第三十四話 剣戟の結末
戒めを解かれた幻霧鞭は荒ぶる竜のように激しく蛇行しながら、凄まじい速度でレイに迫る。
その風圧で周囲の霧が吹き飛ばされ、レイの眼にも迫り来る黒刃が映ったが、八相に構えたままの姿勢でその場から動かない。
むしろレイは静かに目を閉じた。彼が心を静め、まぶたの裏に描くのは自分が成すべき行動の理想像。
それは九郎の「鍔鳴り」を打ち破った一撃。何千、何万回と繰り返した斬撃の完成形。
最善の行動を成すために、意識を手足の神経の末端まで行き渡らせ、間合いの内を支配するイメージを描く。
『殺意は恐れを陶酔に変えて判断を鈍らせる』
不意に脳裏に響いたのはセント・クレドの声ではなく、師の教え。
『闘いを常に恐れよ。恐れるが故の一層の覚悟を忘れるでない』
――そうだ。必要なのは覚悟。
『――汝、誰が為に剣を振るう』
心の中で師が問う。彼の答えは、一つ。心の法に依って定めた道。
「ただ、護る為に」
踏み込み。
振りかぶり。
そして振り下ろす。
無意識に身体が動き、目を開けた時には行動は完結していた。
渾身の力で振り下ろされたレイの刀は、大きな鈍い金属音を響かせて幻霧鞭の黒刃を地面に叩き落した。
「――なにぃッ!?」
必殺の一撃を破られて驚愕の声を上げるカニャッツォ。レイの身体は勢い余ってか、前のめりに崩れる。
「だが、その位置からじゃ何もできはしね―――!?」
黒刃を引き戻そうとしたカニャッツォの言葉が途切れる。倒れこむように屈んだレイの後ろから現れたのは、掌をこちらに向けたウィニーの姿。
「これが本当に最後よ…、ちゃんと護ってよね!!」
掌の中央に魔術構成が一瞬で展開され、絞り出した最後の魔力が流れ込んだ。レイは屈んだ姿勢のまま手首を返して地に付けた刃を上に向ける。
「風よ、起これッ――!!!」
地面を思い切り蹴って踏み出すと同時に、突風がレイの背中を力強く押した。
「くそッ、戻れ! 相棒!!」
弾丸のごとく撃ちだされ迫ってくるレイに、カニャッツォは慌てて幻霧鞭を引き戻す。だが、一層強くなった突風が吹き付けて、一瞬でレイをカニャッツォの足元まで押し飛ばした。
カニャッツォはレイの間合いから逃れようと体重を後方にかけたが、さらに一歩踏み出したレイの右足が、カニャッツォの軸足を踏みつけて動きを封じた。
「おおおおおッッ――!!」
気迫ともに下から刀が振り上げられる。しかし、カニャッツォもとっさに金属製腕甲をはめた左腕を差し込んで刀を受け止めた。
金属のひしゃげる音と骨の折れる鈍い音が、カニャッツオの左腕を捻じ曲げる。振り上げた刀は左腕をへし折ってなお勢いを失うことなく、そのまま薄片鎧で覆われた脇腹にめり込んだ。
「ぐがああああッ――」
苦痛の声と共に弾け飛んだ鎧の金属片が飛び散り、カニャッツォの身体も後方に吹き飛ばされた。
烏丸流剣術壱ノ型「虎咢」。
槍などリーチの長い棒状武器の刺突を渾身の振り下ろしで叩き落し、穂首を踏みつけて封じながら「懐潜」と呼ばれる低姿勢からの踏み込みで相手の懐に潜り込んで斬り上げる。振り下ろしと振り上げを虎の咢に見立てた、強力なカウンター技だ。
「―――――ッ舐め、るなアアアアアァッ!!」
仰向けに倒れていくカニャッツォが天に向かって吠えた。彼の左腕は完全にへし折られてありえない方向に曲がっているが、相棒を手放してはいなかった。カニャッツォは右手で折れた左腕を無理やり引っ張り、幻霧鞭を引き戻した。
黒刃が刀を振りぬいて無防備になったレイの背中を襲う。それに気付いたレイも地面を蹴ってかわそうとする。
