻から息を吸い込んだ。


 研ぎ澄まされた嗅覚が感知したのは、清涼感の中にわずかな甘みを含んだアセラスの芳香と、柑橘系の香りが混じった樟脳しょうのうのような柑芸香ヘンルーダの微かな匂い。それは谷の端の崖沿いに霧の奥から漂ってきていた。


「……なるほど、崖伝いに高くなっている方に向かったのか」


 判断としては悪くない。地面が高くなっている方へ歩き続ければ、いずれは尾根に上る道が見つかると考えるのが普通だ。


 だが、ロベルトは知っている。この谷には常識が通用しないことを。しかし、今はレイの進んだ道を追う以外の選択肢はないのだ。


 匂いが示すレイの足跡をたどって、霧の中を進んでいたロベルトだが、レイの判断が必ずしも正しかったとは限らないことにすぐに気付いた。谷底の地形は大きな窪地や小さな窪地が連続していて、高所に向かっているつもりでも尾根へと出られるとは限らない。むしろレイが向かった方向は上り下りを繰り返しながら、徐々に谷の深みへと向かっているようだった。


 しばらくして不意にロベルトの足が止まった。目の前の封鱗木シギラリアの大木が根元から真っ二つに切られて地面に倒れていた。そして周囲には相当な濃度の魔素が局所的に漂っている。さらに辺りを見渡すと地衣樹が至る所に同じような姿で横たわり、地面がえぐれて地肌がむき出しになっている場所がいくつもある。


「ふむ、ここで何者かに襲われたようだが―――何だ、この魔素の濃度は…」


 明らかに魔術による攻撃を受けたものだと推測されるが、残留魔素の濃度からしてかなり高威力の術が連発して使われている。バルバリッチャの魔術によるものとはまた異質な魔素だ。


 弟に術素質がある以上、兄のカニャッツォも魔術を使えるという可能性もあるが、賞金首リストにはそのような情報はない。そうなると、マッシュウ兄弟以外の誰かにここで襲われたことになる。


「くそ、最悪じゃねえか。奴ら以外にもセント・クレドを狙ってるやつがいるということか?」


 幸いにも周りに流血の跡はなく、ここでの攻撃をレイは何とか凌いだことが分かるのが唯一の救いだが、予期せぬ事態にロベルトの焦燥は高まる。


 いつの間にか森を満たした夕闇が不安を一層かき立てる。這い寄る闇と共に、漂う霧も徐々にその濃さを増していた。


 そしてロベルトは気付いた。今まで周囲から強烈に主張していた魔素が、突然、全く感じられなくなったことに。


 それは、人の手によって捻じ曲げられた世界の歪みが、さらに強大な力で強制的に修復されたことを意味していた。


 漂う霧が急激に濃さを増していく。まるで闇の中に白い壁が出現したかのように、存在感、というよりは質量が感じられるかのような霧の塊が八方から押し迫ってきていた。

 

「やはり―――来やがったか。本物の『無色の隔絶アルト・パテル』が」


 霧は意志を持っているかのようにロベルトの周りだけを避けて、森を埋め尽くしていく。十秒もせぬうちに辺りの視界は全て、ほの暗い白一色で塗り潰された。


「……完全に閉じ込められたな。あちらさんが俺に気づいているかどうかは分からんが、『無色の隔絶アルト・パテル』の中を下手に動けばどこに飛ばされる・・・・・か分からねえ、か…」


 浅く舌打ちをして、ロベルトはどかっと地面に腰を下ろした。そして黒革のコートの胸ポケットから煙草を取りだし、赤燧石フリントロックで火をつけようとするが、湿気っているようで中々着火しない。諦めてそのまま煙草を咥えると、煙の代わりに深いため息を吐いて、苔生した地面に寝転がった。


「これ以上、動きようもないか。……レイが『あいつ』に鉢合わせてねえことをせいぜい祈って、今夜はここで寝るしかないようだな」


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