しかし、それは叶わなかった。黒刃はその動きを予測していたかのように直前で蛇行し、レイの身体を背面から貫いた。
心臓のさらに内側が燃えるように熱い。
視線を下すと自分の胸の中央から黒刃の刃先が、大きく突き出していた。その光景に全く現実味を感じないのは何故だろう。まるで他人の身体を見ているようだ。
何かしなければ。護らなければ。思考を行動に移そうとした。その途端、唐突に視界が暗転して、意識の糸が断ち切られた。
レイは刀を振り上げた姿勢で、目を見開いたまま、ふらふらと数歩前に歩き、そして、どさりと前のめりに地面に倒れこんだ。
「……そんな…、うそ、でしょ、レイ―――」
ウィニーが声にならぬ悲鳴を上げる。
倒れた反動で幻霧鞭が背中から引き抜かれ、傷口から短く血が吹き上がった。そして、血だまりがじわじわと地面に広がっていく。
「が、はアッ……、左腕と、あばらも何本か折れてやがる、か。 ぐ…、鎧がなけりゃ、完全に殺られていたところだったぜ……」
血反吐を吐き、脇腹をおさえてよろめきながらも、カニャッツォは立ち上がった。
そして血だまりの中にうつ伏せ、ぴくりとも動かなくなったレイを見下ろした。その目は見開かれたまま、瞬き一つせずに遠くとも近くとも分からない場所を見つめている。
「結局、魔剣には目覚めず、か。 己の技量だけで、この俺をここまで追い詰めるとはな……」
その口調には、強者に対する敬意の感情が含まれていた。
カニャッツォもまた満身創痍だ。左腕は金属製腕甲ごと肘の辺りから反対側に捻じ曲がり、おそらく肩の関節が外れているのだろう。だらりと力なく垂れ下がっている。脇腹から肩口にかけて薄片鎧の金属片が弾け飛び、そこから覗く鎧下に刻まれた大きな刀傷が、斬撃の威力を物語っている。
カニャッツォがまた少しよろめいて、嗚咽と共に血の混じった唾を地面に吐いた。しかし、すぐに顔を上げて幻霧鞭を右手に持ち替える。
地面に伸びた黒刃が引き戻され、一瞬で元の短剣の長さまで刃が縮んだ。
「だが、これで終わりだ。――しかし、これでも死んでいるとは限らねえ。俺は用心深いんでね、仕留めた奴の首は確実に落としておく主義だ」
そう言うと幻霧鞭を振り上げる。黒刃が殺戮の衝動に震えて、辺りの大気を揺らす。
「やめて―――!!」
ウィニーは抉れた脇腹に走る激痛にも構わず、その振り下ろそうとする刃を止めようと立ち上がった。震えていたラッヘンもはっと我に返り、駆けだしたウィニーのあとに続く。
「無駄だ。間に合わせはしねえ。せっかく護られた命だ。粗末にするもんじゃねえぜ」
駆けてくる二人を視界に捉えたカニャッツォが嘲笑い、その右手が無慈悲にもレイの首筋目がけて振り下ろされた。
その時だ。不意に深く濃い霧が音もなく広場に流れこんできて、四人の視界を閉ざした。
次に、地衣樹の木々が騒めき始めたかと思うと、大地が激しく揺れた。あまりに激しい揺れにウィニーとラッヘンは立ってもいられず、思わず地面にしがみついた。
ウィニーは深い霧の奥にはっきりと感じた。広場に侵入してきた巨大な気配を。
【用語解説】
『懐潜』
流派:烏丸流剣術 壱ノ型
上体を前に屈めながら大きく踏み込んで相手の攻撃をかわしつつ、その懐に潜り込んで反撃に転じる歩法。こちらの世界で言うボクシングのダッキングに似ている。
「懐潜」からの連続技として、相手の足を踏みつけて動きを封じる「虎尾踏」、胴を払い抜ける「竜驤」、柄尻で鳩尾を突く「煉牙」、脛を払って転倒させる「徒波」などがある。




